アイスランドの火山とアメリカの隕石についてのヴァスーラの解説

2010年4月

アイスランドのエイヤフィヤットラヨークトル火山の噴火を受け、ヴァスーラは、「神のうちのまこと のいのち」のメッセージに含まれる預言と直接関係していることを説明するため、この記事を書きました。

神が反逆と背教の時にどう対処されるか、多くの例の一つとして、エレミヤ書4章23節-28節があります。エレミヤは言います。

「わたしは見た。見よ、大地は混沌とし/空には光がなかった。わたしは見た。見よ、山は揺れ動き/すべての丘は震えていた。わたしは見た。見よ、人はうせ/空の鳥はことごとく逃げ去っていた。わたしは見た。見よ、実り豊かな地は荒れ野に変わり/町々はことごとく、ヤハウェの御前に/主の激しい怒りによって打ち倒されていた。まことに、ヤハウェはこう言われる。『大地はすべて荒れ果てる。しかし、わたしは滅ぼし尽くしはしない。それゆえ、地は喪に服し/上なる天は嘆く……』」

神は私たちに、神に立ち返り、神と和解し、また互いに和解するようにと絶え間なく警告されてこられました。キリストはご自身の教会に、和解し、一致するように懇願されてきました。キリストは「神のうちのまこと のいのち」のメッセージの中で、今や25年以上にわたり、悔い改めて和解し、復活祭の日取りを一致させることによって一致をもたらすようにと、羊飼いたちに求めてこられました。全世界はその悪と背教のうちに崩壊しつつあり、神の掟だけでなく聖なるものすべてに逆らい、神の怒りを招いています。だとすると、この暗闇の時代に私たちを助けようと、聖霊の恩寵が増大したからといって、驚く人がいるのはどうしてでしょうか? しかし、暗闇はふたたび光を迫害しています。妨害、迫害、非難、あざけり、中傷、禁止、流言が、さまざまな人々から浴びせられました。この数年というもの、私は神のみことばを証しし、世界に伝えようとしてきましたが、それらがこの使命をきわめて難しいものにしています。これらの人々の多くは、自分たちが神に対して聖なる義務を果たしていると考えました……

それは聖書にこう書かれています。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。(ヨハネ1・1)その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」(ヨハネ1・9-11)

この年月の間ずっと、私たちの主は繰り返し注意を与えては、ご自身のご命令、また聖なる預言者たちが以前に言ったことを思い起こさせ、私たち全員のうちに真の理解を呼び覚まそうとしてこられました。神の呼びかけは、聖母の呼びかけと同じように、悔い改め、平和、愛、一致と、祈りの生活への呼びかけです。私たちの主は、道を踏み外してしまったすべての人々を照らすため、このような方法で来られ、そして今もまた来ておられます。しかし今日に至るまで、神の優美な現存を認識した人はわずかで、その呼びかけを受け入れた人はさらにわずかしかいません。神はまずご自身の領地、ご自身の者たち(訳注:キリスト者の意)のところに最初に来られることをおざなりにはされませんでした。しかし、肉はその心のかたくなさと不信のうちに、もう一度愛を拒みました。今日にいたるまで、その慈悲深い回心への呼びかけのうちに、神を完全に受け入れた人はごくわずかで、神の慈悲をないがしろにするだけでなく、それを拒否し、彼らの心を神が統治されることを拒みました。

世界は今日、ちょうどファラオのように、その頑迷さと不信のうちに、聖なるものすべてを拒否する態度をとっています。さらに、私たちの主は、彼らの態度はソドムやゴモラのものよりも悪いと言われています。

