ボー・ウェステルガルド牧師

スウェーデン国教会(ルター派)

『一致と和解』

2015年「神のうちの真のいのち」ローマ巡礼でのスピーチより

一致への二つの鍵は、『神のうちの真のいのち』のメッセージによれば、愛と謙遜です。互いに愛し合いなさいという主の命令に従うならば、一致のために私たちはお互いを知り合う必要があります。私たちがここにいる理由の一つはそのためであり、こうしてお互い出会うためなのです。しかしながら、私が経験上耳にするのは、宗教改革時代以来多くの異なる伝統や教派を生んだ“プロテスタンティズム(プロテスタント主義)”はあまり良いものではないと知られていることです。

さて、こうしたプロテスタンティズムについて語るには、簡単な紹介をするだけでも20分では私には無理ですので、プロテスタンティズムの持っている特質について少しお話ししたいと思います。

マルティン・ルターが500年前、後に宗教改革として知られることを行った時、彼の中には新しい教会を始めようという意図は全くありませんでした。自分自身のカトリック教会を刷新したかっただけなのです。そして、いくつかの事柄と教会のリーダーたちに対して批判をしたのです。ルターは自分自身を良いカトリックだと、少なくとも当時彼が批判した人々よりはましだと思っていました。彼は神のイメージを回復したかったのです。そして個人の信仰の必要性を強調し、人々に母国語による聖書を与え、母国語による典礼(礼拝儀式)を示し、その他いろいろなものを与えました。ある意味、ルターは預言的な人物だったと言うことができるように思います。もっとも、彼自身が自分の主張を啓示として言及することは決してありませんでしたが。ルターは預言的な性格を持っていたのです。つまり教会の刷新に対する彼の熱望が、本質的に預言的だったということです。

新しい運動を起こすよう促されたり、結果的に新しい教会や教派を率いたりした多くの人々についても同じことが言えるかもしれません。その中に「プロテスタンティズム」と呼ばれているものがあるということです。私見ですが、プロテスタンティズムは少なくともその原点において、預言的な特質を持っていると思います。もちろん、プロテスタンティズムの中に見られるいくつかの分裂は、意見の食い違いやエゴイズムによる結果であることを知っています。そこで、私としては、ごく一般論的なことを申しあげたいと思います。

プロテスタンティズムの特質を預言的であると理解することができれば(私としてはプロテスタンティズムを「福音派のキリスト教」と呼びたいのですが)、それをありのままで評価することもできると思います。ここにおられる方々は皆、預言的呼び掛けの重要性を知っておられると思います。私たちは皆その呼び掛けの中にいるのですから。私たちは、預言的な呼び掛けが、教会のいのちにとって不可欠であることを知っています。預言的呼び掛けには、神のもとに立ち帰りなさいという呼び掛け、ゆがめられた神のイメージを回復させなさいという呼び掛け、神のみ旨に従った人生を送りなさいという呼び掛けを含みます。そしてこれらの呼び掛けは同時に、少なくともその原点において、「福音派のキリスト教」の特質でもあるのです。
従って、今度プロテスタントの人と出会ったら、よく注意して見ていただきたいのです。プロテスタントは見たところカトリックや正教徒と非常によく似ているからです。そして預言的呼び掛けを生きているという点では、同じ経験を分かち合っているということに気付いていただきたいのです。

しかしここである疑問が起きます。それは「預言者たちは新しい教会を始めなさいと呼び掛けられているのか?」という疑問です。答えは「ノー」に違いありません。預言者や預言的呼び掛けの役割とは、既存の教会を刷新させることです。しかしこうした運動によって新しい教会が起こされた場合、それは真の分裂だと言えるでしょう。分裂が起きた理由は歴史的に複雑で、誰の罪なのか簡単に言うことはできません。ですが、分裂は実際に起き、その結果、他の影響ももたらされました。

預言的呼び掛けは、ある時代の、ある状況下においてなされ、その意図はある特定の時代と特定の状況に焦点が合わされています。いくつかの事柄に焦点が合わされるため、中身が限定されるということにもなります。ですから、どのような預言的な呼び掛けであれ啓示であれ、『神のうちの真のいのち』のように豊かな内容の啓示でさえ、完全で包括的な啓示であるとは言えません。それらは教会が本来持っている預言全体に取って代わる意図を持っていないからです。

ですから、もともと預言的呼び掛けであったものが、それ自身の「体」を持つようになってしまったがために、新しい教会や教派が作られ始めたということではないでしょうか? そして自然の流れとして、そこにはさまざまな限界がもたらされます。つまりキリストが教会に与えてくださった全ての賜物のうち、いくつかの賜物が取り落とされる状態が起きるのです。だから、カトリック教会や東方正教会から見ると、プロテスタント教会は大なり小なりいくつかの要素に欠けているように見えるのです。同じように、プロテスタント教会から見れば、カトリック教会も東方正教会も、教会の最初の創立時にはなかったものが、新たに付け加えられているように見えるのです。

また一方、カトリックの神学者であるジャック・マリタン(*1)の言葉を借りれば、「枕として使うだけなら、全ての啓示(全ての賜物)を持つことが何の役に立つだろう?」ということなのです。プロテスタントが賜物を(他の教派より)上手に用いている場合があります。それは、日常生活において聖書をよく読むこと、宣教すること、賛美歌や聖歌における豊かな伝統、私たちのうちに働く神のみ業への信頼、万人祭司主義(一般信徒に重要な役割があることを意味する)の強調などが例として挙げられます。

プロテスタンティズムは貢献できる重要な美徳を疑いなく持っており、それ無しに教会の一致が完成されることはないだろうと思います。

しかしながら、同時にプロテスタンティズムには、母なる教会の豊かな伝統全体を味わう必要性、キリストがご自身の教会にお与えになった賜物全体を味わう必要性があるとも思います。また教会の持つ預言的な特質について忘れてはなりません。

ヴァスーラは時に「全ての教会はそのエゴ(自我)に死ななければならない」と言います。しかし、どの教会もその魂において死ぬ必要はありません。教会が一致を通して失うものは何もありません。正統なものが残るのです。

最後に教派の交流に関して、一つの例を挙げさせていただきます。ローマ・カトリック教会とルーテル世界連盟とのエキュメニカル活動についてですが、今から二年後の2017年、私たちは宗教改革から五百周年を迎えます。分裂したことに関して祝うべきことは何もありませんが、その代わりに何をするかというと、双方が共同で宗教改革時代の歴史について書こうということになり、『対立から交流へ』という本が書かれます。宗教改革を理解する上で興味のある方々のための小さな本です。

注(*1)Jacques Maritain(1882-1973年)フランスのカトリック哲学者。