08. ヨルゴス・カワム府主教(シリア、ラタキアとタルトゥスのメルキト・ギリシャ典礼カトリック)

神のあわれみは、神を礼拝し、賛美するために、私たちを一致のうちに結び付ける

神のあわれみ

注:ヘブライ語とギリシャ語の 「ch」は、ラテンアメリカのスペイン語ではなく、カスティーリャのスペイン語での「J」のように発音する必要があります。(訳注:日本語では「ハ」と「カ」の中間のような子音です)

神のあわれみというトピックは、部分的に知られている神の側面のひとつを明らかにし、聖なる啓示に重要な柱を加えます。主権、支配、知識、知恵といった属性と同じように、あわれみもまた、礼拝者が神に近づく道を照らします。あわれみは、全能者の前に立つ人類──「あらゆる個人と人類全体」──を一つに結び付ける次元を礼拝に与えます。

1. あわれみの語彙

聖書の中で「憐れみ」という言葉が使われている箇所は、旧約聖書と福音書の二つの部分に分けると164箇所あります。この数はもちろん、名詞の「あわれみ」、動詞の「あわれむ」、形容詞の「あわれみ深い」など、この語に付くさまざまな派生形に分散しています。

この語は旧約聖書だけでも116回登場し、五書(モーセの律法)、歴史書(初期の預言者)、預言書(小預言者)、知恵の書(著作)に分散しています。特に詩篇では、全体の約3分の1に当たる51回も登場します。福音書では48回使用され、その大部分はローマの教会への手紙で、12回繰り返されています。しかしながら、マルコとヨハネの福音書を除く他の書物やヨハネの黙示録の至る所でも見られます。

一方、聖書の霊感を受けた著者たちは、「あわれみ」を表現するために三つのヘブライ語を使っています。「ヘン chen」「ヘセド chesed」「ラハム raham」です。しかしながら、彼らは「ツェダカ tsedakah」や「ヤシャ yashaa」など、関連する概念を伝えるために他の表現を用いました。彼らはこれらの言葉を通して、神の本性である弱い被造物に対する神の性質の様々な側面(「ヘン」の根源的な意味)や、被造物に対する神の「嫉妬」と「熱烈な」愛(「ヘセド chesed」の根源的な意味)を示そうとしました。最後に、被造物をその存在そのものに包含する神との関係における被造物の位置を強調しようとした(「ラハム raham」の語源の意味)。この三つの用語は、それぞれ異なる観点から、全知全能の神が人間と接する際にしばしば想定される属性であるあわれみと優しさを意味します。

紀元前3世紀初頭にアレクサンドリアのユダヤ人が聖書をギリシャ語に翻訳した時、神の「あわれみ」を表現するのに、「エレオス eleos」以上に良い言葉は見つかりませんでした。しかし、彼らは「カリス charis」(恵み、好意)や「ディアキオシネdiakiosyne」(義、親切)といった他の用語も用いました。そうすることで、もともとの家族的な意味合いを社会的な意味合いへと豊かにし、神のあわれみが人間同士のあわれみの模範となったのです。

最後に、古代ラテン語では「ミゼリコルディア misericordia」という言葉が使われました。この言葉の特徴は、特に人間の実存的な状態、すなわち創造主からのあわれみに値する哀れな存在であることを強調していることです。

2. 歴史的な枠組み

ソロモン神殿の建設後、人々がバビロン追放の災いを経験する前に送られた預言者たちの書物で、この言葉を目にすることは稀です。もしこの言葉が旧約聖書の中に出てくるとすれば、その理由は、追放から帰還した後にこれらのテキストを再解釈した祭司たちの環境の影響にあります。

民はバビロンに追放され、王国と神殿を失いました。部族が激しい敵意の中で互いに対立しているのを見るのは深い苦痛でした。このような歴史的な出来事から得た教訓は、著名な学者たちが彼らの民に教えようと努めた教材となりました。

知恵文学の中にも、こうした教えの反響が見られます。シラ書、箴言、コヘレトの言葉、詩篇などです。この「あわれみ」というテーマは、社会教育の不可欠な部分となり、あわれみとは、心を開くこと、ゆるすこと、不義を見過ごすこと、他者への博愛、慈善行為を意味するようになりました。

3. 神学的枠組み

賢明な民の指導者たちは、追放を歴史上最悪の惨事と考えました。自由もなく、王もなく、未来もなく、遺産もなく、礼拝もなく、言語もありません。自分たちの状況を考えるうちに、さまざまな形での罪が自分たちの災難の核心にあることに気づきました。彼らが逆境における混乱状態を、神を喜ばせることができなかったことと結びつけるのは当然のことでした。もし罪がなければ、バビロニアは彼らを奴隷にしたり、追放したりはしなかったでしょう。彼らがこのサイクルに囚われたことに気づき、災難が降り掛かった今、唯一の出口は悔い改めにありました。

神のあわれみは悔い改める者、神に立ち返る者の上に降り注ぎます。一方では自己批判があり、他方では自責の念があり、あわれみを求める行いがあります。この二つの手段を通じて、魂は神との最初のつながりを見いだします。なぜなら、自分は正しいと信じる魂が、どうやって神にあわれみを求めることができるのでしょうか?