1991年の9月、アメリカでのツインタワーの惨事のちょうど10年前、私たちの主はご立腹のうちに地のおもてをごらんになり、こう言われて警告されました。

「そして私としては、我が目で今日の世界を見おろし、国たみの間をたずね歩き、霊魂を次々と調べては、温かみ、寛大さと、愛が少しでもないかと探し求めている。だが極めてわずかな人しか、私の好意に浴していない。ほんのわずかしか、わざわざ聖なる生き方をしようとは思っていない。しかし日々は過ぎ去り、大いなる裁きの日まで時間は数えられている……」(イエスは突然声の調子が変わられ、数秒間をあけて、私を畏怖させるような重々しい調子でこう言われました)「地上は震えおののこう、そして塔のようにそそり立つ悪(バベルの塔のように)は、どれも崩れて塵の山となり、罪咎(つみとが)の埃(ほこり)の中に埋もれよう! 天上では、天が揺さぶられ、地の基も揺れ動く! 御父のみ手が冬に下されないように祈りなさい。島々、海と大陸は雷鳴と炎をともない、思いがけない時に私の訪れを受ける。私の最後の予告の言葉を注意して聴き、まだ時のあるうちに耳を澄ましなさい。私たち(イエスとマリア)のメッセージを読み、天が語っている時は、もうこれ以上軽蔑して耳を貸さないままではいないように。(…)間もなく、あとわずかしたら、天は開いて、審判者をあなた方に示そう」(1991年9月11日)

2001年9月11日、多くの生命が奪われたツインタワーの崩壊に、世界は恐怖におびえました。被害者の多くは罪のない人々でした。恐ろしい終末的な光景が世界に示されましたが、私たちを不意に襲ったこの恐怖にもかかわらず、真に神に立ち返って悔い改めるどころか、世界は以前にもまして悪くなり、戦争の準備を始めました。私たち自身の過ち、罪悪、犯罪、棄教、そして世界が神を拒絶していることによってこれが起こったことを理解せず、私たちは神が示されていた道よりむしろ、サタンの言うことに従い続けています。

そして、キリストは津波について、それが起こる以前に何度か警告を与えられていました。最初のものは、1987年9月10日の初期にさかのぼります。

私はノートに書きました。「突然イエスは、私が夕べ見て忘れてしまった夢を思い出させられました。それは、最近見たある霊的直感と同じものでしたが、夢の中ではもっとひどい様相でした」。すると主は言われました。

「聞きなさい、寝ている間にそのヴィジョンを見せた、あなたがそれを感じるために、そう、逃げ道はない!」

私は書きました。「私はちょうど巨大な波のようにそれがやってくるのを見たとき、走って隠れようとしていました。それができないのをわかっていながら」。そして主にお尋ねしました。「けれど、あなたが私たちを愛しておられるのでしたら、どうしてこのようなことが? どうして?」神はお答えになりました。

「私は愛の神として知られているが、同時に、義の神としても知られている」私は尋ねました。「これを止めるにはどうしたらよいのでしょう?」神はお答えになりました。「今やあなた方からは途方もない償いが求められている。一致して一つとなり、互いに愛し合いなさい、私を信じ、私の神聖なわざを信じなさい、いつもあなた方のさ中にいるがゆえ」。

津波のニュースは私たち皆に衝撃を与え、愕然とさせましたが、神は私たちに警告を与えてくださらなかったと言うことは誰にもできません。神が代弁者としてお選びになった人々によって警告が与えられたとき、多くの人々はこう言いました。「私たちにはこんな警告は必要ない。私たちは教父たちの聖なる本から慰めを得ており、聖書も所有している。私たちは犠牲と祈りのどちらも決して不足することは決してない、ならば、すでに私たちに与えられたものに加えて、キリストが何を与えられるというのか?」そして彼らは耳を閉じてしまいました。

1991年12月24日、キリストのご降誕の前夜、非常に立腹されたキリストによって、もうひとつのメッセージが与えられました。

「私は全人類に平和を与えに今日やって来たが、ほとんどの人は耳を貸さない。今日は平和の条件と愛のメッセージを携えてやって来た、しかし指し示す平和を地球は冒漬し、与えようとしている愛はこの我が誕生の夜に嘲られ、冷やかされている。近頃は、私の聖なる名を抜きにして人類は祝っている。聖なる私の名は廃止され、誕生の日はレジャー用の大休日となり、偶像が崇拝されている。サタンは私の子どもたちの心に入ると、弱く眠っているのを見つけた。私は世に警告してきた……」(1991年12月24日)

キリストは私たちに示されています。本来の理由であるキリストのご降誕を思い出すことも、その聖なる御名を思い出すこともなしに、ただの休日としてクリスマスを祝うことは、神を大変怒らせるということを。

