預言について

(2004年12月の東南アジアでの津波災害の後)

この記事では、神がその悔い改めと愛の呼びかけを思い出させようと与えられた預言、またアメリカのツインタワーについて語られた預言、そしてほとんどが罪のない子供たちだった何十万もの命を奪い去った、今回のアジアでの津波について語られた預言について指摘していきたいと思います。

皆さんの誰もが、生き残った方々のために祈り、教会を通じての献金に参加されたことと確信しています。愛する人々を次々に失っていった様々な国籍の人々の痛みと苦しみを見るのは、特に子どもたちのことを思う時、とてもつらいことです。そして、浮かんでいた小さなマットレスの上に生後20日の赤ちゃんが乗っていた例や、スウェーデンの幼い少年が発見された例などの奇跡を前にして、私たちは畏敬の念に包まれます。

ことによると、この現象は、神のみ前に私たちがいかに無であり、私たちの人生は自分自身ではなく、神に依存しているのだということをある人々に理解させるために起こったのかもしれません。神の助けなしには、私たちには何も出来ないのです。

不幸にも、これほど大きな規模の災害が起き、罪のない命が取りさられると、罪深い人類よりもむしろ、直ちに神を非難する人々がいるものです。多くの人々にとって、これは神を思い出す唯一の時でもあるでしょう、彼らは腹を立てて神について語り、それによってさらに神の怒りを招きます。しかしながら、痛みと悲しみは時々、人々に本心でないことを言わせます。それらの失意のどん底にある人々が、主の慰めを受けることができるよう、私たちは祈らなければなりません。

ある人が一度、どうして善良な人々や子供たちが苦しみ、死にさえしなければならないのかと私に尋ねたことがありました。私は主にお伺いしました。主は答えて言われました。「もしあなた方が死ぬとすれば、それはあなた方の棄教のためだ」。つまり、私たち自身がこれらの苦しみを引き寄せているという意味です。私たち自身の邪悪さゆえに、私たちは自己を破壊しており、自然さえも自分たちに歯向かわせています。同じ質問をされた時、マザーテレサは、善良な人々と罪のない子供たちの命が奪われるのは、この人々が神の国に入る準備が出来ていたからです、と答えました。聖書の中でキリストはそれを説明されています。

「ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らの生賛に混ぜたことをイエスにつげた。イエスはお答えになった。『そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなけれぱ、皆同じように滅びる。また、シロアムの塔が倒れて死んだあの18人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも罪深い者だと思うのか。決してそうではない。言っておくがあなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びる』」(ルカ13・1-5)

『神のうちのまこと のいのち』のメッセージのように、神が語られる時、それはご自分の民に忠告を与え、彼らを御心の近くに引き寄せるためです。神が語られる時、私たちは耳を傾け、おっしゃることに敬意を払わなければなりません。神は私たちの誤りを正し、慰めを与えるために話されます。神は語られます、好むと好まざるとにかかわらず、私たちは自分たちの頑固な首を垂れて、耳を傾けなければなりません。高慢さは聞くことを拒絶する不信仰の根です。父親として、私たちの父なる神は、私たちの反逆とご自身に対する無関心を叱責されますが、励ましを怠ることは決してなく、信仰を生き生きとしたものにするために、私たちを引き上げ、希望を与えてくださいます。同時に、神はその限りない慈しみゆえに、回心して聖なる生き方をしない限り、私たちの前方には困難が待ち受けていると警告されるために、私たちのもとに来られます。神は私たちが苦しむことを好まれません、それゆえ、その限りない慈しみのうちに、私たちのもとにおいでになって警告するために、あらゆる方法を用いられます。なぜならすべての悪は、私たちによってのみ引き寄せられるものだからです、神によってではありません。

「あなたの生涯のどの日も、世代よ、私の恵みは現れ出ている。そして、私と隣人と和解させるために恵みをもたらそうと私が全人類の上に輝くように、私に耳を傾けさえするなら、彼らも人びとの間で輝くだろう……」(2003年1月6日)

