ライア主教によるスピーチ

ライア主教によるスピーチ

2017年モスクワ巡礼

イエスは言われました。「平和を実現する人々は幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ5・9)そして聖パウロはコリントの信徒への手紙の中で、信徒たちに仲介者たれと挑戦しています。「これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました」(二コリント5・18)

A)はじめに

最初に、「サラーム(アラビア語で「平和」)」という言葉で私からご挨拶をさせてください。また、多くの人々が聖地(ホーリーランド Holy Land)と呼ぶ、私の国の人々からの同じご挨拶をお伝えします。ここで言う聖地とは、聖なるお方の国のことを指しています。「ホーリー holy」とは、多くの穴があいているという意味もあるのですが、いま起こっている中東での紛争の結果、この意味においても、この言葉が真実であることを残念に思います。

B)トニー・ブレア首相との面会

このことを思うと、イギリスのトニー・ブレア首相との会合のことを皆さんにお話しせざるを得ません。それは2003年2月18日、イラク攻撃の前日のことでした。私は4人の司教のうちの一人で、二人はイングランドから、一人はアメリカから、そして私でした。私は彼の関心を、戦争ではなく平和的な方法に転換させようとしていました。首相の反応はこうでした。「我々はイラクに対して戦争を行う。中東が平和へと向かうための道を開くためだ」!!!??? これに対して、私はこう返答しました。「首相閣下、バグダットへの一番の近道はエルサレムを通っていくことです。エルサレムに平和が訪れたなら、全世界に平和が訪れるでしょう」

私たちはこの後何が起きたかを知っています。彼が中東にもたらした「平和」について、そしてイラクだけでなく、中東全域がどれほどバラバラに引き裂かれたかを。

C)平和とは道である

友人の皆さん、戦争が本当の平和をもたらすことは決してありません。本当の平和とは、戦いがないことでもなければ、戦闘行為が休止していることでもなく、征服と抑圧の結果としての平穏でもありません。平和とは道なのです。

平和(ピース/サラーム/シャローム)という言葉が使われない場所は、地球上にありません。私たちがイスラエルで、パレスチナで、アラブ諸国で、いわゆる聖地と呼ばれる場所で使っているように。私たちは互いに「サラーム」または「シャローム」、あるいは「アッサラーム・アレイクム」と言って挨拶します。教会の指導者たちやラビたち、イマームたちは、平和について長い説教をします。子供たちには、サラームとかシャロームという名前を付けたりします。この言葉はあまりにも多く使われ、あまりにも誤って使われ、あまりにも乱用されてきたゆえに、価値が下がってしまっただけでなく、これを使う人の誠実さを疑わせるまでに至っています。これは詩篇の120番を思い出させます。神はこう言われています。「平和をこそ私は語るのに、彼らはただ戦いを語る」。

D)争いのあるところに平和を

平和と和解への探求とは、紛争から逃げることを意味するわけではありません。私たちは争いのあるところでのみ、平和に貢献することができ、あるいは和解の行為に関与することができるのです。私たちの周囲で争いが不足することはありません。国家間だけではなく、個人の間でも、家族の中でも、隣人たちの間でも。およそ常識を持った人なら、愛し合う当事者たちを仲裁するためにあくせくしたりはしないでしょう。愛し合っている人々は、あなたの仲裁も私の仲裁も必要としません。仲裁するとは、離れた所から操作してできることではないのです。仲裁するためにはそこにいなければなりません。いいですか、それは決してたやすいことではないのです。

E)私たちの使命とは? それは誰の仕事か?

神を信じる者として、私たちに与えられた使命とは何でしょうか? それは不信と敵意の壁があるところのどこでも、それを打ち壊す仕事です。特に文化、人種、国籍、宗教、経済状態の相違によって作り出された壁をです。和解するとは、正しい関係に導くということであり、私たちの関係を整理し、神との一致と、互いとの一致を回復するということです。これは政治家の仕事ではありません。これはあなたの仕事であり、私の仕事です。私たちは和解するように呼ばれています。悪と戦うように呼ばれているのです。ではどうすればよいのでしょうか?

インドの偉大なマハトマ・ガンジーはこう言いました。
「悪や我々の世界の不正義に対する戦いを拒否するとは、我々が人間性を放棄するということである。悪を行う者たちの武器を持つ悪に対して戦うとは、我々が人間性へと足を踏み入れることである。悪と不正義、抑圧に対して神の武具をもって戦うとは、我々が神性へと足を踏み入れることである」

F)兄弟の兄弟、姉妹の姉妹

最後に、モスクワのどこかで起きた話で締めさせてください。私の意見では、二人の人物が神性に入るのを助けたお話しです。

モスクワのある通りで、ロシアの有名な著作家であるトルストイに、一人の貧しい男性が近付いてきました。トルストイは、あの時代の多くの作家がそうであったように、ポケットの中にお金を持っていませんでした。彼は物乞いの方を向いて言いました。「兄弟よ、もしお金を持っていたら君にあげただろうに。何も持っていないのだ」これに対して物乞いは答えました。「あなたは私が求めた以上のものをくれた。あなたは私を兄弟と呼んでくれた」

私たちはお互いを兄弟姉妹と呼べる関係を結んでいるでしょうか。私たちは他者の異質さを認める準備ができているでしょうか、私たちが他者に期待するような、同じやり方でです。あるいは、私たちはカインの足跡をたどり続けるのでしょうか?「私は弟の番人なのですか?」と言って。

親愛なる姉妹、兄弟の皆さん、私たちは兄弟の番人であるだけでなく、さらに、兄弟の兄弟、姉妹の姉妹となるように呼ばれているのです。

アボ・エル・アッサル・ライア主教
(エルサレムの聖公会主教、パレスチナ人)