クリスマスには、すべてのキリスト者は喜びをもって教会に行き、私たちの救い主、贖い主である御方の聖なる御名を褒め称え、キリストのご降誕を祝うことが求められています。多くの人々はその背教のうちに、代わりにクリスマスツリーを讃えて崇拝し、贈り物を交換しては、うんざりするまで食べ、愚かなまでに遊び楽しみます。

その日の後にも、様々な警告がありました。

もう一つのものは、1993年2月18日に与えられました。

「見よ、雷鳴と火のうちに訪れる日がくる、しかし悲しいかな、あなた方の多くは自覚のないまま、深い眠りに陥っていよう! 私は聞こえない耳に届こうと、被造物よ、使者を次々と送っている。しかしもうあなた方の抵抗と無関心には疲れ果てた。その冷ややかさには疲れ果ててしまった。一致するために集うとなると、横柄で硬直するあなた方に疲れ果てている。茫然自失の杯をあなた方は満たし、今や溢れさせた。自らの声に酔いしれ、私の声に反発してるが、そう長くは続かない、じきに打ち倒されよう。無意味な過ちへと導く自分たちの声によって、私の声に反発したがゆえ、当然のことに私の教会は、あなた方の分裂で廃墟と化している。(…) 地球は揺すられ、流れ星のように軌道を逸し、山々と島々はその場所から根こそぎにされ、国たみがそっくり滅び去る、そして閉じていく巻き物のように、空は消えて行こう、ヴィジョンで見た通りに、娘よ。すべての住民に大きな苦難が襲う、そして信じない者は災い! 聞くように、もし今日の人々が、「ああ、しかし生ける御方はわれわれに憐れみをかけて下さる、あなたの預言は神によらず、あなた自身の霊による」と言うとしよう。彼らにはこう言い渡しなさい。あなた方は生きていると評されるが、死んでいる。その懐疑によって裁かれている、我が慈悲の時に信じるのを拒み、我が被造物に警告を発し、救おうと、代弁者たちを通して語る私の声が広まるのを禁じた……」(1993年2月18日)

科学者たちによれば、この地震が海底で起きたとき、地球全体が揺れ動いて一瞬静止し、通常の地軸から外れたということです。スマトラ島と他の島々は、本来の位置から数メートル移動しました。そのうちの一つは完全に消え去ったと思われましたが、のちに別の場所で再発見されました。

「我が王国の支配は戸口にまで迫っている、しかし私を受け入れる用意が出来ていようか? 私は惜しげもなく王的な豊かさをもって、あなた方の霊を生き返らせようと、霊的食物の宴を繰り広げた。そこを訪ねたときは、死から救うために、私自身の手で養おうとあなた方を待ったが あなた方は前に出て来るのを断った。こうしてまことの変容(悔い改め)を遂げるのを嫌がり、むしろ私の警告に対しては敵意を示したことを思うと、以前(2001年9月11日)に起きた嘆きの場面は、あなた方の前に横たわる悲しみの朝、あなた方自身の手で招くであろう悲しむべき朝に比べたなら、無に等しい。(…)地球を危機に陥れるだけでなく、全宇宙の安定も脅かす(…)今日は深い悲しみをもって上から見ているが、あなた方の企ては自分たちの上に降りかかってこよう。世界はすでに自分自身で選んだ道、自然界を激しく歯向かわせ、自然災害を引き寄せ、自らの企てによって自分自身を窒息させているその結果を味わっている」。

私たちの主はこう警告されています。その背教のゆえに、私たちは宇宙を危険にさらしていると──—自然が私たちに歯向かうように挑発し、地球だけではなく、宇宙全体を危険にさらしていると。

しかしこれで全てではありません。私たちの主は、私たちが心を変えて神に立ち返らなければ、さらに悪い出来事が来ることを警告されています。主は言われます。

「分かったであろう、娘よ、私は間もなく我が義も現す。私の計画には決められた時がある。我が慈悲の呼び掛けにも、決められた時がある。ひとたびこの慈悲の時が過ぎるなら、善人にも悪人にも、私の厳しさが慈しみと同様大いなるもので、私の怒りが、赦しと同様に力あるものだとすべての人に分からせる。私の予告したすべては、もはや速やかに起ころう──そこからは何も省かれない」(1993年2月19日)