私はときどき、人々が神の義を過小評価するのを耳にして、「異端です!」と叫びたくなります。神は愛の神であると同時に、また義の神でもあられるのです。聖書の中で、神の厳しさはその慈しみと同じくらい偉大であると書かれています。「私はこのメッセージが神から来たものであるとは信じません。なぜなら、それはあまりにも終末論的すぎるからです」と彼らが言うなら、私たちが行いを改めなければ何が起こり得るのかを明白に示して、神が警告されているこの時、彼らに尋ねましょう。「あなた方は、恐れることなく裁きの日に直面できますか?」ニネベのときはどうだったでしょうか? 神はヨナを通して警告を与えられなかったでしょうか。神は大きな都市のすべてを破壊することを望まれず、ご自分の預言者をその町に送られました。すると彼らは耳を傾け、断食しました。その町は破壊されませんでした。

このような例は聖書の中に多くありますが、反逆と棄教の時に神がどう対応されるかという例の一つとして、エレミヤ書4章23-28節があります。エレミヤはこう言います。
「私は見た。見よ、大地は混沌とし、空には光がなかった。私は見た。見よ、山は揺れ動き、すべての丘は震えていた。私は見た。見よ、人はうせ、空の鳥はことごとく逃げ去っていた。私は見た。見よ、実り豊かな地は荒れ野に変わり。町々はことごとく、主の御前に、主の激しい怒りによって打ち倒されていた。まことに主はこう言われる。『大地はすべて荒れ果てる。しかしわたしは滅ぽしつくしはしない。それゆえ、地は喪に服し、上なる天は嘆く』」(エレミヤ書4・23-28)

神は、私たちが神のもとに立ち帰るように、神と和解し、お互いに和解するようにと、絶え間なく警告されてきました。キリストはご自身の教会に、一致するようにと懇願されてきました。もう20年のあいだ、羊飼いたちに、悔い改めて和解し、復活祭の日取りを統一して、一致をもたらすようにと求めてこられました。全世界がその邪悪さと棄教のうちに腐敗しており、神の掟だけでなく、聖なるものすべてに背き、絶え間なく神の怒りを招いています。そうだとすれば、この暗闇の時代に、私たちを助けるために聖霊の恵みが増したからといって、驚く人がいるのはどういうわけでしょうか。しかし、暗闇はふたたび光を迫害しています。妨害、迫害、非難、あざけり、悪口、禁止、中傷がさまざまな人々の口から吐き出されました。この年月、私は神のみ言葉を証しし、世界に伝えようとしてきましたが、それらが、この使命を極めて困難なものにしています。この人々の多くは、自分たちが神に対して聖なる務めを果たしていると考えました……

聖書にはこう書かれています。
「初めに言があった。ことばは神とともにあった」(ヨハネ1・1)。「その光はまことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」(ヨハネ1・9-11)。

この年月のすべてにわたって、主は繰り返し注意をお与えになり、私たち皆のうちに真の理解を呼び覚まそうとされてきました。聖なる預言者たちがかつて言ったことを、そしてご自分の掟を思い起こさせられて。神の呼びかけは、聖母のものと同じように、悔い改め、平和、愛、一致と祈りの生活への呼びかけです。主は、道を踏み外してしまった人々すべてを照らすために、このような仕方で世においでになられ、今なお来られていますが、今日にいたるまで、主の優美なる現存を認めた人々はほとんどおらず、主の呼びかけを受け入れる人々はさらに少ないのです。主はご自分の領地を訪れて、まずご自分の民のうちに来ることを怠りませんでしたが、頑なな心を持った肉体と不信は、もう一度、愛を拒みました。今日までに、主の慈しみの呼びかけのうちに、主を完全に受け入れて悔い改め、心の中において主が統治されることを許した人々は、ほとんどいません。

今日の世界は、ちょうどファラオの時代のように、頑固さと不信仰のうちにあって、聖なるものすべてを拒絶するという態度をとっています。他の人々についても、今日の世界の人々の振る舞いは、ソドムとゴモラのものよりも悪いと主は言われます。この年月の間、キリストは、羊飼いたちの間に平和、和解と一致があるようにと、ご自分の教会に懇願されてこられました。キリストは彼ら、ご自分の者たちに話しかけてこられました。にもかかわらず、今日にいたるまで、一致は受け入れられていません。その代わりに、羊飼いたちの多くは、これらのメッセージの中で与えられたまさしく主の言葉をさげすみ、神の親密な愛をあざ笑い、「一致」という言葉を、その頑なになった心で敵とみなしています。これらの人々はまさに、破滅に瀕しているにもかかわらず、いまだに自分勝手な事をして、自分たちの道を歩み続けています。

