シェイク・モハマド・アリ・エル―ハッジ・アリ・アル―アミール師

<信仰の泉に向かって>

シェイク・モハマド・アリ・エル―ハッジ・アリ・アル―アミール
イマーム・アズ―サジャード神学校校長
ベイルート、レバノン

序文

あらゆる進歩を遂げた現代の世界において、また、諸宗教が繁栄と衰微を繰り返しながらさまざまな段階を経験してきた今日、多くの疑問が私たちの現状に突き付けられており、私たちはそれに答えなければならない義務を負うようになりました。例えば:

――グローバル化され、また、経済や軍事等の体制に左右された政治的リーダーシップが取られている今の時代において、宗教が担わなければならない役割とは何なのか?

――信仰の旅路がその時代の文化に遅れることのないよう、高度で啓発的な宗教的概念を時代の流れに沿ってどのように広めていけばよいのか?

――全世界の人々が高度なコミュニケーション手段を有するようになった今、地球における諸宗教間の関係はどのように広がっていくべきか?

――私たちの時代において、特に物質主義が台頭する時代において、宗教の必要性は今もまだあるのか?

更に、宗教の役割や宗教の将来に対する疑問や疑いが大きくなっています。

しかしながら、私たちは、多くの要因によって存在している宗教の危機――いわゆる――宗教を脅かすもの――をまず認識する必要があります。危機とは、諸宗教が、その全ての経験をもってしても、いまだこの時代の社会と和解していないかのような状況にあるということです! そのやり方にしろ、文献にしろ、いまだに、現代においてもなお、時代遅れのままだということなのです! そして宗教がもはや、その置かれるべきところに置かれていないということです。つまり、不義や侵害のない世界に、すなわち、宗教に対する不義のない世界、あるいは宗教に直接関係のない分野で宗教が侵害を受けることのない状況に置かれていないということなのです。言い換えれば、宗教の活動が、宗教固有の場で、自然でスムーズな形でなされていないということなのです。これはまさに時代と宗教との大きな隔たりを明らかにするものです。
二十一世紀の宗教の展望

主にイスラム教以前の諸宗教が長い時代を通してい蓄積した豊かな経験の後に、また、忌むべき分派を背景とするイスラム教徒間の血生臭い争いが繰り広げられた後に、また、アラブ社会における「アラブの春」と名付けられた時代の後に、そして政治的なイスラム教徒が増えた今日、宗教の課題や問題について、また宗教が現代に求められている役割について、客観的かつ率直に語る時がやって来ました。

それで、次のような点がまず指摘されると思います。

――第一に、「信仰」と「宗教」の関係について:
一般的に、人は宗教の表現に集中するということです。それは儀式(典礼)がただの空しい慣習になりかねないことや、信仰が霊魂に根付くために必要であるにもかかわらず、人々が心からの信仰の深みに入って行かないことを含みます。

全能の神、すなわち最も重要な土台であり本質そのものへの「信仰」と、「宗教」というものには非常に大きな違いがあります。「宗教」は、表現であり、儀式であり、人によって異なり、宗教によっても異なり、時代的要因によってさえも異なります。従って、宗教的文献や考え方が何もかも人工的だとは申しませんが、あらゆる宗教に人間的影響が現れるのは明らかなのです。

一方「信仰」とは、宗教的枠組みの違いや形式の違いがあっても、また、宗教と宗教の違いや、教派と教派の違いがあっても、全能の神を信じる全ての信仰者の間に存在する一つの共通空間です。

今日、私たちは信仰者に対して、全ての信仰者に対して、より大きな敬意を持たなければなりません。たとえ儀式(典礼)の形式、やり方の違いや、その宗教を表す単なる外見的部分に同意できなかったとしても。

私たちが、宗教の表現の部分から、信仰の本質へと目を移す努力をするなら、諸宗教に従い信じる者たちの間にある共通空間が極限にまで広がっていくでしょう。

――第二に、多様性とその重要性について:
「多様性」とは神の被造物における規範です。それは人間の真の価値の源泉となるものです。なぜなら同じ人間のコピーが繰り返し存在するということはあり得ないのですから。人類が進歩を遂げた点は、人間が持つ多様性や違いを熟慮し受け入れる力を得たことです。それこそが、私たちの現実を変える道であり、人生をより好ましく生きる方向に導くのです。

私たちは知的レベル、霊的レベル、また教義的レベル等でそのことを悟るべきでしょう。これらの分野における多様性は、富と進歩の源泉となります。この普遍性から始めるならば、異なる諸宗教の信仰者間に存在するわずらわしい悩みの種は消えていくでしょう。

――第三に、諸宗教間の隔たりを埋めることについて:

諸宗教がそれぞれ獲得した経験や専門的な知識は、やがて宗教間の隔たりを事実上縮めるでしょう。いざこざが解消され、将来、必然的に和解が立証されるでしょう。あらゆる宗教が、見た目や儀式(典礼)に違いがあっても、同じ一つの船に乗ることができるでしょう。しかし、針路を導く最も重要なものは、正しいものの見方と挑戦すること、同時に、かかわり合う繋がりです。

――第四に、信仰の泉に向かって:

私たちの地域で「アラブの春」が勃発した後、多くの政治的病に苦しむ政治体制の構造に適応させる目的の下に、また自由が抑圧された段階にある中で、また権力交代のない状況や独裁政治が敷かれている中で―私は当時、種類の異なる春が始まったと捉えました。そしてそれを「宗教の春」と呼びました。もちろん、その春(宗教の春)は、どの宗教も地理的な場所も問うものではありません。

霊的側面の改革とは宗教の本質とその目的を表し、人間の霊魂の義とは社会改革において当然の発端となるものです。それは人間の宗教的生活と物質的生活両面のバランスを通して、また人間の霊的飢えが満たされ、価値観や信条によって精神が養われてこそ可能になります。そうして初めてその人に美徳が期待でき、その人は「蜜だけを注ぐ」ミツバチのようになるのです。

どのようにして私たちの分裂に橋を架けるべきか

『どのようにして私たちの分裂に橋を架けるべきか』というテーマは良いテーマだと思います。なぜなら私たちは、知的にも政治的にも民族的にもイデオロギー的にも異なっていますが、その私たちの間に本当に橋が築かれる必要があるからです。私たちのこうした違いは、先ほども申しましたが、神の被造物における神の規範であり、この(地球という)惑星において、人生の旅路に伴う人類の重要な課題です。

このテーマに意見を述べるとすれば、皆さまもお分かりのとおり、私たちを一つにするものはたくさんあるということ、いやむしろ、あまりにもたくさんあるということです。

a) 人類の兄弟愛:
兄弟愛は人類が持つ共通の特徴です。私たちは皆アダムの子どもですから、人類として互いに兄弟姉妹なのです。この絆は何よりも尊いものです。

b) 神の地球における相続者:
私たちが生きているこの広大な惑星は、私たちの大きな我が家です。それを保護し、発展させていく責任が私たちにあります。私たちはその管理を任されており、共に分かち合っているのです。

c) 全能の神への信仰:
私たちを創造された神への信仰です。私たちは表現や教えに違いがあっても、神の存在に関して、また神を信じるということに関して違いはありません。

d) 同じ宿命:
私たちは皆、やがて地上の生活を終え、全能の神に向かう旅路につきます。死は宿命であり、私たちを一つにします。なぜなら私たちは同じ旅路についており、同じ電車に乗って今はまだ未知の場所に運ばれていくからです。しかし、私たちはその場所で再び共に集まり、出会うでしょう。従って、神と人生は私たちを一つに結び付けるのです。

地球的平和

手短に申しますが――とは言え、長くなってしまいましたが――次のように締めくくりたいと思います。

人類が過去数千年にわたって高度な知識を培った後、今や、平和こそが人類の善意の産物であることを悟るべき時です。人類の善意とは、個人の魂が訓練と教育を経て産み出されるものであり、その魂の産み出す内的平和が、社会的かつ政治的平和として影響を与えていくのです。

宗教を政治的体制として考えると、それは人間的や文化の熟考、理解、自覚ということになります。そういった宗教や国々は、そこに属する人々が平和を有していない場合、その人々に平和を与えることはできません。

人の印象を国に刻み込むのは人であり、宗教に刻み込むのも人です。ですから平和を求めるならば、人の宗教的傾向からではなく、その人自身から直接求めるのがより効果的です。そのことに魔法の秘策はありません!!

『神のうちの真のいのち』の巡礼

最後に

私たちのこの光景以上に、深く知的な言葉を見いだすことはできないと思います。一神教やその他の諸宗教の特性と目的を説明するにあたり、私たちのこの共通の場である「巡礼」こそ最善の表現であり、どんな知的な研究よりも効果的なものです。

共にこの巡礼を過ごすことによって、私たちは宗教という上着の下に隠れている多くの社会的障害を既に克服しています。宗教の異なった私たちのこうした集まりが直面する障害は、非宗教的なものに起因しています。神聖な宗教体系において、全人類の共通善とならないものが含まれることはなく、またある宗教の信仰者が守っている社会様式を、他の宗教の信仰者が差別するということもないのです。なぜなら、そのような差別は寛容な宗教の霊性からかけ離れているからです。

この「巡礼」は神の愛の行いです。人類にとって完全な善であり、私たちが受ける最終的(死後における)報いです。それは私たちが行っている祈りや儀式(典礼)によって得られる報い以上のものであり、普遍の祈りだからです。単なる旅行ではありません。

私たちのこの出会いには責任があります。私たちがこうして集まったことこそ、人類の宗教が担う責任をより多く私たちに課しているのであり、この集いにはそういった価値が、人間的価値があるのです。ですから、私たちはそれぞれの文化や宗教、民族性を有しながらも、全人類における善と平和、愛の使者となることが可能なのです。

私たちがまた新たな巡礼で再会できますよう希望すると共に、その日までこの巡礼が、その霊性や背景において、私たちの果たすべき責任を私たちの内にとどめてくれますように。すなわち、繰り返し行われるこの巡礼の経験や知識が私たちそれぞれの社会に理解され、付与されていくための責任が私たちの内に維持されますように。

有能なヴァスーラ・リデン夫人を初め、『神のうちの真のいのち』のスタッフの皆さん、開催地のロシアに対して、重ね重ね感謝いたします。

巡礼に参加された皆さんにも心から感謝いたします。

ヴァスーラ・リデン夫人の長寿と健康を願い、夫人がいつまでも愛と寛容の模範として、また、人類の調和と平和のための最善の使者としてとどまられることをお祈りいたします。