2008年1月7日、午前3時10分ころ、聖母は私を起こされ、キリストが今、これまでにないほどに攻撃されていることを理解させてくださいました。聖母のメッセージは、私たちは預言されていた出来事に大変近づいていて、人類はこれらの出来事に直面しており、それは戸口の外に迫っているというものでした。それは世界の邪悪さと身勝手さ、愛の欠如によって引き起こされる出来事、神のみことばに対する世界の拒絶と悪意、偽善、邪悪さの結果として起こる出来事です。

聖母は、地球は危機に瀕しており、火によって苦しむことになると言われました。神のお怒りはこれ以上持ちこたえることができず、それは人類の上に降るでしょう。なぜなら、人類は罪にブレーキをかけることを拒否するからです。神の慈しみはこの日々ずっと、出来るだけ多くの人を神に導こうとされており、神はその御手を伸ばして彼らを救おうとされていましたが、わずかしか理解せず、耳を傾けませんでした。神の慈悲の時はもう長くは続かず、誰もが試みを受ける時が近づいています。地球はその内側から炎の川を吐き出し、世界の人々は彼らの無価値さと、心に神を持っていなかったための無力さを理解するでしょう。神は揺るぎなく、そのみことばに忠実です。神の家の者たちが試みを受ける時が来ました。その憐れみを拒んだ者は神の火を味わうでしょう。(私はここで、神の憐れみのみ業に対して盲目で、私たちを迫害する教会の人々について訊ねました。)聖母はこれらの人々も、彼らが値するものを受けるでしょうと言われました。

聖母は続いて、私たちの犠牲について語られました。聖母は皆に思い出すよう求められます。私たちの創造主なる神は、私たちがもっと神に自分自身を捧げること、回心のためには犠牲と絶え間ない祈りがなければ不足であるということを。もしも自分が回心し、「神のうちのまこと のいのち」を通して神を見いだしたと言うなら、犠牲の行為としてさらなる生け贄を捧げなくてはなりません。神への愛を、また物惜しみしないことを示すには、いろいろな方法があります。犠牲的な愛を捧げずには誰も「私たちは『神のうちのまこと のいのち』の人々です」と言うことはできません。本当に神を愛し、祝福された人々はこの日々、怖れてはなりません。私たちの祝された御母は、この苦難を耐え抜く人々は祝福されている、と言われます。聖母は、この神の御業を分かち合い推進する聖職者たちを喜んでおり(「神のうちのまこと のいのち」の人々として、聖霊に心を開く人々として)、彼らに確信を持ち続けるように言われます。彼らは神の霊からの特別な恵みを受けており、この霊を通して主のうちに、神の救いのご計画のうちに力強く成長したからです。キリストは彼らに神の平和をお与えになります。

もし誰かが神に仕え、自分自身を犠牲として捧げるなら、火による裁きは彼らの上に厳しいものとはならず、彼らをいのちへと導いた神の呼びかけを、霊のうちに喜んでいることでしょう。

聖母は、多くの人々が脱落しましたが、しかし多くの人々が高められるでしょうと言われました。多くが神のみことばを心のうちにしっかりと保つことに失敗し、「神のうちのまこと のいのち」のメッセージを通して与えられたみことばだけでなく、聖書を通して与えられたみことばからも逸脱しました。

2009年11月28日、主は私を呼ばれ、私が広めるべき一つの祈りをお与えになり、これを祈って神の慈悲を願うようにと求められました。これが主が言われたことです:

「ヴァスーラ、このように私に呼びかけなさい。心優しい御父よ、この時代をあなたの激しい怒りで打たないでください、彼らが完全に滅びてしまわないように。あなたの群れを罰しないでください、水が干上がり自然が枯れて、苦しみ悲嘆にくれてしまわないように。すべてがあなたの激怒に圧倒され、跡形も無く消え去ってしまうでしょう。あなたの息の熱で地上は燃え上がり、荒れ地と化してしまうでしょう! 地平線から一つの星が見えてきます。その夜は破壊され、灰が冬の雪のように降り、あなたの民を幽霊のように覆うでしょう。私たちをお赦しください、神よ、私たちを厳しく評価しないでください。あなたのうちに悦んだ者の心と、彼らのうちにあなたが悦んだことを思い出してください。あなたに忠実な者を思い出し、私たちの上にあなたの御手を振り下ろさないでください、むしろ、あなたの憐れみのうちに私たちを引き上げ、すべての心のうちにあなたの戒めを置いてください。アーメン」。