ことばが肉となられた時、世は言を認めませんでした。言が自分の民のところにへ来た時でさえも、彼らは言を受け入れませんでした……私たちの時代、言は、すべての人間がご自分に近づくことを可能となさいましたが、多くの人々は、そのなさり方も、言われることも無視しました。その時の世界のやり方は、現在でも何も変わっていません。拒絶と不信仰、彼らが心の中に抱いているものはこれです。主はご自分の羊飼いたちに尋ねられます。

「私は皆に厳かに尋ねる。あなたたちは聖書をどうしてしまったのか? 聖書は私を映す鏡である。どうして、聖書を知っていると言いながら、私が語っているのが見分けられないのか? なぜそれほどにも簡単に真理を否定するのか? 言っておく、今与えている私の言葉の中に私を見分けられないなら、それはひとえに、聖霊が鍵となる聖書をあなたが知らず、理解もしていないからだ。もし誰かこう言う人がいたとする。「私たちはこの預言的な啓示を必要とはしない、それに、耳を傾けたり読んだりする義務も無い、聖書があれば十分で、すべての知識はそこから学べる」と。このように疑い深い者たちには尋ねよう。
「自分がどうして信じないかが分かるか、そして、なぜ無関心に心を閉ざそうとするのか分かるか? その先を探し求めない理由が分かっているだろうか?」
それはあなたが聖霊を持たないからで、聖霊は、闇から自らの光のうちへとあなたを甦らせ、霊魂を照らして、自らを顕している御父と御子が見えるようにしてくださるはずだった。聖霊は、あなたのうちに復活の息吹を吹き込んで活気づけ、こうして私のうちなるいのちを与えるはずだった。死んでいる霊魂が聖書を理解し、それを実践できるだろうか。もし霊魂が生きていないとしたら?

私の姿を鏡のように映す聖書を理解していたなら、「私にとって聖書だけで十分」とは言わなかったであろう。そう、私の子よ、聖霊を所有していないなら、聖書だけでは不十分だ。聖霊の光によってはじめて、黙示録が理解でき、その時、封印され、不可解な神秘に見えた聖書のすべてが、知ることができるものとなってはっきりしてこよう。聖霊が知識の鍵を与えてくれるがゆえ」(2001年11月13日)

後に、別の呼びかけの中で、キリストはご自分の羊飼いたちに尋ねられます。
「あなたの日々に私は語っているのに、羊飼いたちが耳を傾けず、私が介入しているのを信じないとすれば、聖書で言う通り、『私たちの見張りは、目が見えず、何も気づかない……彼らは皆自分の好きなようにし、それぞれが自分の利益を求めている』」(2002年8月7日)

さらに、神の代弁者たちにはこのように言う人がいます。「もし神に遣わされ、あなたの言う言葉が神に由来するなら、自分自身とこうした言葉を全部隠して、自らの謙遜を証明しなさい。世界中を巡って、自分とその言葉を見せびらかすのはやめなさい」(2002年8月7目)

しかし主は言われます。
「こう言う人たちには、このように答えるがよい。
『私は自分のタラントをしまい込んで 何もしなかったと非難される悪い僕のようにはなりません。その逆に、お任せ下さったお方に栄光を帰して、私のタラントを倍にふやします。この驚くべき不思議を今の世代に、私が伝えるだけではなく、将来の世代に向かっても、天使たちが神のみ言葉を運んで、上から雨あられとまかれた種子のようにひろめ続けるでしょう、神の被造界を新たにし、教会を美しく飾るために。神の子どもたちの口を喜ばせ、その口を開いて神を賛美させるために。ご自分の子どもたちの目を開き、心を吟味できるようにさせて。私は全身を主の聖なる名によって封印されているので、恐れません。私は主が伝えて下さったと同じ真理を宣言する、声高に話す主の書物です。従って、何も新しいものはなく、私自身に由来する何か新しいものもありません、兄弟たちよ、私に言われたことは全て、聖なる知識に由来し、三位一体の神の口より発せられたものです』
彼らには私の名によってこう述べなさい」
(2002年8月7目)

こうした言葉にもかかわらず、彼らは迫害し続け、神のみ言葉がご自分の被造物に知られるのを禁じ続けています。神がニネベになさった時と同じように、多くの国民を悔い改めさせ、回心、信仰へと導き、神をなだめることができるみ言葉を。ここにもう一つ別の警告があります。

