英神父の講話②「悔い改め、闇の体験と主の日」

悔い改め

それがあって、これははっきりと語られていることですが、だから私たちに必要なのは、悔い改めるということですね。明らかに。「ごめんなさい」と神様に、やっぱり謝らなければならないのです。でもそれは、神様が愛してくださって、ゆるしてくださるから、謝れるのですね。ゆるされるというのが保証されているからです。もちろんカトリック信者の方は、ゆるしの秘跡に与かればよいのですが、でも、ヴァスーラにはっきりこう語られています。「悔い改めるなら、その瞬間にゆるす」と、イエス様が言ってくださっていますから、ゆるしの秘跡に与るのは、確認の作業みたいなものですね、本当のところは。ですから当然、ゆるしの秘跡の無いプロテスタントの方々にとっても、ましてや洗礼を受けていなくても、悔い改めれば、その罪をゆるしてくださって、神様も慰められると思います。私たちも慰められますし。

絶えず悔い改める、別にそれは、暗い心になるために悔い改めるのではなくて、神の恵みに近づくために、神の愛をいただいて、神様と共に、痛みからちょっとでも、私たちも神様も脱出するように、ゆるしの恵みをいただいて、ゆるされた恵みを生きていくように、保証してくださっているわけですから、私たちは、本当に悔い改めの気持ちで、明らかに、悔い改めない人たちがいっぱいいるわけだから、私たちはできれば、その分の悔い改めの気持ちも合わせて、償いの気持ちを神様に捧げていくように呼ばれていると思います。

残念ながら、良心の呵責をちょっとくらいは感じても、罪の中にいる人たちがいっぱいいるわけですね。教会の中にもいるし、外にもいるし、罪の根っこというものがものすごく広がっているからこそ、私たちは悔い改めるということ、これを日々、心がけていく必要性があるということですね。多分ここに集まっている方々は、すでに大きな意味では悔い改められた方々だと思いますが、でもやはり、日々悔い改めの気持ちは必要だと思います。

この自分自身の罪や、人類の罪を、どう神様が示されたのか。一番の恵みは、これはあまり多くの人には与えられないことかもしれませんが、神様の完全さが分かれば分かるほど、私たち、あるいは私が、どれほど罪深いかということがおのずと分かるのですね。神様の素晴らしさを見せてもらえばもらえるほど、いかに自分が惨めな存在なのかが明らかなのです。少々善いことをしたとか、していないとか、全知全能の神様の善さと愛そのものに比べて、一人ひとりの持っているものというのは、塵にもならないくらい小さなものであって、本当の悔い改めは、神様の素晴らしさに触れるから、私たちは悔い改められるのですね。その小さな例がルカ5章ですけれど、不思議な大漁、たくさんの魚がとれたので、ペトロが驚いて、「私から離れてください。私は罪深い者なのです」と言ったところなのですが、それは明らかに、そういうことなのです。神の恵みの大きさに比べて、自分の小ささが分かって、それが本当の悔い改めなのですが、でもそれは、神様の恵みの大きさに触れるということ自身が恵みですから、ヴァスーラのように、本当にできる人は少ないかも知れませんが、しかし、それが本来の悔い改めなのです。

闇の体験

私たちはそれができないことが多いので、愛されているがゆえに、ヴァスーラもそうでしたけれど、闇の体験というか、神の恵みのない所に、神様がわざと私たちを置かれるのです。それはもう、度々のことです。いつも天国のような所に私たちを置かれるわけではなくて、愛しているがゆえに、私たちを辛いところ、苦しいところに、神様はわざと置かれるのです。それは何のためにかと言えば、私たちがどれほど惨めな者なのかを、現実的に悟るためなのですね。恵みなしには、私たちがどれほど大した者じゃないか、神様の愛があふれている時は善いことができるけれども、実感がない時に、私たちは愛されているけども、何か気持ちが乗らならなかったり、つい罪の方に捕らわれてしまったり。でも、神の恵みが無いのは、私たちの弱さやいたならさを悟るためと、そこで私たちは現実的に、苦しみとか罪を見せられて、悔い改めるチャンスが与えられているわけです、その時にこそ。だから私たちは、うまくいかないからと言って、だから神様から愛されていないというのは大きな誤解ですね、実際のところ。愛されているがゆえに、私たちがもっと深く改心するために、もっと深い現実、真理に触れさせてくださるために、神様がわざと辛いところに送られるのですね。だからヴァスーラの人生を見れば、どちらかと言うと、この世的には辛いことも多いわけです。

