14. ジェレマイア・フェレンズ大主教(ブラジル、ウクライナ独立正教会)

神のあわれみは、神を礼拝し、賛美するために、私たちを一致のうちに結び付ける

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう(マタイ11・28)」。私たちの主、救い主からのこの招きは、聖書に啓示されている神の教えと御業のすべてをこだましています。神の呼びかけを受け入れた人、あるいは単に神の人類に対する愛の恵みに心を打たれた者でなければ、誰が神のあわれみをよりよく証しできるでしょうか。私たちを一致させる神のあわれみを体験したキリスト者たちが、同じ志を持つ人々と生まれて初めて対面したとき、主にあって大いなる喜びをもってこう宣言することがよくあります。「私たちは昔から知り合いだったようだ!」と。兄弟姉妹であるという感覚は神のあわれみの実りです。神のあわれみが私たちを一致させるという経験を持つのは、すべてのキリスト者に共通だからです。このようにして、私たちは神を礼拝し、たたえることができるようになります。

読者、聴衆の皆さんに、神のあわれみを啓示する主な源泉である聖書を通して、私と一緒に短い散策をしていただきたいと思います。

聖書のテキストは、ほとんどすべての聖句において、神があわれみ深く、人類の友であり、人類の幸福と救済を心から願っておられることを、黙示的にも明示的にも明らかにしています。この真理は、聖書ではイエスの行動と言葉の中に集約されています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである(ヨハネ3・16─17)」。

預言者エレミヤは、『哀歌』の中で(3・22─23)自分の経験を明らかにしています。「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。あなたの真実はそれほど深い」。

その無限のあわれみによって、超越者──いと高き者──であられる神は、あらゆる場所と状況において人間の手の届くところにおられます。神のもとに立ち返る者、あるいは神に見つけられた者は皆、天地創造から永遠に至るまでの素晴らしい御業と御言葉のうちに示された「愛」としての神を発見します。私たちはいのちの賜物、神のかたどりと似姿を持つ人間の装い(創世記1・26─28)、数え切れないほどの賜物、すべての御業と御言葉の中に、主のあわれみの反響を知覚します。イエスが行われた奇跡や癒しはすべて、救いを必要とする人類に神のあわれみが現れたという具体的な証拠です。そしてそれぞれの戒めや神の教えは、私たちをイエスご自身である善き「道」へと導き(ヨハネ14・6)、その中で、私たちはイエスを「真理であり、命である」、すなわち救い、命を与え、和解させるあわれみの永遠の源として発見するのです。

神の寛大なあわれみは、強盗の手に落ちた人の傷を癒した善きサマリア人の行為(ルカ10・25─37)に比喩的に表れています。彼は傷ついた人に罪の結果を乗り越えさせます。

同じ神のいつくしみは、放蕩息子を迎え入れ、それまで霊的な盲目のために父の家でただの召使いとして暮らしていた長男を含む家族の一致を回復させた、あわれみ深い父の態度(ルカ15・11─32)にも現れています。

自分の罪を悔い改め、神と和解した徴税人(ルカ18・9─17)は、ゆるし、義とするあわれみ深く神聖な善性の計り知れない価値を知った後、友愛の一致のうちに生きる用意ができました。

ガダラ人の二人の悪魔つき(マタイ8・28─34)は悪霊の影響下にあり、非常に狂暴で、敵意が強く反社会的であったので、誰も彼らの住む墓のある道を通る勇気がありませんでした。しかし、神の力強いあわれみによって解放された後、彼らはあらゆる障害から自由になり、隣人たちと一致して生き、彼らとともに主を礼拝し、賛美することができるようになりました。

ヤコブの井戸でのサマリアの女との出会い(ヨハネ4・7─42)において、イエスは神のあわれみをあらゆる人間の動機に勝利させるために、宗教的、文化的、その他の障壁を打ち破るシンプルな方法を見つけました。イエスは、ただ彼女に一口の水を求めるだけで対話を始め、その結果、この女性は自分個人の真実のすべてを発見し、メシアを知る特権を得ることになりました。最初は単に「サマリアの女」として登場しましたが、後にはこのあわれみ深い対話から、「生ける水」の源泉を知る者として、「霊とまことのうちに」神を礼拝する者となるように御父から求められていることを自覚する者として現れます。神のあわれみによって変容させられた彼女は、その村のすべての住民をイエスに近づけ、イエスを信じるように引きつけることができる伝道者となります。

イエスの神のあわれみは、徴税人ザアカイの人生を根本的に変えました(ルカ19・1─10)。この背が低く罪深い男にとって、イエスを見たいという好奇心が、ゆるしの創造主を家に迎え入れ、真の回心のプロセスを実行する機会を得るという幸運をもたらしました。彼は自分自身の過去の過ちを分析し、認識し、自分自身を正し、自分が傷つけた人々を助け、補償することを約束しました。それゆえ、キリストにあって一致するために不可欠な条件である和解も起こります。

最高の、最も尊い神のあわれみの現れは、永遠の御子、私たちの主イエス・キリストによって成し遂げられた救いの業にあることは間違いありません。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります(1ヨハネ4・9─10)」。神であることをやめず、神性を何一つ失うことなく、まことの人として受肉されました。私たちの罪をすべて自ら引き受け、裁きに身を委ね、断罪され、十字架につけられ、殺され、葬られ、三日目に復活されました。あわれみ深いお方は、十字架につけられ、死ぬほどの苦しみを受けながらも、罪深い人類をあわれみ、こう祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです(ルカ・23─34)」。何という愛でしょうか! あわれみの真の意味を見てください! このような神のあわれみは、人間の知的能力の及ぶところではありません。それこそが、私たちを永遠の死の宣告を受けた状況から、主のうちに永遠の命を持つ者の状況へと導いてくれるのです。神のあわれみは、私たちをイエス・キリストにおいて決定的に義と認められる者とします。

神のあわれみはまた、劇的な形で現れます(使徒言行録9・1─30)。迫害されている信徒たちへの愛と、全人類を代表して、復活の主はダマスコの近くで天から強い光を放たれ、サウロは馬から叩き落とされ、その声を聞きました。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか?」──「あなたはどなたですか?」パウロは尋ねました。──「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる」。神のあわれみによって、キリスト者に対する最も恐ろしい迫害者でさえ、回心の過程を経て、諸国民の使徒となります。そして彼はその経験を私たちと分かち合います。「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」(ガラテヤ2・20)。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう?」……そして彼は「他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです(ローマ8・35─39)」と結論づけます。

同じあわれみ深い主が、今も私たちの間に生きておられます。個人的な経験や、キリストを信じる他の信徒の経験に基づけば、私たちは人生においてしばしば直面する逆境の時でさえ、神のあわれみが今日も私たちに現れていると確信しています。神のいつくしみはいつも、私たちに「善をもって悪に勝つ(ローマ12・21)」ために必要な力を与えてくれる至高の善なのです。

神とはどのようなお方なのか、そして神のうちの私たちのいのちの実りを表現するには、私たちの知的能力や人間的な言葉では不十分であり、不可能です。神の愛は、誰も無視したり、疎外したり、見捨てたりすることはありません。善人にも悪人にも献身します。したがって、神のうちに真に生きるキリスト者は、どんな人間に対しても決して嫌悪感を抱くことはありません。あわれみ深いキリストご自身の模範に従って、この人は親切なのです。それゆえ、私たちは雄弁に語り、神の無限のあわれみが私たちの心の中で勝利するようにしましょう。それこそが、私たちを一致へと結びつけ、今もいつも世々に、霊と真理において神を礼拝し、神を賛美するように導くものだからです。アーメン。