「( … )我が訪れをまだ受けていない人たちには、多くの責め苦が待ちかまえている、彼らの上にも主の日は来よう、そしてそれはどんな日となるか! あなたが悔い改めさえすれば、私の憐れみを直ちに示そう……私は憐れみを示して、天が地上のあらゆる場所よりあなたたち皆を集める。しかしその前に、この愛の賛歌の著者である私が言っておく、この邪悪な世が私の方を向き、悪を愛で返さない限り、あなたたちに起こり得ることは、浄化の歴史の中でも記録に残るほど際立つものとなろう! 熱烈な悔い改めがない、真実の良心の呵責もない……国民は騒然とし、その業績は不信仰の度合いを示している……真の悔い改めの叫びが聞かれないなら、地上の全てが苦しもう。ああ、そして平和を壇上から宣べる者たちは、いかにして、どうやって彼らの間に平和を確立したらいいのか、まさにこの者たちが我が掟を破り、私と争っているようでは、正気で平和を実現できると、どうして期待できようか?」(2002年9月30日)

1991年9月1目、アメリカでツインタワーの大惨事が起こるちょうど十年前、主はご立腹されて地上をご覧になり、こう言われて私たちに警告されました。
「そして私としては、我が目で今日の世界を見おろし、国たみの間をたずね歩き、霊魂を次々と調べては、温かみ、寛大さと愛が少しでもないかと探し求めている、だが極めてわずかな人しか私の好意に浴していない。ほんのわずかしか、わざわざ聖なる生き方をしようとは思っていない。しかし日々は過ぎ去り、大いなる裁きの日まで時間は数えられている。私の町々(霊魂)は娼婦の町になってしまった! 無惨にも! 悪魔たちの要塞と化し! 中は虫に喰われて腐り果て! 毒蛇とサソリの隠れ家になっている! 我が清めの火をこれら反逆の徒に、どうして吹きかけないでおられよう?

(イエスは突然声の調子が変わられ、数秒間をあけて、私を畏怖させるような重々しい調子でこう言われました)

──地上は震えおののこう── そして塔のようにそそり立つ悪は、どれも崩れて塵の山となり、罪咎つみとがほこりの中に埋もれよう! 天上では、天が揺さぶられ、地の基も揺れ動く! 御父のみ手が冬に下されないように 祈りなさい。島々、海と大陸は、雷鳴と炎をともない、思いがけない時に私の訪れを受ける。私の最後の予告の言葉を注意して聴き、まだ時のあるうちに耳を澄ましなさい。私たち(イエスとマリア)のメッセージを読み、天が語っている時は、もうこれ以上軽蔑して耳を貸さないままではいないように、声を低くするなら、私たちの声が聞こえてこよう。判断を下す前によく考えなさい。聖霊の御わざを批判する前に、さらによく考えなさい。聖霊をあなどり、おおやけに冒涜する者は誰も容赦しない。義によって黄泉よみの国に落とされよう。我が聖なる顔を探し求めて皆天を仰ぎ、観想しなさい! 目を天に上げるなら滅びない。悔い改めなさい! そして御父に思いとどまっていただくよう願いなさい。間もなく、あとわずかしたら、天は開いて審判者をあなた方に示そう」(1991年9月11日)

2001年9月11日、多くの生命が奪われたツインタワーの崩壊に、世界は恐怖に怯えました。被害者のうち多くは罪のない人々でした。恐ろしい終末的な光景が世界に示されましたが、私たちを不意に襲ったこの恐怖にもかかわらず、心から神に立ち返って悔い改めるどころか、世界は以前にもまして悪くなり、戦争の準備を始めました。私たち自身の過ち、罪悪、犯罪、棄教、そして世界が神を拒絶していることによると理解せず、私たちは神が示されていた道よりむしろ、サタンの言うことに従い続けています。1991年12月24日、キリストのご降誕の前夜、キリストは大変ご立腹されて、このメッセージを与えられました。

「今日は平和の条件と愛のメッセージを携えてやって来た、しかし指し示す平和を地球は冒漬し、与えようとしている愛はこの我が誕生の夜に嘲られ、冷やかされている。近頃は、私の聖なる名を抜きにして人類は祝っている。聖なる私の名は廃止され、誕生の日はレジャー用の大休日となり、偶像が崇拝されている。サタンは私の子たちの心に入ると、弱く眠っているのを見つけた。私は世に警告してきた」

