イゼベルの霊にご用心

2004年12月

ヴァスーラ・リデン

はじめに

神が人間を創造なさった理由の一つは、ご自分の本質において、自らの栄光を被造物に伝えたいとお望みになったばかりでなく、地球の塵にすぎないものから「いと高き方に似せて」人間を神格化することがおできになることをサタンに証明するためでした。この被造物は、起源として腐敗しやすい物質でつくられたいやしい生まれでしたが、神性のこの上ない高みまで上げられ、神性への参与によって神と等しい者とされるのです。このような理由により、元通りにされ、聖なる者とされた状態の人間は、天使たちの位のさらに上に置かれるのです。東方正教会の礼拝では、私たちの聖母を「天使たちの優しさ」「もろもろの天よりも高い」、「ケルビムよりも比類なく称賛されるべき方、セラフィムよりも栄光ある方」と呼ぶことができます。

しかし、私たちの敵であるサタンは、神が私たちを創造された瞬間から私たちと敵対していました。神が私たちをご自分にかたどり、似たものとして創造されたことを妬んで、彼は自分に与えられた自由を使って人間を試し、堕落するように誘惑することを決して止めようとしませんでした。

今日、世界の人々は、邪悪な霊または他のよこしまな霊としてサタンの存在を信じることも、神の創造物を悩ませている他の闇の力を信じることもしません。邪悪な霊が存在することを受け入れれば、すでに霊的戦いの一部に勝ったも同然です。しかしイエスは警告されました。私たちの時代には、サタンは存在しないし、地獄のようなところは無いのだと人々に信じ込ませるのがサタンの最新の戦術であると。今日の多くのキリスト信者は、サタンの存在も、物質的な面と霊的な意味における邪悪な霊の存在にも気づかず、これらの邪悪な霊が私たちに及ぼし得る影響についても気づいていません。こうしてこの現実を拒絶することによって、私たちはサタンと彼の堕天使たちが見破られ、邪魔されることなく動き回る自由を与えているのです。サタンは悪の形態を持っているだけのものではなく、エネルギーでも、観念でもなく、知性をそなえた人格を持った実在です。サタンは神の国に逆らって同じように戦う多数の他の邪悪な霊と共におり、もし彼らが肉体的に目で見えるならば、太陽をも暗くするでしょう。

私たちは邪悪な霊が沼地や空き地を歩き回るだけでは満足せず、常に体や霊魂に住みつこうと捜し求めていることを知っており、またその事を学びました。邪悪な霊は「空き屋」や霊魂に入り込む機会を捜して歩き回っています。実際、悪魔は臆病で軟弱な人が悪魔払いをしても、決してへこたれません。正教会の伝統の中で文字通り悪魔を吹き飛ばし、つばを吐く慣習があるのは、多分こうした理由からでしょう。洗礼式で洗礼を受ける人は、サタンを三回吹き飛ばし、つばを吐くように求められます。これについて一人の正教会の司祭はこう言います。「司祭の中に、品がなく嫌悪を感じるとしてこの慣習を止めてしまった人がいるのは、何と遺憾なことでしょう! おお、司祭がサタンに何という助けを与えているかはっきり理解できればどんなに良いでしょう! サタンは間違いなく、このようなサタンに対して丁重で洗練された素質を持った人々を好み、彼らの協力をありがたく思っていることでしょう……」

あるギリシャ正教の司祭は言いました。「人間の魂や体を乗っ取ろうと探し求めているばかりでなく、家、ある特定の部屋、空気や水のような物質にも住みつく、目には見えない実在として悪魔の存在を正教会がはっきり認識していることは明らかです。洗礼水に浸す前に、悪魔の力から解放されるように、その水は常に悪魔払いが行われます。たとえば、司祭は次のように神に祈ります。『目に見えない空中の悪霊がすべて私たちから去り、闇に住む悪魔がこの水の中に隠れていませんように、そして、私たちはあなたに嘆願致します、おお、主よ、不完全な判断力や思考の混乱をもたらすどんな邪悪な霊も、今、洗礼を受けようとしている人の上に降ることをお許しにならないで下さい。』さらに司祭は、十字を切って三回水に息を吹きかけ、手で三回水に浸して十字架の印を印し、次のようにとなえます。『あなたの貴い十字架の印によって、すべての敵対する力が砕かれますように!』」

キリスト者の多くは、自分たちが一つ以上の悪霊につかれているかもしれないということに気づいていません。彼らには、自らが苦しんでいるどんな肉体的、または精神的な病気であっても、彼らの中に居を構えてしまった邪悪な霊が原因かもしれないと想像することは決してできません。多くの情緒障害、神経症、神経衰弱、原因不明の恐怖、不安、偏頭痛、ぜんそく、アレルギーやその他の心理的病気は、非常に多くの場合、人の魂や体に住みついてしまっている悪霊に起因します。私たちの時代には、もしこのようなことを人々に示唆するなら、彼らはこのような悪霊がいるというばかげた考えをあざ笑うか、あるいは、そんな考え方は中世の考え方だとか、時代遅れ、迷信にすぎないなどと考えます。このような悪霊に対する無関心や、無視により、もっと多くの被害が引き起こされることになるでしょう。そうなれば、この邪悪な霊が私たちの中に永久に留まることになってしまいます。

