英神父の講話③「他のことにとらわれない、謙遜」

他のことにとらわれない

その他のことには、あまりとらわれてはいけないこと、注意することをお話しします。ヴァスーラの周りでも、皆さんの中にもそういうことがあるかと思いますが、たびたび、神様は外的なしるしを送られます。ヴァスーラであれば、いいにおいがしたとか、あるいは太陽の奇跡で太陽がぐるぐる回るとか、もちろんいろんな病気が癒されるとか。神様からのしるしが与えられることは、ある意味ではまれですが、ある意味ではしょっちゅう与えてくださるものです。注意しなければならないのは、しるしにとらわれてはだめだということですね。しるしがあったから良かったとか、こんなに大きなしるしが与えられたからどうだとか、しるしがあるか無いかとか、しるしの大きさにとらわれない方がいいと思います。しるしは、さっき言った二つのことのために与えられているのです。神の愛をより深く悟ることと、悔い改めるために与えられているのだから、特別なしるしが与えられている方も当然おられると思いますけれど、それはそのメッセージですね、それを通して神様が、自分に何を言っておられるのかということを大切にしなければならないのです。しるしそのものは、もちろんお恵みですけれど、しるしを通して与えられている神の恵みを、しっかり受け止めるように。あるいはメッセージを受け止めるように。悔い改めるように言われているのか、励ましなのか、いろいろなことを伝えたいのか、そのことを通して与えられていることをしっかり受け止めるように。しるしにとらわれると、ちょっとずれてしまうという危険性はありますね。

もう一つは、それに似ているのですけれど、人にとらわれてはだめなのです。別に、ヴァスーラをほめ称える必要性はない。カトリックには聖人をほめ称えるという伝統がありますけれど、本当のところは、マザー・テレサをほめ称えてもしかたがない。絶対だめというわけではないのですが、その人を通して示されている神様を、ほめ称えなければならない。ヴァスーラをほめ称えるのではなく、ヴァスーラのメッセージを受け取るというのでしょうか。だから人にとらわれたり、人を何か特別な人というように言わない方がいい。特に預言とか、賜物を持っている人に、この中にもおられるかもしれませんが、賜物をいただいているのは、その人が立派だから与えられているわけではなく、その人を通して神様が働きたいだけですから。人をほめ称えたり、人に執着するのではなく、その人を通して与えられている神の恵みに、しっかり目を向けなければならない。人間は誰もただの道具というか、しるしの一つにしかすぎませんから、その人を通して与えられている神様にしっかり目を向けて、神様に心を向けるようにされたらいいと思います。

それと、皆さんの中にいるかどうか分かりませんが、『神のうちの真のいのち』のメッセージであれば、私でも、聖書の教えそのものを繰り返しているだけだと思いますし、もちろんそれにも意味があると思いますが、例えば、「自分だけが特別な真理を知っている」という人がいて、知らない人を裁いたり、受け取らない人はだめだと言ったりする。神の恵みだからそれを受け取って、なるべく分かち合うようにした方がもちろんいいわけですが、自分だけが知っている「特別な真理」があって、あの人は知らないからだめだとか、人を裁くような傲慢な気持ちが湧いてきたら、それは神様の心から離れていると思います。

多くの場合、例えばカリスマ刷新運動だとか、マリア様の運動だとか、いろいろありますけれど、大体そういう運動を傷つけるのはそういう傲慢な態度、そのグループに属している人の傲慢な態度が評判を落としている。メッセージはよいのだけれど、メッセージに関わっている人々の傲慢さとか、偏狭さとか、そういうもので人の信用を失なうということも、よく見られることです。実際、例えば、明らかにいっぱいあります。今の神父がどれほどだめだとか、イエス様がさんざん(メッセージの中で)おっしゃっています。あるいは司教にしろ、神父にしろ、別にそれはカトリックだけではなく、ギリシャ正教会など、教会批判も凄いです。はっきりしています、今の教会がどれほどだめかということは。でもそれを逆手にとって一緒に批判していたら、それは律法学者になってしまいます。その批判を受け止めて、それをどう謙遜に直していくか、ということだったらいいですけれど、それを逆手にとって、何々神父はだめだとか、何々司教はどうだとか、陰口でぎゃあぎゃあと言うことは、全然プラスにならないですね。