2010年4月14日、エイヤフィヤットラヨークトル火山が噴火し、私たち皆が聞いている通り、火山灰の雲を作り出しました。火山の周辺地域の住民は避難させられました。何人かの人々が近くでビデオを撮りましたが、大気中に火山灰の雲があるため、数メートル先もよく見ることができませんでした。すべてが灰色となり、灰に覆われてしまったのです。多数の航空便がキャンセルとなったため、航空経済は悲劇的な状況となり、毎日何百万ドルもの損失が起きています。果物や魚、その他の製品は倉庫の中で腐敗しています。旅行者は世界中で立ち往生しています。

この特別な火山が何年も前に噴火した際には、火山灰の噴出が止まらず、一年半も続きました。私がこの記事を書いている時にも、この噴出がいつ終わるのか、私たちはまだ様子を見守っています。

しかしながら、もし人々がファラオのように、時のしるしを無視するなら、もっと悪いことが地球に降りかかり、その時はもう手遅れです。

2010年4月14日、合衆国のミッドウエスト地域で地平線に明るい「星」が見られました。それは目を見張るようなものでした! たくさんのビデオが撮影されたため、ユーチューブでそれを見ることができます。

神はこの隕石が地球に向かって接近していることをご存じでした。こう訪ねる人がいるかもしれません。「なぜ神はこの『地平線の星』について、2009年11月28日の祈りの中で言及されたのか?」それは、この祈りを祈ることができるように(私たちはそうしました)、そしてそれによって災害を避けるようにするためでした。私は時の経過とともに、神はひとつの物差しをお持ちであり、神は取り引きに応じてくださる御方であるということを学びました。ちょうどアブラハム(取り引きの達人です)と、ソドムとゴモラの都市のように。神はアブラハムに、もしもこの二つの都市に、たった十人でも善人がいたなら、厄災を免除する用意があると言われました。しかし、ロトとその家族以外に善人はいませんでした。神はすべてをその物差しによって計られます。神は私たちの愛、信仰、祈り、態度、誠実、他者への同情、慈悲を計られます。神はその慈悲の時を私たちによって計られます。神は私たちの回心やその他のことのための時を計られます。神は確実にご存じです、私たちが取り引きの仕方を知っているアブラハムのようではないということを。これは事実です。神が知っておられる通り、私たちは意気地無しで弱々しく、ぼやけた思考のうちに、神と取り引きしてみようとすらしません。神は私たちの口がそれを言うことができるよう、取り引きするための言葉を置くことまでなさったのです! これが、神が2009年11月28日に私たちにお与えになった祈りのうちにあったのです! そうでなければ、もしそれが起こってしまったら、この隕石が地球に衝突して、私たちを灰で覆うはずではなかったと誰が言えるでしょうか? 神は私たちの口に、「あなたの激しい怒りで打たないでください」という言葉を二度も置かれました。さもなくば、神の激しい怒りが襲いかかってきたからです。「水が干上がり自然が枯れて」、そうです、もしもこの隕石がその夜地球に衝突していたら、この種の被害が起こっていたでしょう。この祈りで言われているように、「あなたの息の熱で地上は燃え上がり、ただの荒れ地と化してしまうでしょう!」。隕石は夜間に合衆国のミッドウエスト州に衝突し、この祈りにあるように、「灰が冬の雪のように降り、あなたの民を幽霊のように覆うでしょう」