私はこの記事の中で主に一つの霊を取り上げるつもりです。それはごくありふれた霊で、特に信仰グループの間に見られますが、会社や家族、友達同士の間にも見られる霊です。もしその霊の動きを知っていれば、容易に見破ることができます。それは邪悪な霊に扉を開ける肉性の生み出したものです。巧妙に操作し、横暴で脅迫的な策略で支配しようと人間を通して働く動きです。その霊が教会の中にいれば、聖霊の流れを中断させます。預言を取り入れた司牧は悔い改めを要求し、妥協することなく悪を切り捨てるので、悪魔は神の預言的な流れを嫌悪します。預言者は常にイゼベルに反対して語ります。さらに預言的な言葉は創造的な力をもたらし、敵を無力なものとします。イゼベルがエリヤを殺すことを望んだという事実はとても意味深長です。イゼベルの霊は、預言的で妥協しない声を嫌悪します。預言者が周りにいると自らの活動を達成できません。しかし、イゼベルの霊はイゼベル女王から名を取ったもので、聖書を読めばアハブ王とイゼベル女王の話を知ることができますから、それについて私はここであまり話すことはしません。イゼベルの霊についてだけ書きましょう。

イゼベルの霊は、悪魔的な考え方によって支配され、形づくられた人格を持っています。従って、人は自発的かつ冷徹に真実を直視し、肉を十字架につけていただくよう神に願わなければなりません。人が永久に自由にされるためには、肉とその生活様式を毎日聖霊に従わせなくてはなりません。イエスはティアティラの教会に、このイゼベルと呼ばれる悪魔的な霊について警告されました。イゼベルのねらいは、神の預言者たちを黙らせることで、それは預言の霊であるイエスの証しを破壊することだからです(黙示録19・10)。それは私たちを真理から引き離し、主の教会の利益のために主によって私たちに与えられたみ言葉から引き離し、神から来るものではないものに従わせようとします。神の真似をするのに熟練していますので、神の恵みによって与えられた本物の預言的啓示から多くの忠実な信者を誘惑し、引き離すことができます。イゼベルの霊は、賜物、神からの召し出し、権威などの預言的油注ぎを偽って与えるので、預言的な指導者、預言が尊ばれている教会はイゼベルの霊の標的になります。預言を大切にする教会とその指導者たちは、もしエリヤの霊が戻ってくるのであれば、それに敵対する霊──イゼベルの霊も戻ってくるということを理解しておかければなりません。

この終末の時代に、聖霊は今まで以上にこの邪悪な霊を意識するように私たちを導かれ、その名前を明らかにしておられます。過去において、私たちの祈りの集いの幾つかに入り込み、「神のうちの真のいのち」の集会でも同様に、多大な損害、挫折、口論、そしてついには分裂や破滅を引き起こしました。世話人たちの良いチームワークの中にも必ず浸透し、混乱させるでしょうが、私たちの主の恵みによって、害が及ぼされる以前に私たちはそれを識別し、私たちの仲間の内からそれを取り除くことに常に成功するでしょう。麦から毒麦を取り除く天使のように、今は私たちの主がご自分の畑を浄めていらっしゃる時だと私は感じています。

イゼベルの霊と対面して

これまでの14年間、私は名前を知らないまま、何回イゼベルの霊と対面したことでしょう! この邪悪な霊につかれている人たちに、私の集会や、通りすがりに、祈りの集いや他の場所で会いました。彼らの口から何度決まり文句を聞いたことでしょう。「私は全くあなたのようです。あなたと全く同じ経験をしています。あなたの言うことがわかります。神はあなたに話されるのと同じことを私にも話してくださいます」あるいは「イエスはあなたのメッセージとよく似たメッセージを私にも下さっています。私たちは力を合わせて一緒に働くべきです」またはもっと率直に「主イエスとおとめマリアは私たちは一緒に働くべきだと言われました」 。単純ではありますが、うんざりさせる人たちの中には、「私たちの聖母はあなたに、これこれをして欲しいと望まれています」と言って、私が何をするべきかを暗に示します。こういったコメントは口頭の場合も書面の場合もあります。私宛の「彼らの言う天使」からや「イエスとマリア」 からのメッセージが書かれていて、私の手に直接、または友人を通して渡されるのですが、これらの多くは私をほめそやして誘惑しようとするか、私がそれらを拒否したために、私をむち打とうとするかのどちらかです!

聖霊の真の賜物は、決して自らにレッテルを貼ることはなく、それが気づかれるかどうかは神にまかされています。それは神のみ業であり、ご自身がそれを扱うおつもりですから、ご自分のお決めになった時にそれが知られるように計らってくださいます。もしある人が正真正銘の神からの召命を持っているならば、人々はそうだと認めるでしょう。ところが、預言の賜物をいただいていない非常に多くの人々が、バッジを着けて動き回り、自らにレッテルを貼って自らを安売りしています。

ある日、私がニースで乗り継ぎの飛行機を待っていますと、私であることに気づいたらしい若い女性が近づいてきました。彼女は『神のうちの真のいのち』のインスピレーションを読んでいて、その内容を大変喜んでいると言いました。立ち去る少し前に彼女は自分の名前が入っている個人のカードを引っ張り出し、名前のすぐ下には彼女の職業がありました。そこには「神の使者」と書かれていました。人はどこまで厚かましくなれるのでしょう!