謙遜

やはり、真理の言葉を受ける人は謙遜です、いつも。謙遜にならなければならないし、本当にある神父が間違っていると思うのだったら、その神父に直接言いに行かなければならない。「あの神父はダメだ」などと陰口でワーワー言ったって何の意味もない。本当に大事なことで、その人のためだったら、その人のところに行って、その人にちゃんと言う。受け入れるかどうかは別ですけれど。人に言うことじゃなくて、そういうことがあるのなら、その神父さんが受け取ろうが、受け取るまいが、その人に本当に伝えたらいいと思います。他の信者さんでもそうです、信者さんでもシスターでも。あの人はダメだとか何とか、陰口でワーワー言うのは、個人的にはむしろ、それが一番低級な悪霊にやられている感じがしますね(一同笑い)。本当に真理をいただく人は、謙遜でなければならない。謙遜と愛の心を持って生きるように呼ばれている。それで傲慢になってしまうと、それこそずれてしまうことですから、それも気をつけたらいいと思いますね。

それと、メッセージの一番大切なところをしっかり受け取るということです。例えば「神のいつくしみ」の信心であれば、午後三時のチャプレットを唱えるとか、いろいろあって、それはそれで良いと思いますけれど、でも「神のうちの真のいのち」に関する限り、言っていることはごく普通のことで、もちろんロザリオを唱えたらいいとか、伝統的なことをいろいろと言っていますけれども、「絶対これをしなくてはならない」とは言っていないのです。例えば、絶対、ひざまづいて口で聖体を受けないと恵みがないとは、少なくとも「神のうちの真のいのち」には一行も書いていない。そういうことを言っている人もいますけれど、でも一番大切なのは、心を込めて聖体拝領をすることが大事だということは、何回もイエス様が勧めておられる。それは当たり前のことです。それを大事にすべきで、だから、ある祈りを絶対しなければならないということはないと思います。もちろんいろいろと勧められています。ミカエルに執り成しを願う祈りだとか、それは勧められていますけれど、絶対にこの祈りをこの通りの言葉で唱えなくてはダメだとか、この訳がダメだとか、そういうことは誰も言っていないのです。

昔の訳でないと絶対効き目がないとか、今の新しい訳はダメだとか、そんなことはどこにも書いてないですから、メッセージに自分の考えを混ぜないことです。教会の中にもいろいろな意見があります。メッセージの一番大切なところを生きていくということで、それが、たまたまある人はこの方法がいいとか、これが一番いいとか、それだったらいいのですけれど、それだけ、この形だけということは言っていないと思います。言っているのは、ご聖体が大事だとか、マリア様が大事で、ロザリオの祈りを大事にしましょうとか、一般的なことを言っているだけですから。それを本当に、心を込めてやるというふうにしないと、結局、司教の批判になるわけです。司教さんが勝手に決めた等々と。

私たちは、少なくともカトリック教会の人は、司教の命令に従順でなければならないのです。司教が決めたことは、それに必ず従わなければならない。それを、司教が勝手に決めた等と批判すると、「神のうちの真のいのち」でも他でも、グループそのものが結局価値を落としてしまいます。やはり、ちゃんと教会が決めたことは、その通りに行わなければならないのですね。当たり前のことですけれど、神父も同じです。決められたことを中心に守らなければならないのです。従順の方が大事です。自分の真理よりも。

教会というのは、私たちは共同体で生きているわけですから、従順を大事にしないのなら、謙遜が足りないのです。その人の本当の謙遜さが。もちろん意見はあると思います。例えばマリア様の祈り、「めでたし」の時代と、「恵みあふれる」と、「アヴェマリア」と、いろいろ、私も意見があります。私の一番唱えやすいのは「恵みあふれる」です。五七調で一番唱えやすかったですね。個人の意見はいろいろあります。でも「アヴェマリアの祈り」と決まったら、日本のカトリック信者は全員「アヴェマリアの祈り」で唱えるべきだと思います。司教が公式に決めたことは、それに従順に従うということがとても大事なことだと思います。別に元の「めでたし」で唱えなければならない、というメッセージはどこにもないので、古いものでなければならないとはメッセージのどこにも書いていません。ポイントを大切にして、もちろん私たちはご聖体に対しても、マリア様に対しても、本当に謙遜な気持ちで、尊敬を持って、当たり前のことですけれど、それを丁寧にする。そういうことを大事にされたらいいのではないかと思います。もちろん、人は好みがありますから、それをこうでなければならないとか、押し付けたり、そういうことは止めた方がいいと思います。

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