神様は、霊魂の救いを保証してくださっているわけで、この世の幸せは保証してないですよ。実際のところ。ついつい私たちは、この世の幸せに捕らわれてしまうから、何でこんなにやってて、こんなに嫌なことばかりあるのかと思うのです。主が望んでおられるのは、私たち一人ひとりの霊魂の救いです。そのために必要なことを、一人ひとりに与えてくださっているのだから、それをしっかり私たちは受け止めて、悔い改めたり、自分の捕らわれを置いたり、あるいは自分自身をすべて委ねなければならない時もあるし、その時その時で、主が自分に課しているというか、問いかけていることがある。それにしっかり、私たちは応えていかなければならないわけです。だから苦しいことも、辛いことも、しっかりと悔い改める機会として私たちは受け止めて、そこからさらに霊的に成長するように、より神様に近づくように、様々な方法で呼ばれていますから、そのように、神様の本当の、先ほど言った神の愛、私たち一人ひとりを本当に救いたいと思っておられる神様の気持ちに、いつも合わせていくことが大事ですね。

主の日

多分、それでも足りないので、一人ひとりに来ることでしょうし、人類全体にくる可能性もあるのですが、いわゆる「主の日」と呼ばれる、非常に辛い時を送られることもありますね。一人ひとりのこともあります。主の日に、ヴァスーラの言葉で言えば、「選択の日」だとか「火の洗礼」だとか、言い方は様々ですが、一つの審判のような形で、自分の罪をみんな見せられる。神様が突然介入して、どれだけ自分が罪を犯しているかということを明らかに見せられるチャンスが来ることもあるのですね。

全員に来るか、ある人にだけに来るのか、あるいは、あるグループ全員に来る可能性もあります。それは主が必要だと思うから、そうされるわけですね。その時に私たちは、本当に、明らかに、自分の生涯の罪を見せられるわけですから、言い逃れできない、本当に。そういう時に、本当に悔い改めるチャンスが与えられる。それは私たちの霊魂の救いのためですから、私たちはそれも、しっかり受け止めなければならないのですね。

私はイエズス会の神父だから、「霊操」という、一か月間の黙想期間があって、「霊操」というお祈りを正式にしようと思ったら、一か月間、黙想の家にこもって、毎日、一か月間のお祈りをするのですけれど、そのうちの第一週「罪の黙想」の中にあるのは、生涯の罪の黙想をするというのがちゃんと入っているのですね、生涯全部の罪を思い起こして。これは辛いです、本当に。昔の子供の時からの全部の罪を見て、総告解、全部の罪を、神父に告白するというものなんですが、これも同じなのです。「主の日」を、やはり体験するために、わざわざそのプログラムがあるわけですから、誰も言い逃れできないのです、自分の犯した罪について。誰それさんがああだとか、まったく言えない。どれほど罪を犯しているかですよ、子どもの時から今まで。膨大な罪ですよ、それをしっかり認めて、悔い改めなければならない。でも、悔い改めればゆるしてくださるのですから。それで、総告解は、ものすごく時間をかけて、神父さんに告白する時間を持つのですけど、それでも思い出せない罪もやっぱりあります。それで、後から思い出すこともありますから。

私たちが本当に悔い改める必要性ということは、強調してもし過ぎることのないくらい、それは何か、憂鬱になるためではないのです。もちろん憂鬱になりますけれど、自分の罪深さが分かればわかるほど、がっかりしますけれど、自分が大した存在じゃないことがより分かるけれど、それは、ゆるしてくださるためですね。ゆるして、本当に立ち戻って、私たちの、自分自身の霊魂が天国に行く、そのために主が私たちに与えてくださるチャンスですから、私たちは悔い改めていくということ、それを大切にされたらいいと思います。そして、カトリック信者の方はやはり、ゆるしの秘跡に定期的に与られたらいいですね。プロテスタントの方は義務はないですから、でも同じなのです。悔い改めて、神様に真剣にゆるしを願ったら、ゆるされますから、もうそれで充分だと思います。

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