ごく最近、私たちはいくつかの別の場所で、この邪悪な霊と再び向き合わなければなりませんでした。アバートン神父とサリバン神父の助力のおかげで、この邪悪な霊に大成功のうちに対処できましたが、悪戦苦闘しなかったわけではありません。悪霊につかれていた人々は、悪霊から解き放たれるための祈りを受けに行くよう求められましたが、不幸にも、今日に至ってもその癒やしは行われていません。こうした人々の自尊心を曲げることは非常に困難で、自我に従おうとします。悪霊からの解放の祈りを受けに行ったと言う人々は、そこに行ったけれども、自分たちが悪霊につかれているということを納得しませんでした。彼らを癒やそうとする聖霊を自ら妨げ、自分たちが悪霊につかれていることを否定するのですから、どうにもなりません。

自らを「女預言者」と呼び、イゼベルは神の僕たちを教え、惑わしていました。何世紀にもわたって彼女は私たちの周りにおり、個人や教会の中に与えられた預言を取り入れた司牧を攻撃しようと探し求めています。そして預言の賜物が存在する所には、遅かれ早かれイゼベルの霊が現れるのは確実です。イゼベルの霊につかれている人が、自分がその霊につかれていると考えているとは思えないことが時々あります。この人はどんな犠牲を払ってでも自分の目的を達成させようと堅く決心しています。

多分、多くの人々を最も惑わすのは、 イゼベルが信心深く、さまざまな信心深いことを行ったことでしょう。イゼベルはエスバールの娘で、エスバールとは「バールと共に」という意味です。彼女は夫のアハブをバールに従うように改宗させました。アハブは神の命令に背いて彼女と結婚しました。イゼベルという名前は具体的には「住みかや宿が無い」という意味です。イゼベルについて実際説明しようとすれば、イゼベルとは、己れの意志を崇拝することと言えます。

イゼベルのいくつかの特徴

イゼベルの霊は人々に対して明らかな戦いを挑みます。教会において、その霊は神の民を統治し、支配しようと望みます。もし私たちが決心の堅い人でなければ、イゼベルの霊に魅せられてしまうでしょう。イゼベルは政治はもちろん、宗教組織の支持者であり、大きな影響力を及ぼします。イゼベルは信心深いとはいえ、神の真の預言的流れに反して自分の偽りの力をふるいます。彼女は預言者たちとすべての預言を取り入れた司牧を憎んでいます。彼女の頑固さと自尊心のとりでを破壊しますから、彼女は具体的に挙げれば、悔い改め、謙遜、執り成しの祈りを憎んでいます。

イゼベルの霊は持ってもいない力を持っているかのような感覚を表に出したがります。彼らが抑圧したいと望む人々の心を曇らせるために、脅しを使います。その霊は何とたびたび影響力を振るおうとすることでしょう。例えば、教会では──「もしあなたがこの行動をとれば、私たちは教会税を払いません」または「私に従いなさい、さもなければあなたは霊的保護を受けられません」または、霊的な会では──「もしあなたが私のように考えないのであれば、私は身を引きましょう。そしてあなたは私無しで対処して、私が準備してきたすべての研究は私が保管しましょう」と。そうです。もしその人の行動に同調しなければ、その結果が伴うのです。脅迫は常に脅しを使って人を動かそうとします。こうした恐怖心を用いることによって、何か大切なものを失うことを恐れる犠牲者を支配下に置くのです。これは恐喝で、神の愛とかけ離れています。これらはすべて不適切な手段であり、力と権威の誤用、私たちが用いるべきでない力の投影です。これは決して人は自分自身を弁護するべきではないということをほのめかしているわけではなく、むしろ、適切な手段を通じてなされるべきなのです。他の人々を巧妙にあやつり、脅迫し、威圧することは支配と非合法な権威の誤用です。

スイスに住み、証しをしていた初期のころ、穏やかな感じで、フランス語の翻訳を手伝うことを熱心に望む一人の女性が私に近づいてきました。私にはまだ誰も頼める人がいませんでしたので、彼女の申し出を受け入れました。彼女の夫は学校で働き、フランス文学を教えていました。彼女の夫も彼女がする翻訳に光を当てることができますから、彼女は翻訳するのに申し分のない人のように思われました。しかし私に渡された本文を読んだ後で、専門用語が聖書の用語とかけ離れていることに気づきました。イエスの単純で明確なみ言葉が、フランス文学に変えられ、親密さの感触が失われていました。そしてご存じの通り、『神のうちの真のいのち』は聖書で使われる用語と非常に密接な関連があります。実際、聖書から多く引用されています。彼女の訳した聖書に関連のある或る幾つかの単語を、私はフランス語の聖書から取って自由に変更しました。彼女が「自分の」作品と呼ぶものに私が大胆にも干渉したことを知ると、私は脅され、彼女が完全なフランス語と呼ぶものに干渉したことを非難され、彼女の夫はフランス文学の先生であることなどを私に思い出させて、私はまるで洗練されたフランス語を知らない無学な者のように扱われました。彼女は私に厳しい手紙を書き、私が彼らの言葉づかいを変更せず、聖書の言葉づかいに置き換えることなく、彼らが自分たちのやり方でやるか、あるいは彼らが手を引くかのどちらかだと言ってきました。私の聴罪司祭の助言では、彼らを去らせるようにとの忠告でした。