キリストの降誕という本当の理由を思い出すこともなしに、家族が集まってクリスマスを祝うことは、キリストの怒りを招くということを私たちに示されています。クリスマスには、すべてのキリスト者は喜んで教会に行き、主の聖なる御名を褒め称えて、キリストの降誕を祝うことを求められています。棄教した多くの人々は、その代わりに、クリスマスツリーを称えて崇拝し、贈り物を交換しては、うんざりするまで食べ、愚かなまでに遊び楽しみます。その日の後にも、様々な警告がありました。しかし、2004年12月26日のアジアでの津波について語っていると信じるものは、この後に続く3つです。最初のものは、かなり初期の1987年9月10日のものです。

ヴァスーラ:(私はちょうど巨大な波のようにそれがやってくるのを見たとき、走って隠れようとしていました。それができないのをわかっていながら)けれど、あなたが私たちを愛しておられるのでしたら、どうしてこのようなことが? どうして?

私は愛の神として知られているが、同時に義の神としても知られている。

これを止めるにはどうしたらよいのでしょう?

今やあなた方からは途方もない償いが求められている。一致して一つとなり、互いに愛し合いなさい、私を信じ、私の神聖なわざを信じなさい、いつもあなた方のさ中にいるがゆえ。(1987年9月10日)

津波のニュースは私たち皆に衝撃を与え、愕然とさせましたが、神が私たちに警告を与えてくださらなかったとは誰にもいえません。神が代弁者としてお選びになった人々によって警告が与えられたとき、多くの人々はこう言いました。「私たちにはこの警告は必要ではない。私たちは教父たちの聖なる本から慰めを得ており、聖書も所有している。私たち犠牲と祈りのどちらも不足することが決してない、ならば、キリストが私たちに与えてくださったこと以上に、何を伝えなけれぱならないのか?」そして彼らは耳を閉じてしまいました。もう一つの警告は、1993年2月18日に与えられました:

「見よ、雷鳴と火のうちに訪れる日がくる、しかし、悲しいかな、あなた方の多くは自覚のないまま、深い眠りに陥っていよう! 私は聞こえない耳に届こうと、被造物よ、使者を次々と送っている、しかしもうあなた方の抵抗と無関心には疲れ果てた。その冷ややかさには 疲れ果ててしまった。一致するために集うとなると、横柄で硬直するあなた方に疲れ果てている。茫然自失の杯をあなた方は満たし、今や溢れさせた。自らの声に酔いしれ、私の声に反発してるが、そう長くはつづかない、じきに打ち倒されよう。道を逸れた自分たちのつまらない声によって私の声に反発したがゆえ、当然のことに私の教会は、あなたたちの分裂で廃墟と化している。……地球は揺すられ、流れ星のように軌道を逸し、山々と島々はその場所から根こそぎにされ、国民がそっくり滅び去る、そして閉じていく巻き物のように、空は消えて行こう、ヴィジョンで見た通りに、娘よ。すべての住民に大きな苦難が襲う、そして信じない者は災い! 聞きなさい。もし今日の人々が「ああ、しかし生ける御方はわれわれに憐れみをかけて下さる、あなたの預言は神によらず、あなた自身の霊による」と言うとしよう。彼らにはこう言い渡しなさい。あなた方は生きていると評されるが、死んでいる。その懐疑によって裁かれている、私の慈悲の時に信じるのを拒み、私の被造物に警告を発し、救おうと、代弁者たちを通して語る私の声が広まるのを禁じた……」(1993年2月18日)

科学者たちによれば、この地震が海底で起きたとき、地球全体が揺れ動いて、一瞬静止し、通常の地軸から外れたということです。スマトラ島と他の島々は、本来の位置から数メートル移動しました。そのうちの一つは完全に消え去ったと思われましたが、のちに別の場所で再発見されました。それから、2002年2月7日にもう一度、神からの最後の警告が来ました。これは抜粋です。

