13.ヴァスーラ・リデン 二回目の講話

神のあわれみは、神を礼拝し、賛美するために、私たちを一致のうちに結び付ける

神を礼拝し、誉めたたえ、賛美するために、今日ここで私たちを一致させてくださったあわれみ深い神に栄光を捧げます。神は、神に敬意を表し、神の聖なる王宮で神を礼拝するよう、すべての人に呼びかけてやみません。神が私に近づかれた当初から、私は自分の人生において神を第一に考えるように神から教えられました。神がおられなければ私の食卓は空っぽになってしまいますが、神がおられれば私の食卓は満たされるからです。

私たちは自分のためだけに生きるのではなく、神と他者に奉仕するために生まれてきました。私たちは神を賛美したいでしょうか? もしそうなら、あわれみ、寛容、慈愛の模範となるべきです。なぜなら、これらの王的な美徳は、いと高き方をお喜ばせするからです。なぜならそれらは神の源から来るのであり、神からもたらされるものだからです。私たちは誰の子孫なのか、私たちの父は誰なのかを心に留めておきましょう。誰が私たちを創造し、誰が私たち一人ひとりに息を吹き込み、命を与えたのかを心に留めておきましょう。私たちは皆、神の神聖な息吹を受け継いでおり、これによって私たちは皆、いと高き方の息子であり娘となるのです。私たちは実際に、王族の子孫なのです。私たちは壮麗なる君主から来たのです。私たちは天に属しているのですから、神が私たちに神の輝きをまとわせてくださるようにしましょう……

口はあっても何も言わず、目はあっても何も見ない者にはならないようにしましょう。私たちはいと高き方の大使となり、世界に平和と一致を広める神のこだまとなりましょう。今日、神の国が私たちに差し出されています。それに気づかないまま通り過ぎたり、それが私たちを追い越してしまうことのないようにしましょう。私たちはもちろん、王家の血を引いているのです。なぜなら私たちの創造主であり、父である神は王の王であられるのですから。私たちは心の中に神の光に照らされた高貴な考え、清い考えを持つべきです。

私たちの時代に平和がなく、世界に災害や疫病が起き続け、自然でさえも私たちに敵対しているのを見るとすれば、それは世界が大きな棄教に陥ったためです。世界が神に対して無関心であるために、このすべての大災害を自分自身の上に引き寄せているのです。今日の世界は、神を賛美する代わりに自分自身を賛美しています。神はすべての人間に悔い改めるよう呼びかけておられます。もし彼らが悔い改めるなら、私たちに平和の時代を与えてくださるでしょう。すべては明るみに出され、全能の神の御目の前に出されることになります。審判の日には、自分自身についてこの方に申し開きをしなければなりません。ですから、神の意志とは、愛すること、そしてゆるすことです。これが神を賛美する方法となります。これが天国への鍵なのです。

私たちの霊の目を開き、時のしるしに気づきましょう。とても多くのしるしが、イエス・キリストの再臨が間近に迫っていることを、キリストが審判のために戻って来る途上にあられることを告げています。ですが再臨の直前に、神は最後の警告として、意識の照らしを通し、私たちの魂の状態を、神の純粋な光の中で私たちの中に明らかにされることを告げています! 悔い改めない者には災いがあります! これが私たちが主の日と呼んでいるものです。それは私たちに悔い改める最後のチャンスを与えるもので、罪の状態にある私たちの魂がどれほどとてつもなく恥ずべき状態にあり、汚れているかを悟らせるためのものです。 この大いなる憐れみの行いは、私たちを屈ませ、完全に悔い改めさせるでしょう!

その後、私たちの魂は神を正しく崇め、畏敬の念をもって神を礼拝することを知るようになるでしょう。私たちは自分自身をもっと神に捧げるようになり、神もご自身をもっと私たちにお与えになるでしょう。私たちが自分のエゴと自我を減らし、自分自身を消し去って無にする一方、神は私たちの中で大きくなり、私たちを神の愛で満たすでしょう。神性に満たされて私たちの目のうろこが落ち、私たちは互いの違いを修復し、戦争のあるところに普遍的な平和を、分裂のあるところに一致を、復讐のあるところにゆるしを促すようになるでしょう。

主は1997年にこう言われました。「私の心の中にある炎があなたたちの清めとなる、これが私の裁きの実行となるであろう。これがあなたたちの覆いを取り除き、栄光の美と聖性をまとう私を見るであろう。これが、あなたたちを私のために勝ち取るための、私の愛の行いの実行となる」(1997年9月25日)

そしてこれが行われる時、愛とはいつも、真理に生きることであったことを私たちに示されるでしょう。愛の賜物が大きいほど、神の知識は完全なものとなります。私たちの神への愛が熱烈であればあるほど、私たちの祈りも熱烈になります。愛が完全であればあるほど、私たちの人生は聖なるものとなります。愛は真理を喜びとします、それは天国への私たちの入口の鍵です。審判の日には、私たちは皆、この地上にいた時の愛の尺度に従って裁かれるとイエスは言われました。

愛と謙遜をもって一致を生きるということは、感傷的な問題ではありませんし、信仰と真理を売り買いすることでもありません。それは神の御言葉を実行に移すということです。なぜなら、神の御言葉は生きていて活動しており、どんな諸刃の剣よりも鋭いからです。聖書を過去の出来事として、歴史書のように扱うのはやめるべきです。なぜならそうすることで、私たちは神の御言葉に対して死ぬことになり、こうして神の御言葉を殺してしまうからです。

時のしるしは私たちに和解を求めています。聖霊から来るこれらのしるしを私たちが退けることはできません。ある人々がしているように。それは彼らが合理主義的精神のために超自然的な感覚を失い、唯物論と目に見えるものだけを信じているからでしょうか? この呼びかけに対して何もせず、沈黙を保ち、広大な墓地の墓穴のようになるのは重大な罪です。

私たちはオープンで大胆であるがゆえに迫害されることを恐れているのでしょうか? 私としては、臆病、高慢、偏見、私利私欲の霊によって散り散りになり、引き裂かれた生気の無い墓のようになることは選びませんでした。むしろ主のご命令に耳を傾け、主のうちに留まることを選びました。なぜなら、私は聖霊の助けによって時のしるしを読んだからです。それは一致してミサの間に一つの祭壇を共に囲み、一つの声で、主はお一人であり、信仰は一つ、洗礼は一つ、そして、すべての父であり、すべての上にあり、すべての者を通して、すべての内におられる唯一の神がおられることを共に宣言するように諸教会に呼びかけています。そして「多様性の中の一致」は同様に、他の宗教や伝統を持つ人々とも兄弟的な愛を分かち合うものです。

私は神の抱擁の中に永久に留まり、すべての人を「神のうちの真のいのち」を生きるように快く引き寄せる、一致の完璧なイコンとなりたいと思います。ですから私たち全員には、平和と一致を維持するために果たすべき重要な役割があるだけでなく、義務でもあるのです。私たちの努力と犠牲によって、神が私たち全員に望んでおられる平和を与えてくださる日が来ることを、心から願っています。私たち全員がそれを切望しています。

最後に、これを皆さんにお願いして終わりにしたいと思います。神が皆さんを御心の中に隠してくださるようにお許ししてください、なぜなら、皆さんは主ご自身の神の愛する子であり、主の宝であり、神の御心にはあなたの名前が刻まれているのですから。

以上