私は彼女に電話をし、彼女の言うことを受け入れることはできないと言いました。挫折感を感じて、彼女は自分の翻訳した原稿を返すように求めました。直ちに私は主に向かって、私に翻訳者を送って下さるように頼みました。その同じ晩に、ルシアン・ロンバードが私に電話をくれ、何らかの仕事、もしかすると翻訳をやらせてもらえないかと尋ねました。そのように私たちの主は働いて下さいます。もし一人の道具が主の期待に背けば、その人を交替させます。問題はありません。

その後この女性は、翻訳の仕事をやめさせられたため、彼女自身の「神のメッセージ」の本を書き、ベルギーへ行って印刷させました。イゼベルの霊は復讐心に燃えています。私がどれほど邪悪であるかを、そして、彼女自身もヴィジョンを受けていることを話すために、彼女は多くの私の友人たちに近づきました。ヴィジョンの一つの中で彼女は、私が本当は非常に邪悪で、偽預言者だと指摘するパードレ・ピオを見たと言いました。これだけでは仕返しは十分ではなかったので、彼女は『神のうちの真のいのち』に反対するウェブ・サイトを開きました。彼女の使命は神の預言の流れを消し去ることでした。私の知る限り、彼女のウェブ・サイトはまだあるはずです。

イゼベルのさまざまな他の特徴 指導者を演じる──殉教者を演じる

自己憐憫れんびんは明らかに意識的なあきらめであり、犠牲者的な考え方に身を任せることです。「あなたはイゼベルに抵抗していないため、自分自身を犠牲者ととらえる時、あなたは文字通りイゼベルに屈服し、罪を犯し始めます」と、イゼベルの霊についての或る本に書かれています。イゼベルの霊は兄弟愛について話しますが、意識的にしろ無意識にしろ、彼らのしていることは正反対です。この「愛」は神の愛でも、洗練された人間の愛でさえもありません。むしろ、それは自らの目的を持つ全く自分本位の愛であり、認められること、または支配を求めています。彼らの意志を通すために、彼らは「断食」というような宗教用語や宗教行事などさえも利用します。いかに彼らが善良であるのとは対照的に、いかにあなたが不道徳で、あなたの考えが神からかけ離れているかを示すために、彼らはあなたに聖書の一節を引用し、説教し、道徳的価値についての長々とした面談をし、いつのまにか犠牲者にしてしまいます。言い換えれば、聖書の中で「対抗意識を持ったり、見栄をはったりせず、へりくだって、互いに相手を、自分より優れた者と思いなさい。めいめい、自分のことだけでなく、他人のことにも目を向けなさい」(フィリピ人への手紙2・3─4)と書いてあるのに従う謙遜な神の僕である代わりに、彼らは霊的に高められ、あなたより優っている指導者を演じるのです。

イゼベルには多くの特徴があることに私は気づきました。自分の目的さえ達成できれば、彼女はどんな手段でも用います。巧妙にあやつるために使うその他の手段は、指導者を演じる代わりに、殉教者という手を使うことでしょう。イゼベルのこの手は、すべての人を巧妙にあやつろうとし、彼女に悪く当たるとその人々を非難します。彼女はあなたたちが彼女を誤解していて、生けにえの子羊や聖なる殉教者として迫害された者のように、あなたたちが無実の人の血を求めていると信じ込ませるために、あちこちへ出かけます。ヘロデのためにイスラエルを去ることを余儀なくされた時の、至高の犠牲者であるイエスに自分自身をなぞらえた人がいました。この人はアハブの霊につかれており、イゼベルの霊にあやつられていました。もっとも時には、彼自身イゼベルの霊につかれていました。また、彼の性格を通して、人は表裏のある性質を持ち、人々の内部に複数の霊が宿ることも可能なのだと私は信じ始めました。この方は両方の霊につかれていたと私は信じます。これから私が話すそのある出来事の場合、かれは二つの霊につかれていました。

私たちの祈りの集いのこのリーダーは、イゼベルの霊につかれているもう一人の人に、彼自身の自分本位の目的のための霊的活動ばかりではなく、私たちの祈りの集いを引き継ぐことをも許していました。彼はイゼベルの霊が預言者であり、癒やす人であると宣言することによって、衰退し、今にも消えうせそうな祈りの集いの中で自分が人気を得ることができるだろうと考えました。私が二つの霊に気づいて立ち向かった時、アハブの霊につかれているリーダーは、他の罪のない人々に罪を着せ、彼らをあらゆる事で非難しました。こういうわけで、私は一人の人が両方の霊につかれる場合があると信じます。自分の主張が通りさえすれば、彼は嘘をついても全く平気ですから、アハブの霊からイゼベルの霊につかれることになりました。イゼベルは嘘をついてもまったく平気で、嘘をつくことで悪名高いことで知られています。私たちの祈りの集いのこのリーダーは、今も係争中の、彼に対して起こされた訴訟裁判を避けるために、祈りの集いばかりでなく、住んでいた国も去ることを余儀なくされました。彼は悪霊からの解放と癒しのための黙想会に行くように忠告されたにもかかわらず、拒否し、自分が不正に攻撃されたかのように振る舞っています。殉教者になったかのように装うので、不幸にも自分たちの「主張」を支持する多くの人々を獲得してしまいます。こうした人々はこれに満足し、自分たちが分裂を引き起こし、神の目には憎悪の的となっていることは気にかけません。

