英神父の講話④「悪魔との戦い、終末の使命」

悪魔との戦い

もう一つは、これも当たり前過ぎることで、ヴァスーラも何回も言っていますが、悪魔はいるのです。当たり前のことですが(笑い)。カトリック教会のカテキズムの中に「悪魔は実在する存在だ」と書いてあって、それを否定したことは、教会としては一度もない。だから神父個人が自由な考えで、悪魔は想像上のものであって、実際には存在しないと語っても、現代人に分かりやすく語ること自体は、私自身は否定しませんが、少なくともカトリック教会のカテキズムの中で、悪魔は想像上の人物だと書いてある文章を見たことは一度もないです。実在する存在だと、最近出た、最近と言っても数年前ですが、コンペンディウムというカトリック教会のカテキズムの要約版にもちゃんと書いてあるし、日本の司教にしても、全部、ちゃんと悪魔は存在しますと書いています。ヴァスーラが勝手に言っていることではなくて、教会はずっと認めていて、それに反する声明を一度も出していない。だから私たちはやはり、伝統的な意見にしっかり立っていなくてはならないと思います。

だから、最近の風潮でいろいろ言う人がいるかもしれない。それはそれで、個人的に賛成しないですけれど、現代的な考え方を、それ自身は別に否定しなくてもいいかなと個人的には思っています。天国はないとか、地獄はないとか言う人もいますけれど、天国の存在も、地獄の存在も、ないとは教会の公文書では一度も言っていません。言っている文章を見つけたら教えてもらいたいくらいです。どこにでもはっきり書いてあります。そのことについては、何も変わっていないのです。

でも、悪魔のことについて言うならば、存在するかしないかということを議論するより、私たちは日々、悪魔と戦っているのですね。私たちが日々生活する中で。私たちが善いことをしようとすればするほど、悪魔が必ず邪魔してきます。それは明らかです。私にすれば、日々悪霊と戦っていますから。悪魔は私が大嫌いなんですね。だから様々な方法で邪魔してきます。いろいろと。最近も変な噂を立てられていたり、そんなことはしょっちゅうですから。でもやはり、警戒しなければならない。

皆さん一人ひとりに、悪霊は邪魔してきます。神様に向かうことを、どんな手段を取っても邪魔してくる。人の口を通してとか、直接体に攻撃してくるとか、いろいろですね。興味があれば、詳しく説明しますから(私のところに)来てください。とにかく、ありとあらゆる方法で来ますから。でも、大切なのは、悪霊の攻撃は、程度によりますけれど、強い悪霊の攻撃は、人間の力では立ち向かえない。悪霊の力は人間より強いのです、基本は。でも悪霊の力より、神の力の方が絶対強いのです。だから、人間の力では出来ないのですよ、悪霊の力に対抗するのは。私たちは絶えず神様から、神様の力をいただいて、神様に悪霊を追い払ってもらうという心がけが大事ですね。

特に、私は仕事をしていて思いますけれど、どうでもいい仕事に対しては、悪霊は邪魔しない。大事な仕事にだけ邪魔してくる。だから、悪霊に邪魔されるということは、み旨なのです、逆に言えば。向こうは論理的に攻めてきますから、どうでもいいことは絶対邪魔しないですね。小さな仕事は絶対邪魔しないけれど、大きな仕事で、み旨に叶うことだけ邪魔してくる。はっきりしています。だから邪魔が入るということは、逆に、これは神のみ旨だと分かる。邪魔があまり無い事は、これは大したことないと思います。

だからやはり、神様の道を歩み出したとたん、必ず邪魔してきます。いろいろ邪魔してきます。ある悪霊をやっつけたら、大体もっと大きな悪霊がやって来ます。悪霊というのは軍団で来ます。下っ端から上まで、どんどん、数限りないレベルがありますから、今の皆さんに合った悪霊が来るのです(一同笑い)。自分の力量にピッタリくらいの悪霊が来るわけですね。だから、大変だなと思って乗り越えたら、次はもっと大きいやつが来るわけです。違う方法で来たり、人を通して来たと思ったら今度は、仕事のごちゃごちゃを通して来たり。それと、原則的に言うと、初心者に対しては、簡単な結論を言うと、悪いものを通して来る。お酒を止めようと決めて、お酒を止めた途端、飲みの誘いが入ってきたり、お酒を止めた途端、お酒がプレゼントされてきたり。それは悪霊のごく初期のやり方です。進めば進むほど、悪霊は善いものを通して攻撃する。それが難しいのです。善いものを通して攻撃するのが、もっと進んだ悪霊ですね。これがなかなか見分けられない。善いものだから。善いもので来るわけです。一見善いものです。だから識別が大事なのです。善いと思ってやっていたらダメなのです。それが悪霊の働きです。識別ということですね。見分ける。よく振り返ることが必要だと思います。いいと思ってやっているうちにだんだん、あれっ? となるとしたら、振り返らなければならない。それ自身が悪霊のやり方、罠にひっかかったということになりますね。

マルクス主義者で、確かレーニンの言葉ですけれど、「地獄への道は、人の善意で踏み固められている」というものがあります。人間の善意だと思ってやっているうちに、地獄に行くという。だから、本当にただの善意かよく理解して、それは神様に向かう善意なのか、滅びに向かっている善意なのかという、これも悪魔の常套手段ですから、よくよく警戒しておかないとならないのです。