「私の大いなる支配は、まさにあなた方の戸口にまで迫っている、しかし私を受け入れる用意は出来たであろうか? 私はあなたたちの霊を生き返らせようと、霊的食物の晩餐を惜しみなく、王者の気前よさをもって用意した。私はかの地で、死からあなた方を救おうと、私自身の手で養うために待っていたが、あなたたちは前に進み出るのを拒んだ。そこで、あなたたちが示した真のメタノイアへの反抗と、私の警告への敵意のことを考えれば、かつて嘆き悲しんだあの場面は、前途に横たわる悲嘆の朝とは比ぶべくもない。それは、あなたたち自身の手で引き寄せる悲嘆の朝。

あなたの国家は、その奇怪な法制度とは異なる、私の愛のすべてに、真っ向から対立する統治を行っている。その法が犯す最も凶悪な犯罪は、地球だけでなく、全宇宙の安定をも脅かすに至った。私は幾度となく、我が笏を、非在の者たちにもゆずってきた。あなた方の企てが自らの上に降りかかるであろうと、深い悲しみのうちに、今日、上から見ている。世界はすでに、その必然的な結果を味わっている、自然界を刺激して異変をもって歯向かわせ、自然災害を自らに引き寄せ、あなた方自身の企みによって世界は自らを窒息させている。もう長年にわたって招いてきたが、あなた方のほとんどは注意を向けなかった。今や天罰のようにあなた方に降ったこの清めは、時代よ、多くの人を私に引き寄せ、我が警告を侮った多くが悲嘆にくれながら私のもとに戻ってこよう……」

この預言が説明する通り、それは朝早い時間に起きました。主はこう警告されています。その棄教のゆえに、私たちは宇宙を危険にさらしていると──自然が私たちに歯向かうように挑発して、地球だけではなく、宇宙全体を危険にさらしていると。しかし、これで全てではありません。私たちの主は、私たちが心を変えて神に立ち返らなければ、さらに悪い出来事が来ることを警告されています。主は言われます。
「分かったであろう、娘よ、私は間もなく、私の義も現す。私の計画には決められた時がある。私の慈悲の呼び掛けにも決められた時がある。ひとたびこの慈悲の時が過ぎるなら、善人にも悪人にも、私の厳しさが慈しみと同様大いなるもので、私の怒りがゆるしと同様に力あるものだとすべての人に分からせる。私の予告したすべては、もはや速やかに起ころう」(1993年2月19日)

1993年2月18日、神はこう言われて警告されました。
「第六の封印が解かれようとしている。その時、皆が闇に投げ込まれ、明かりは見当たらない。煙が巨大な炉から吹き上げてくるように深淵から吹き上げ、太陽も青空も暗く覆うだろう。そして義の杯によってこの暗やみの日々には、あなたたちを蛇や毒蛇に似たものとし、腹這いにさせ、塵を噛ませよう。

あなた方が毒蛇にもまさっていないのを思い出すように、地面にまで押し伏させる……自分たちの罪で息はできなくなり、窒息しよう。暗やみの時が訪れたなら、私はあなた方自身の内側を示す。その霊魂を裏返しにする、そして、霊魂を裏返しにされたあなた方は、霊魂が炭のように黒いのを見て、かつてないほどの悲嘆を経験するだけでなく、あなた方自身の暗やみは周囲の闇よりはるかに深いと、胸を打ちながら言うであろう。……今までかつてなかったほど、人間の生活は乏しくなる。その後、私の義憤がなだめられたなら、一人ひとりの中に私の玉座を据え、あなた方はともに一つの声、一つの心と一つの言語をもって、私、小羊をほめ称える」

この預言が私たちに起こる前に、私たちにはもう一度悔い改める時間が与えられています。神は「何もそこから逃れることは出来ない」とはおっしゃっていますが、祈り、悔い改め、生き方を変えて聖なる生き方をすることによって、私たちはまだこの天罰の力を弱めることができます。

私たちは『神のうちのまこと のいのち』を生きるように呼ぱれています。ニネベでそうだったように、神のお怒りをなだめることができるのです。

『神のうちのまこと のいのち』のメッセージは、破滅と陰欝の預言ではありません。神は私たちが行いを改めるようにと、この慈しみの時に、このメッセージを下さるのです。これは神の崇高な愛ゆえの呼びかけです。神は私たちが永久にその聖なる御名に背くことをお許しにはなりません。それゆえ、私たちに多くの警告を与えてくださるために、神は慈しみのうちに来られます。神が皆を祝福して下さいますように。

キリストのうちに
ヴァスーラ