イゼベルの霊につかれている人は、主がある必要のために祈りに行くように言われたと言って、予告も無しに人の家に現れるということは非常によくあることです。彼らは他の人々のために祈ることに駆り立てられるのですが、この衝動は神から来るものではありません。

イゼベルとアハブの霊と対決する

イゼベルの霊が真理と対決すると、対決してくる人を敵としてとらえます。そして、この「敵」に対して突然に逆襲してきます。事実、支配的な人が誰かに直面される時、最も激しい憤りを生じるように思われます。この人は決して罪の責任を認めたり、権力の意識を明け渡すわけでもなく、対決してくる人に対して仕返しします。指摘された時には、自衛しようとむきになるというのが共通の反応です。訂正することはすべて拒絶されることとしてとられますので、深く根ざした不安感の入り混じった自尊心は訂正を受け入れることはできません。従って、支配的な霊につかれている人が自分が間違っていたと認めるのを聞くことは決してないでしょう。それはいつも誰か他の人の落ち度なのです。罪悪感、悔恨、または真の良心の呵責を認めることは決してありません。

イゼベルの霊は唯一絶対の神のみ旨とは正反対のものです。彼女の意志がその他の神々の一つになってしまっています。結果がどうあれ、彼女の意志は成し遂げられなければなりません。イゼベルは権威を盗んだばかりでなく、指導的立場にある人々を巧妙にあやつりました。彼女は嘘をつき、事実をゆがめました。神はイゼベルに立ち向かう人──対決する人を待っています。多くの人々はアハブの霊に屈服し、イゼベルの策略に頭を悩ますだけなのです。多くの人々は、何といってもイゼベルは信心深く、教会で一生懸命働くからと理論的に考えます。リーダーの間に見られる一番大きな弱点は、対決することに対する恐れです。彼らはイゼベルの霊の巧妙なあやつりや、支配的な策略に対決するというような代償を払うかわりに、平和を望みます。

私がイゼベルの霊につかれている人々と対決しなければならなかった時に、彼らの口からどれほど多くの非難が突然あふれ出てきたかを私は覚えています。突然外に表された憎しみは、初期のころ私がサタンに攻撃された時のことを思い出させました。彼らの使った言葉はまったく同じで、こうしたわけで私はこれらの人々の中にサタンの存在を認めました。それ以前は、私を友人とし、私の使命を高く評価していましたが、私がこれらの人々に反対した後は、私の顔にどろを塗り、偽預言者とか、あらゆる悪口を言い、私の使命と証しを「全くばかげたこと」と呼びました。興味深いことに、彼らは皆同じ様に反応します! ただし、アハブの霊は別のやり方で反応します。

いかにイゼベルの霊とサタンの反応が類似しているかということは興味深いことです。初期のころ悪魔は私の書いているものに入り込もうと試み、そして私が彼に気づくと、彼の言葉づかいは「神のよう」であったのが突然下品に変わりました。同じように、私がイゼベルの霊につかれた人々に立ち向かった後には、私を「愛していた」これらの人々が私と私の評判を破壊することに熱心な者たちに変わりました。

時々、イゼベルは一時的に後悔するのですが、すぐに彼女の支配的策略に戻ります。祈りはというと、彼女は自らの目的のために祈ります。それには何の力もありません。真の熱心な執り成しの祈りは、心を自尊心と高慢さから、悔い改めとへりくだりへと変えます。イゼベルの霊に強い致命的打撃を与えるものは他には何もありません。イゼベルに典型的に見られることは、自分が十分に真価を認められていないと不平を言うことです。彼女の自己中心的な性質から、彼女は嘘をつき、誇張することによって、自分自身が霊的に見えるようにするためには、どんな事でもしかねません。結局、自己中心的であるため、誰も自分ほどには重要ではないのです。イゼベルは自分の決断は長く祈った結果であることを再三くり返します。イゼベルの霊につかれた人は待ってましたとばかりに泣いて、ほとんどの人をだます方法を知っており、どうやったら同情を獲得できるかを知っています。

アハブの霊はと言えば、自らの責任を回避することで知られています。それは反対することを避け、自分の落ち度を否定するという考え方を示します。アハブの霊は弱く、おびえています。それは自らの地位を愛しているのですが、反対することを恐れます。共同で働く場合には、アハブとイゼベルの霊は、そっと共存関係を作りあげます。自分たちの目的を果たすために両者が互いを必要とし利用し合います。アハブの霊に影響されている司牧者は、地位を維持し、自分の人気を守るために、イゼベルの霊につかれた誰かの助けを必要とします。その司牧者は自らの利己的な目的のために、その人にその賜物を用いることを許すかもしれませんが、それはただ何としてでも人気を獲得するためにすぎません。このように振る舞うことによって、そこにあった以前の真の預言の流れは、今までより大切にされなくなり、やがては黙らされてしまいます。こうしたことが起きれば、教会の中に霊的な隙間が生じます。

驚き、驚き! 

