11. フェリックス・トッポ大司教(インド、カトリック)

神のあわれみは、神を礼拝し、賛美するために、私たちを一致のうちに結び付ける

はじめに

親愛なる友人の皆さん、

戦争、暴力と誤解に満ち、分裂し、分断されたこの世界において、あわれみ、慈しみ、優しさという人間の経験について考えることは有意義なことです。この巡礼には三つの宗教的伝統を持つ方々が参加しておられるので、これらの伝統について、私の限られた経験をもとに、深いあわれみの体験に光を当てたいと思います。それは私たち皆を一致させ、共に神を礼拝することへと導くでしょう。

キリスト教、イスラム教、仏教はそれぞれ、あわれみを概念化し実践する独自の方法を持っています。解釈の余地があるかもしれませんが、三つの信仰はすべて、あわれみが彼らに共通の神への献身の中心であることに同意しています。

キリスト教、イスラム教、仏教におけるあわれみの理解

キリスト教のあわれみの概念は、神の寛容で共感的な性格を表しています。それは神のあわれみの証拠として解釈され、神は悪い生き方をやめた罪人たちを救うことを望んでおられると解釈されます。キリスト者は、イエス・キリストの十字架上の死と復活が神の恵みを示し、彼に信頼を置くすべての人に救いを与えると信じています。

イスラム神学では、神の慈悲すなわち「ラハム」がアッラーの概念の中心です。私たちが知る限り、それは宇宙のすべてを取り込んでいます。ムスリムは、アッラーの慈悲は無限であり、さまざまな方法でそれを示してくださると信じています。イスラム教徒は、アッラーの御心に従い、罪を悔い改めることによって、アッラーの赦しを求めるように促されています。

「慈悲」と訳される仏教の「カルナ」という概念は、慈悲とあらゆる生けるものの苦しみを和らげたいという願いのことです。仏教徒が悟りへの道中で取り組む重要な特質です。仏教徒にとって、悟りを開き、輪廻転生と悲しみのサイクルから解放される鍵は、自分自身と他者に対する慈悲を育み、示すことにあります。

まとめると、慈悲は神の性格を反映したものであり、信徒たちが神や他者との関係において指針となる原則なのです。

一致の要素としての人間のあわれみの体験

人間の憐れみの経験もまた、一致の要素となり得ます。憐れみは教義や儀式を超えたものなので、普通の、人間的な体験と見なされるかもしれません。それは世界中の信仰に共通する特徴と見ることもできます。親切さが、どのようにいろいろな信仰を横断して一致をもたらす概念として機能するか、いくつかの例を以下に示します。

第一:痛みを和らげ、困っている人に思いやりを示そうという普遍的な訴えは、あらゆる信仰や背景を持つ人々を一致させる力として役立ちます。

第二:すべての宗教は、平和と癒しを達成するためには、ゆるしと和解が極めて重要であると考えています。あわれみの心は、人々が互いに赦し合い、壊れた関係を修復するよう促します。

第三:すべての宗教は、人は完全ではなく、過ちを犯すという事実を認めています。あわれみの教義は人間の弱さを認識し、お互いに優しさと寛容さを示すように信徒たちに勧めています。

第四:多くの信仰者にとって、神の恵みと救済は本質的にあわれみの概念と結びついています。

第五:多くの宗教には、他者に対して親切にし、思いやりを示し、公正であることの必要性を強調する道徳的・倫理的基準が含まれています。

つまり、多くの宗教的伝統は異なる神学的、教義的信条を持っているかもしれないが、あわれみという概念は、相互の尊敬、慈悲、調和を育むつなぎ糸として機能することができるということです。

人間のあわれみの源泉としての神のあわれみ

神のあわれみが人間のあわれみの源泉であることは一つの事実です。私たちの限られたゆるし、思いやり、あわれみの体験は神に由来します、神のあわれみは限りがありません。神の優しさに関するキリスト教、イスラム教、仏教の見解を簡単に説明すると、次のようになります。

キリスト者にとって、神の優しさは基礎をなすものです。神のあわれみの示し方は無限の愛、あわれみ、ゆるしだというのがキリスト者の神理解です。彼らにとって、イエス・キリストは神のあわれみの究極的な現れです。なぜなら彼は世の罪をあがない、すべての善意の人に救いを与えるからです。

すでに述べたように、イスラムの信仰は神の最も本質的な特性の一つとして、神の優しさ、すなわち「ラハム」を強調しています。イスラム教徒たちは、アッラーは存在するすべてのものに対して慈悲深く、思いやりがあると考えます。アッラーの慈悲は無限であり、信者も非信者にも及ぶと。

非有神論的な宗教として、仏教は慈悲の美徳を非常に重視しています。慈悲の心は人間の基本的な特質であり、それを自分自身や他者に培うことで、苦しみから解放され、悟りを得ることができると理解しています。

簡単に言えば、信仰とは、人類が調和のとれた生活を送るためのあわれみ、いつくしみ、方向性を与える高次の力、あるいは原理なのです。さまざまな信仰の信奉者にとって、こういったあわれみの理想は、信仰の、慰めの、倫理的方向性の源泉なのです。

結論

結論として、神のあわれみは、神を礼拝し、賛美するために、私たちを一致のうちに結び付けると考えます。

私たちは、神の慈悲と善のゆえに、絶対的な存在である神への賛美と崇拝のうちに一つに結ばれています。神の恵みは、すべての善意の人々をひとつにまとめます。互いの違いは脇に置き、人間としての共通の遺産を喜べるようにします。神の恵みは人の心と精神を変える力があり、感謝し、謙遜になり、礼拝するという反応を促します。神のあわれみと優しさを賛美することで、あらゆる宗教の人々が互いに近づき、世界と、人々と、神への愛を新たにすることができます。神のあわれみの結果、私たちは共に礼拝を捧げ、美しく力強い礼拝を捧げることができるのです。ご静聴ありがとうございました!