神が求められたこの祈りの中で、神は私たちの役に立たない口にこの嘆願を置かれたのです。「私たちをお赦しください、神よ、私たちを厳しく評価しないでください」。すると、神はご自身を愛している信徒たちを思いおこし、少なくともこれらの者について配慮されるのです。この祈りは私たちに、これを使って神と取り引きをするように与えられたのです。私たちは取り引きをしました、私たちは世界中に祈りの集いを持っているので、この祈りは全世界で祈られました。これは「取り引き」の祈りなのだと私は言いたいと思います。これが神が私たちから聞きたかったものでした、そしてこれをもって、私はそう信じますが、神はそのお怒りを弱められ、代わりに、アイスランドの火山が全ヨーロッパの空に火山灰を噴出させはじめ、すべての航空便の飛行を一週間以上延期させました。企業は一日百万ドルの損失を出しています。人々は、ちょうど休日の初めだったため、何千人もが立ち往生し、空港で眠り、目的地に着くために地上の交通を使って何日も費やしました。これは小さな問題ではありません。今週、飛行機はわずかしか飛びませんでしたが、私たちはこの火山がどれほどの期間、火山灰と塵を噴出し続けるのかわかりませんし、何がおこるのかを知りません。

以前にも言ったとおり、おそらくこれは、私たちに実際に起こりうることのうちのただの小さな「前菜」にすぎませんでした。これはまだ序曲に過ぎません、もし私たちが襟を正さないのならば。「主菜」は後にとっておかれます。多くの人々が、確実に、世界中で無関心のうちに生きており、神無しに、無気力の霊のうちに生きています。彼らは神を引き出しにしまい込み、鍵をかけ、その鍵を飲み干してしまいました。もう空けることができません。多くの聖職者たちは、神がいまされているように、ご自身の民に話されることを禁じ、信徒たちにむしろ耳を貸さないようにアドバイスし、「神のうちのまこと のいのち」の集会に参加することすら禁じ、このようにして神のご意思を知ることを阻んでいます。彼らはその不信において、イエスの弟子達に勝ってはいません。キリストがご復活されて「11人の弟子達に現れた」ときのことについて、聖書は語ります。(ルカ16・14-15)「その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである

イエスは彼らのかたくなな心とその不信仰に対して、いま一度、どうされると思いますか? イエスは彼らの、慎重さという口実の下での不信仰のゆえに、彼らを祝うでしょうか。「よろしい、あなた方は私の信徒たちが私の言うことを聞かないように、よく遠ざけ続けた!」と? いいえ、彼らを叱責されるでしょう、はい、もちろんそうです、イエスがご自身の弟子たちにされたように。

1993年2月18日、神は私たちにこう言われて警告されました。

「第六の封印が解かれようとしている。その時は、皆が闇に投げ込まれ、明かりは見当たらない。煙が巨大な炉から吹き上げてくるように深淵から吹き上げ、太陽も青空も暗く覆うであろうから。そして義の杯によって、この暗やみの日々には、あなた方を蛇や毒蛇に似たものとし、腹這いにさせ、塵を噛ませよう。あなた方が毒蛇にもまさっていないのを思い出すように、地面にまで押し伏させる。自分たちの罪で息はできなくなり、窒息しよう。私は怒りにまかせてあなた方を踏みにじり、憤りの中、踏みつける!(…) 暗やみの時が訪れたなら、私はあなた方自身の内側を示す。その霊魂を裏返しにする、そして霊魂を裏返しにされたあなた方は、霊魂が石炭のように黒いのを見て、かつてないほどの悲嘆を経験するだけでなく、あなた方自身の暗やみは周囲の闇よりはるかに深いと、胸を打ちながら言うであろう。(…)今までかつてなかったほどに、人間の生活は乏しくなる。その後、私の義憤がなだめられたなら、一人ひとりの中に私の玉座を据え、あなた方はともに一つの声、一つの心と一つの言語をもって、私、小羊をほめたたえる」

この預言が私たちに起こる前に、もう一度、私たちには悔い改める時間が与えられています。神は「何もそこから省かれない」と言われていますが、祈り、悔い改め、生き方を変えて聖なる生き方をすることによって、私たちはまだこの天罰の力を弱めることができるのです。私たちは神のうちのまこと のいのちを生きるように呼ばれています。神は和らぐことがおできになります、ちょうどニネベでそうされたように。

「神のうちのまこと のいのち」のメッセージは、破滅と陰欝の預言ではありません。神は私たちが行いを改めるようにと、この慈しみの時に、このメッセージを下さるのです。これは神の崇高な愛ゆえの呼びかけです。神は私たちが永久にその聖なる御名に背き、罪深い生活を送り続けることをお許しにはなりません。これが、私たちに多くの警告を与えようと、神が慈しみのうちに来られる理由なのです。

ヴァスーラ

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