ある日、私たちの祈りの集いの一つが、将来に対する計画に対処するために個人的な会議を開きました。その日、自分たちは預言の賜物を持っていると主張している二人の男の人たちが、思いがけなく入って来ました。その二人は出席者にとってあまりなじみのない人々でした。彼らがその会議のまっ最中に侵入してきた時、誰も一言も彼らに言いませんでした。実際何人かの人は、彼らの対処している問題を解決するために、この二人は神が送られたのかもしれないと考えて、二人が同席することを喜びました。不幸にも、その或るグループの霊的指導者は、二人ともイゼベルの霊につかれているとは知らずに、彼らを秘かに奨励し、グループ全体が二人を信じるように影響を及ぼしていました。この二人はこの会議に全く関係がなかったのですが、自ら進んでとどまりました。たちまち神との交信が始まり、「神のメッセージ」がそこにいた何人かの人のためにどっと口をついて出始めました。これらのメッセージは彼らがどうすべきかを示していました。「神のメッセージ」は非常におもねった褒めすかしたものでしたので、誰かが何かをすることが難しくなり、誰も二人に出ていくように主張しませんでした。それは悪魔の誘惑でした。誰も彼らに反対しようとはしませんでした。ずっと後になって、それらの「神のメッセージ」を受け取った人々は、そのメッセージが神から来たものでないことを理解したのです。

まさに、イゼベルの霊に対処する唯一の「解決法」はぶつかることだけなのです。問題は、それによって醜態がくりひろげられるだろうことを知っているので、多くの人が反対することを恐れることです。それゆえに、彼らは避けられないと知りつつ、後回しにします。

巧妙なあやつり、支配と脅迫

教会は常に二つの事に悩まされてきました。──支配欲と優位につきたいという欲望。この権力闘争が、いつも教会の力を分断し、弱めてきました。
支配的な霊が働く最も狡猾で一般的な方法は、巧妙なあやつりを通してです。巧妙なあやつりは、お世辞、自己憐憫、何かをほのめかすなどのような、さまざまな手が使われます。たとえば巧妙なあやつりを使ってお金を絞り出す方法は、多くの形をとります。私が聞いた最もばかげた形は、祈りの家を開き、祈りの家のために多くお金を出せば出すほど煉獄へ行かなければならない危険が減ると言われた啓示を掲げたこの「幻視者」の例です。それはお金を出せば、まっすぐに天国に導かれるというものでした。不幸にも多くの人々がこの「幻視者」を信じ、そこに彼らのお金を注ぎました。恐れることなく、彼女は高い車を自分に、そしてもう一台を彼女の夫に供するためにそのお金を使いました。ある日私が彼女に反対すると、かつては「愛する」友人であった彼女が、態度を一変させ、彼女の本音を示しました。彼女は私を偽預言者だと非難し、『神のうちの真のいのち』のインスピレーションの読者で彼女の知っている多くの人々に、『神のうちの真のいのち』の本を焼いてしまうように警告しました。彼女はまったく骨惜しみすることなく、私と私の使命を破壊するためにあらゆる手段を用いました。ひとたびイゼベルの霊に気づき、皆にそれが明らかになると、彼女は激怒し、このことから、霊的人物を演じていた人が正反対の人に豹変するということを私は理解しました。他の人に自分の偽りを見られるのを恐れて彼女は宣戦布告し、非常に多くの不平をもらしました。彼女はアメリカにおけるメッセージの配給者である人々に電話をかけ、私の本やビデオを焼くように頼み、彼らに最上の理由を与えました。すなわち「神があなた方に警告するように私に頼まれました」などです。

攻撃手段ももう一つの問題点です。イゼベルは継続的に攻撃手段をいろいろ用いています。掴んでいた力を失い始めるといけないので、あなたに対抗して使える情報を獲得します。彼らが収集した情報はすべて、容赦なくあなたに対抗して使われます。ここで、読者の会の設立の頃の事例を挙げましょう。私がこれから話すこの人は、私たちの祈りの集いの中で、オーガナイザーや私の集会、報告、私たちの機関誌の一つ、そして他の事について対処する大きな権限を与えられていました。彼は私たちの親しい司祭の一人の敬意を得、もし私が彼に同意しなければ、そのことをこの司祭に報告し、この司祭の気持ちを私に反対するように仕向けるほどまでに巧妙にあやつりました。もし私があえて彼を通さずに、直接オーガナイザーと対処するための会議を取り決めようものなら、彼は私のことをその司祭に報告し、司祭は私に怒鳴り、辞めると言って脅しました。私はその司祭に、あたかも霊的指導者や聴罪司祭にするように、彼に信頼してすべてを打ち明けるようにとさえ命じられました。彼は私の持っているすべての情報をその司祭に無理やり与えるようにさせました。さもなければ彼は私について報告し、私は苦境に立たされるのです。彼はあらゆることについて知らされていなければなりませんでした。