悪霊がいるからと言っておびえる必要はありません。主が打ち勝たれていますから。勇気の気持ちと、やはり謙遜さですね。神に対する謙遜さを持って。やはり傲慢な気持ちになったりしていると、すぐ悪霊に足を取られます、もう簡単に。自分はこれがいいとか、自分のやっていることは間違いないとか、傲慢な気持ちになった時は、すぐ足をすくわれますから、謙遜な気持ちでいかれたらいいですね。神様の好むこと を悪霊は全部嫌いだから、悔い改めが大嫌い。悪霊は。当たり前ですけれど。悪霊の働ける領域は、罪と悪のあるところでしか働けない。

悔い改めて主にゆるされた途端、罪が消えてしまうので、悪霊は攻撃できないのです。悔い改めた直後くらいは。ちょっとするうちに、人間の内からもやもやと湧いてきたら、すぐそこに悪霊が働くのですね。ともかく、悔い改め、神様の愛をしっかり大事に、あとは祈りの心ですね。本当に厳しいことなのですが、断食も効きますね。やはりこちらから気持ちを捧げるということですか。悪霊は完全に霊的存在ですから、私の話もこのあたりで聞いていると思います(一同笑い)。ともかく、祈りと断食の気持ちも持って、日々歩んでいったらいいと思います。

終末の使命

そして、もう一つ言わなければならないのは、「神のうちのまこと のいのち」のメッセージで大事なのは、終末だということですね。終末の使命として、イエス様はヴァスーラに語られている。マリア様のメッセージもそういう雰囲気が強い。世の終わりが迫っているということですね1。それで、イエス様がはっきりと語られているわけですね。何故そうなるのか、神様やイエス様が何を考えておられるかというと、世の終わりが近いから、一人の霊魂でも救いたいと思っているのです。多くの人が罪の中にとらわれて、地獄の方に傾いている人がいっぱいいる。世の終わりが来たら裁きがありますから、決定的なわけです。残されている今の時間に、一人でも多くの人が悔い改めて救われるように、そのために時がないので、マリア様にしろ、イエス様にしろ、非常に危機的な感じを抱いておられる。

それもやはり、愛の心から来ているわけです。一人でも救いたいと思っておられるのですから。そのようなことで語られているわけですから、私たちも、特に皆さんのように、ここに集まっている方々は「神のうちのまこと のいのち」のメッセージを真理だと思っている方々が多いと思われますが、「神のうちのまこと のいのち」のメッセージを聞く人は、その協力者にならないといけない。その使命が皆さんにもある。終末に向けて、一人でも多くの人を救いたいと思っているイエス様に、協力しなければならない。そういう使命が与えられているということも、皆さんは自覚していかなければならないと思います。
 
実際、小さな集まりですから、キリスト教徒そのものが、日本の中では小さな集まりに過ぎない。ですけれど、私たちは、普通の言葉で言えば福音宣教ですね、福音、神様の恵みを、教会自身が伝えていかなければならない使命を与えられている。私にもそういう使命が与えられていますけれど、皆さんにも与えられているわけです。この「神のうちのまこと のいのち」のメッセージを、多くの人に、少なくとも周りの人に、これは非常に難しいことですけれど、伝える使命があるということも、しっかりと受け止められたらいいと思います。そのために、先ほど言った祈りと苦行、自分自身の苦しみを捧げていったり、償いの業をしていくということも、はっきりと、確かに主が望んでおられます。マリア様のファティマのメッセージも、その点においては全然変わっていない。同じことですから。

祈り、人によって体力が違いますから、償い、私たちの小さな苦しみも、その意向のために捧げるということですね。そういうことを主が受け止めて、私たちの小さな苦しみを捧げることによって、その苦しみを通してイエス様は、直接いろんな人の霊魂を救われているわけだから、そうすることが一番大事です。人によっては、言葉を通して、行いを通して、そういうことをする使命に呼ばれている方もおられるわけですから、人々にメッセージを語っていくとか、あるいは愛の行いをしていくということもあります。
 
「神のうちのまこと のいのち」のメッセージでは、もう裁きは避けられないけれど、裁きの程度は小さく出来るとおっしゃっている。だからもうダメというか、裁きそのものは多分、もう避けられないというのは、私もそうかなという気がしますけど、程度を軽くすることはできると言われています。預言は必ず、私たちの行いによって変わっていくわけですね。だから、ほとんどの預言はシンボル的に語るわけです。マリア様の預言は、何故シンボル的に語るかと言えば、それは私たちの行いによって、実現の仕方が変わるからです。怪しい予言は、何月何日に世が終わるとか、日時を特定したり、こういうことが必ず起こると言う方が、私は怪しいと思います。

ただ、私たちの本当の祈りや苦しみを捧げたり、あるいは人類全体の悔い改めのチャンスもありますから、そうすると、実現の仕方が変わるわけです。だから黙示録にしても、「神のうちのまこと のいのち」のメッセージの多くの言葉は、象徴的に語るわけです。それが私は本当の預言だと思います。実現の仕方が変わるからです。私たちの態度によって。早まるかもしれないし、遅くなるかもしれない。つまり、私たちに委ねているのです。今生きている人たちに委ねられているから、私たちは真剣に、誠実に、少なくともこのメッセージを真実だと受け取った人は、祈りや聖なる生活、人々を愛していくようなことをすることによって、終末の使命に少しでも協力していく。一つひとつは小さなものですけれど、それによって、やはり、人類の流れが変わっていくわけです。少しでも多くの人が救われていくように心がけたらいいと思います。

←英神父の講話③「他のことにとらわれない、謙遜」

  1. 「時の終わり」については、『天国は現実、しかし地獄も現実』の第17章を参照されたし。