クリスマスに関する一考察

1.トニー神父選によるクリスマスのための黙想
2.テオ神父から「神のうちのまこと のいのち」の読者の皆さんへ、クリスマスに関する一考察


「私が聖霊により 乙女なる母の胎に宿ったその日、悪魔たちはみな恐怖のあまり動けなくなった それと同時に天国では天軍がこぞって 神を賛美しながら歌った:『天のいと高きところには神に栄光、神のご好意を得た人々には平和』。こうして私は 天から天に、玉座から玉座に降ってきた……」。(1996年3月25日)

「我が愛の叫びを聞き分ける準備はできているか? 心を開き 今日の我が恵みを感謝をもって受け入れる用意はあろうか? 私のもとに歩み来て 礼拝の時間にうち伏す用意があろうか、まさに私の降誕の時、讃えながら、拝みに訪れた最初の羊飼いたちのように? 今度こそは心から私をほめ称える準備ができているか?」 (1989年8月9日)

この二つのメッセージが全てを語っていると考えます。神が皆さんを祝福してくださいますよう、また世界じゅうのすべてのメッセージの読者が祝されたクリスマスを迎えることができますように。

トニー神父


「神のうちのまこと のいのち」の読者の方々へ、クリスマスに関する一考察

伝統的に、人々は毎年クリスマスを二つの方法で過ごします。一つ目は、キリスト教圏をはるかに越えた祝祭のうちに多数の人類を浸食した、息を詰まらせるような消費者精神としてです。他方は、歴史上最もよく知られた人物の生誕の出来事を祝う古典的な祝祭としてです。

しかしながらこのどちらとも、私たちに対して本当の影響力は持っていません。私たちがご降誕を本当のことであるふりをしている限りは。あるいは人生において、神のうちに真実に生きているふりをしている限りは。

他の言い方で表現してみましょう。み言葉が肉となった、これは単に記念すべき歴史的出典ではありません。

アンティオキアでは、イエスという救い主、もしくはメシアの追従者は、「キリスト者」(クリスチャン)という名前を受けました。使徒言行録11章26節で指摘されている通り、これはこのナザレ人の教えと精神との同一性ゆえのことです。これと同様に、現在でも、イエス・キリストの新しい弟子の力強い現れとともに、人類に影響を与える必要があります。どうやって?それは、聖母を模倣することによってです。

もしも私たちが、神の聖霊が私たちを内側から変えてくださることを受け入れようと心から決心するなら、ちょうどマリアが神の影によって覆われたように、神はあなたの上にも来てくださいます。そして信じてください、神はあなたをその聖香油によって覆ってくださいます。福音記者ルカがその福音書の第1章37節で断言しています、「神にできないことは何一つない」。

あなたは身ごもります。そうです、「神のうちのまこと のいのち」はあなたの中に存在するでしょう。あなたはもはや生きておらず、キリストがあなたのうちに生きているのです。

あなたは産むでしょう。神秘的に、あなたはイエス・キリストを産むのです。言い換えるなら、あなたはイエスが知られるようにするのです。あなたはもはやただの一人のキリスト者(クリスチャン)ではなく、クリストフォロス(ギリシャ語、「キリストを背負う者」の意、三世紀の聖人の名)となり、キリストの炎を運ぶ者となるのです。この炎は、神が地上に燃え立たせたいと切に願っておられる火です。あなたはクリストフォロス、イエスを担ぐものとなるのです。

このようにして、クリスマスの驚くべき出来事は、毎年12月の美談を記念するものではなくなります。クリスマスは、キリストを着た私たちの人生に常に存在します。私たちはマリアや聖ヨセフがしたように、今日においてもすべての被造物を照らし救い出す神の光を、善意の人々に明らかにすることができるのです。

永遠に続く幸福なクリスマスが、皆さん全てにありますように!
テオ神父