まるでこれだけでは十分でないかのように、突然この人は奇妙な振る舞いを始め、自分もイエスから幻聴をいただいていると表明しました。彼は一種の恍惚状態に陥り、皆に命令し、後でこれらの命令はキリスト自身から来たものだと宣言しました。彼は預言者を演じました。黙想会で彼と同じ国にいたことのある人々を何人か集め、彼らを自分の味方につけようとし、「イエスはヴァスーラではなく、私に従うようにとあなた方に命じておられます。彼女の使命は終わった」と言いました。狙いは私たちのグループを分裂させることと、できるだけたくさんの人を彼の味方につけることでした。彼は「メッセージをヴァスーラに伝えることは終わり、『神のうちの真のいのち』のメッセージを受け継ぐ人は私だと、イエスはおっしゃいました」とさえも言いました。まるで『神のうちの真のいのち』は受け継がれるものであるかのように! 彼が聖霊に満たされてその自我が砕かれた時に、初めて彼は十字架の苦しみに入り、「神のメッセージ」を私たちに伝えられるようになるでしょう。彼はグループをまとめていた司祭から全面的な支持を得ていましたので、彼の行ったことは全部神からのものではないと私が主張しても、何の役にも立ちませんでした。

結局、私が彼とその司祭に反対すると、大混乱に陥りました。私は二人とも失いました。私たちにとってそれは損失ではなく、そのイゼベルの霊を追い払うことができてほっとしました。良い司祭ではあったけれど、その霊によって見えなくされ、あやつられていた方をも失ったことを残念に思いました。何年もたって、結局この司祭は自分の誤りに気づき、私にもう一回連絡を取ってきました。もう一人はただ消えてしまいました。従って、人々が他人の意志を巧妙にあやつったり、支配しようとしたりすれば、それは間接的に神の律法に背くことになり、サタンの領域に入ることになります。情報を与えず、留めておくことも支配することです。イゼベルはある状況において、あなたの知らない事を知っていることによって、あなたに力を振るいます。イゼベルの目には、あなたの持っていない情報を持っていることは、支配するための強力な武器と映るのです。

誘惑

ある人が私たちのグループで働いていて、他の人たちよりも大きな責任を与えられている時、前に述べた例のように、自分は誤りを直すことから免除されているかのように考えて誘惑に陥り始めることに、私は度々気づきました。いつも謙遜でいること、暴君ではなく仕える者の心を持っていることが極めて重要です。責任を持って仕事を任せられる人になる上で、恐らく他のどの要因よりも障害となるのが自我でしょう。自我が生きている場合には、責任を与えられている人は、自分は落ち度も欠点も無いと考え始めます。イエスは私たちの模範で、高慢な者に反対されます。「神は高ぶる者に逆らい、へりくだる者には恵みをお与えになる」(1ペテロ5・5)。支配する誘惑にかられる人は誰でも、イゼベルの霊に開いた扉を与えることになります。

支配する人の一つの大きな特徴は、自分が正しくなければならないということです。自分が悪いということには我慢ができず、悪いことをしたと認めることはめったにありません。誰かの「好意」を得るために、一時的に罪があることを認めたとしても、イゼベルの霊は決して自分が悪いとは言いません。イゼベルが謝る時、それは決して本当に後悔したのでも、悪いことをしたと認めるのでもなく、むしろ「あなたの気持ちを傷つけたことを私は申し訳なく思う」と言うだけなのです。

支配する人は、対話の中で、自分に悪い決断を下させたことに対して、あなたが謝罪する必要があるかのように感じさせるほどまで物事をねじ曲げます。私はイゼベルの霊の他のいくつかの特徴にも気づきました。支配する人はいつも、良さそうに見えるどんな成功も自分のものにしようとします。骨の折れる仕事をした人たちを素早く見つけて、彼らを容易に踏みつけ、礼儀作法をまったく無視して自分が功績を認められる人になろうとします。

霊か肉か

イゼベルは霊でしょうか。それとも肉の業でしょうか。イゼベルは霊ですが、十字架につけられていない肉に近づく方法を見出しました。あなたは支配的な霊につかれている人が、自分が悪かったと認めるのを聞くことは決してないでしょう。それはいつも誰か他の人の誤りなのです。もしあなたが謝罪するように言い、支配する人に反対するなら、多分金切り声で、「そうそう、私が悪いんでしょう。いつも私が悪いんだから」というような答えを聞くことになるでしょう。こうした皮肉を吐いている間は、悔い改めからはほど遠いのです。

混乱する話し合い

ひとたび反対された場合、それから逃れるためのずる賢い一つの戦法は、一分間に五回も話題を変え人を混乱させようとすることです。混乱させることによって「見つけられ」、正体を暴かれることから身を守ります。従って、イゼベルと論理的に話をすることは不可能です。あなたが突き詰めようとしているのとは別のありとあらゆる状況を扱って、数ページに渡って書き送ってきたりもしますが、その文脈はあまりにも曖昧で、正しいのか間違っているのか誰にもわかりません。もし会話をしているのであれば、イゼベルの霊につかれた人々はただ無意味なことを話し、あなたを惑わし混乱させ、あなたの質問には決して答えません。こうした場合、質問を繰り返し、その質問だけに答えるように求めなければなりません。彼らは決してそうせず、答えようともしません。

一方的な話し合い

しばしばイゼベルの霊につかれた人々は、途中で止まることなく話し続けます。彼らは、権力と権威を持っていると感じる必要があり、どんなことをしてもそれを達成しようとするでしょう。彼らは誰よりも自分たちはよく知っていると感じていますので、どの会話も支配します。イゼベルは支配の一形態として話すことを用います。典型的な会話の中では、それがスポーツについてであれ、天候、または神の国についてであれ、彼らがすべての話しを独占します。このように支配的であるため、人生において誰からも話を聞こうとしません。彼らとの会話はすべて一方的なもので、あなたは聞き役に回ることになります。もし会話が途切れ、あなたが何か言いたいことがあるにしても、イゼベルは話題を変え、あなたに耳を貸そうとはしません。

自我

かつては自発的に喜んで神に仕えていたにもかかわらず、今は自分たちを神に仕える献身的な僕というよりは、むしろ大きな会社の最高経営責任者であると見なしています。しかし、神は彼らをむしろ執事だと見なしています。神こそが唯一の最高経営責任者なのです。彼らの態度はその周囲をも悩ませます。彼らは人々をこき使い、霊的な仕事を、神の国のようにではなく、むしろビジネスのように管理します。ごく控えめに言っても、彼らには自我に死に、謙遜になる必要が大いにあります。神の国には自我のための場はありません。

私たち自身の目的を持たずに神に仕えるよう、神は私たちを選ばれたということは確かです。しかし、私たちの多くは「自分なりのやり方で」神に仕えようと堅く決心しています。
従って私たちは成熟し、神の指導権を認め、次のみ言葉を理解しなければなりません。「私はぶどうの木、あなたたちはその枝である。人が私の内に留まっており、私もその人の内に留まっているなら、その人は多くの実を結ぶ。私を離れては、あなたたちは何もすることができないからである」(ヨハネ15・5)。

心を改め、自分たちの人生において神が一番であると認めた人々の中には、神のために自分で個人的に働いている人がいます。このような人は一人で行動する人たちで、共同作業をする人々ではありません。祈りの生活がなければ、主が何をおっしゃっているのかに気づくことはなく、活気のなさと生温さが取って変わるでしょう。イエスは地上においてご自分の意志を行うためではなく、御父のみ旨を実現するために来られました。信者として、私たちは自らの計画を放棄し、私たち自身の人生において主のご計画を実現させなければなりません。聖霊が主のご計画を明らかにして下さる道案内です。

私たちはイゼベルの霊がいかに自我が強く、そのうえ妬み深いかを学びました。自分自身の栄光のために、他の人に与えられた聖霊の賜物を妬むことは罪です。それはアベルに対して犯したカインの罪に似ています。アベルは神に喜ばれていました。しかしカインは、自分勝手な理由と妬みから、アベルの喉を切り裂いて殺しました。ここで話を変えて、「家へ帰って、異言で話す練習をしなさい」と人々に言っているのを私が聞いた人々に注意を向けたいと思います。まるでピアノの練習をするように、この聖霊によって与えられる賜物を練習できるかのように! 私たちの祈りのグループの人々に、異言の賜物を練習するためにしばしば彼のところに来るように求めた若い司祭のことを、私は覚えています。数回の「レッスン」の後何も起こらなかった時、その司祭はそのグループの中に聖霊の流れを妨げる邪悪な人がいると言ってグループを非難し、彼らを追い払いました!

最近私は、私たちのグループの一つの中に、預言のレッスンに通っている人がいると聞きました。言い換えれば、預言することを学びにということです。私たちは本当にそこまで来てしまったのでしょうか。私たちはこれほどまでに聖書から逸脱できるものでしょうか。これは神のみ言葉からの逸脱と誤った解釈です。聖霊の賜物を売ったり取引したりすることを聖霊はなさらず、お選びになった人々に自由にお与えになります。異言の賜物は、祈りの自然な範囲よりも高度な祈りの領域です。「”不思議な言葉”を話す人は、人間に対して話すのではなく、神に対して話すのです。誰にも分からないが、霊によって神秘を語っているからです(1コリント14・2)」。もちろん聖パウロは、教会の利益のために異言を解釈できる人がいる方が良いと言っていますが、さらに聖パウロは、教会が益を得られるので、預言の方がより以上に貴重であると言っています。

信徒が異言で祈る時、その人の頭脳の限界を超えて聖霊において神に話しているのです。実際、すべての聖霊の賜物についても同様です──預言、知識の言葉、知恵の言葉など。聖霊が明らかになさることは頭脳から生まれたものではなく、むしろ聖霊の賜物であり、現れです。

それゆえ私は、神の霊の与える「特別なレッスン」に通うすべての人に、注意を呼びかけたいと思います。

これで終わりにします。この記事の文脈の多くは、イゼベルの霊について二冊の本を書かれたR.T.ケンダル氏(R.T.Kendall)の本から引用していることを付け加えたいと思います。この記事の最初の部分は、ギリシア正教の司祭のニュースレターから引用した文章です。その他の箇所は私自身の経験から書いたものです。

私は引越しの荷造りをしている最中で、今はローマを最終的に去る前日の夕方の6時ですが、この記事をどうにか書き終えました。急いで書きましたので、ミスや下手な英語、あるいは繰り返しの文章をどうかお許しください。この仕事をするねらいは、私たちの利益のためです。注意深く読んで、皆さんの中でこの霊の特徴を持ち始めている人がいるかどうか調べて下さい。もし自分自身の中にいくらかでもイゼベルの霊が認められると思われたとしても、すべてが失われたわけではなく、逃れるべき道への扉が大きく開かれているのを思い出してください。すなわち、悔い改めです。

神が皆様を祝福してくださいますように。

キリストにおいて
ヴァスーラ