イアヌッツィ神父の最近のコメント、時の終わりと免償について

2025年3月7日 お知らせ

 

「状況が厳しくなると、告解できる司祭を見つけるのが難しくなるでしょう。」

時の終わりと免償に関するイアヌッツィ神父の最近のコメントが紹介されています。参考にしてください。

<和訳>

主をたたえよ、私の魂よ、私の中にあるすべてのものよ、主の聖なる御名をたたえよ。

「エブリシング・カトリック」にまたお越しいただき、本当にありがとうございます。このチャンネルをサポートしてくださって感謝しています。いつもここにいてくださる皆さんが、特に教会や聖人たちについて多くを学んでくださること願います。

今回の動画では、ジョセフ・イアヌッツィ神父のある動画を共有したいと思います。彼は「剣の預言」のようなものについて話しています。もしこれが一般の人やその話題について語る資格のない人から出たものだったら、おそらく共有することはなかったでしょう。しかし、イアヌッツィ神父は神秘神学を専門とし、このテーマについて教え、語る資格と権限を持っている方であるため、私は喜んでこの動画を皆さんに紹介したいと思います。どうぞお聴きください。


多くの皆さんが、現代の動向や、今日の教会と世界の霊的状況に敏感だと思います。時が非常に迫っています。私の意見では、もはや何年という単位ではなく、数か月の話です。私が時が近いと言う理由を強調するために、4つの情報源を挙げて説明します。

昨年9月に亡くなった神秘家が受けた「神のうちの真のいのち」のメッセージを思い出してください。2024年7月のイエスからのメッセージが公開され、そこで「これらの出来事が起こり始めるまで、あと一、二年しかない」と言われています。もちろん、これらの出来事は私たちが回心するかしないかに依存しています。私たちはそれらを完全に防ぐことはできません。それらは必ず起こります。しかし、私たちの回心次第で、それらを和らげたり、あるいは延期したりすることが可能です。

これが第一の例で、昨年7月に「あと一、二年」と言われたのです。また、ガラバンダルの聖母は4人の預言者たちに、これらの出来事が起こると告げました。空に警告のしるしが現れ、その後に「懲罰」が訪れると。そして、4人の教皇がさらに続く後に「時の終わりの始まり」が来ると言いました。「神のうちの真のいのち」でも、時の終わりの出来事が1~2年後に始まるとされています。ガラバンダルでは「この後4人の教皇の後に時の終わりが始まる」とあります。関連性が見えます。

今、教皇様は病院にいらっしゃいます。また、メジュゴリエでは、聖母が6人の預言者に告げられました。彼らが十の秘密を受け取った後、時の終わりの出来事が始まると。6人のうち5人は十の秘密を受け取り、1人は9つを受け取っています。あと一つの秘密が明かされれば、これらの出来事が始まるのです。その切迫性がわかりますね。

さらに、NASAが数年前に発表したことがあります。彼らは小惑星アポフィスを発見し、さらに別の天体も見つけたと。その一つが2029年4月13日金曜日に地球に衝突すると言いました。その後、ウェブサイトからその情報は削除され、「おそらく地球をかすめるだけだろうが、確信はない」と訂正されました(*訳注:現時点ではアポフィスの衝突可能性はないことが分かっている)。でも、今、二つの小天体が漂っていて、これらすべてが、私たちが「いつくしみの時代」のまさに終わりを迎えている兆候なのです。

イエスは聖ファウスティナに、「いつくしみの時代は終わりを迎え、私の義に道を譲る」と言われました。これは神学では「主の日」、聖書では神の怒りが現れる時として知られています。公認された預言の文書から、この「懲罰」が何を意味するのか、私たちがどう備えるべきかを知ることができます。四旬節とは、まさにこれらの時に備える方法についてのものです。これは私の神学的な意見で、間違っていることを願うものですが、私たちの前には、あと二回の、信頼できる「神のいつくしみの主日」があるだろうと思います。3回、4回、もしかしたら50回あるかもしれませんが。誰にもわかりません。ただ、私が見聞きしていることから判断すると、状況が厳しくなると、告解できる司祭を見つけるのが難しくなるでしょう。

ガラバンダルの聖母はこう言われました。「警告」が起こる時、それは空のしるしの前、懲罰の前ですが、状況が非常に悪化し、教会に行くことすらできなくなると。私たちはコロナ禍でその一部を経験しましたが、次はそれよりもずっとひどくなります。その「次」が何を意味するのかはわかりません。でも、教会にも行けなくなる期間が来るでしょう。だからこそ、私は「神のいつくしみの主日」をとても真剣に受け止めてほしいのです。それは復活祭後の最初の主日です。美しい機会です。なぜなら、東方教会と西方教会が同じ復活祭の日を一緒に祝うことはあまりないからです。そのため、この「神のいつくしみの主日」のゆるしを受ける人もいるでしょう。

「神のいつくしみの主日」は、復活祭後の最初の主日です。私は以前に人々に言いました。教会の「全免償」と「神のいつくしみ」の全免償には違いがあると。希望の聖年における教会の全免償と、神のいつくしみの祝日の全免償は別のものです。でも、神のいつくしみの主日は教会の全免償よりも特別で偉大です。なぜそう言うのか。教会が定める全免償には五つの条件が必要で、聖年の間は一日に一回の全免償が得られます。一方、神のいつくしみの主日には二つの条件しかありません。

教会の全免償は、過去の聖人たちが積み上げた恵みの宝庫から来ます。しかし、神のいつくしみの主日は、神のいつくしみの深みそのものから直接与えられるもので、聖人の宝庫からではありません。ここに違いがあります。教会の全免償で、すべての罪と罰の完全なゆるしを得るのは難しいのです。なぜなら、すべての罪からの完全な離脱が必要だからです。でも、神のいつくしみの全免償にはそれが求められません。

かつて1950年代、ピオ神父が悔い改めたある人に聞かれました。彼は一群の人々を連れて、聖フランシスコが教会を建て始めた場所へ行ったのです。聖フランシスコは主の言葉「私の教会を再建しなさい」を文字通り受け取り、実際に建て始めましたが、それが意図したものではないと気づき、やめて亡くなりました。毎年そこを訪れる人々には教会から全免償が与えられます。聖フランシスコの祝日に簡単に行けますね。1950年代、数千人の魂がそこへ行き、その悔い改めた人がピオ神父に「何人が全免償を受けましたか」と尋ねました。ピオ神父は手を挙げて二本の指を示しました。人々は驚きました。「みんなくれたんじゃないんですか?」と聞くと、彼は「免償は得たが、完全ではなかった。すべての罪から完全に離れていなかったからだ」と言いました。でも、神のいつくしみの祝日にはそれが必要ありません。必要なのは痛悔だけです。

痛悔は、恐れ(不完全な痛悔)とは違います。恐れは地獄への恐怖でしかありませんが、痛悔は神への愛を証明する決意を伴います。イスカリオテのユダには恐れだけがあって、悔恨の心がありませんでした。教会は、恐れだけでは大罪はゆるされず、小罪しかゆるされないと教えています。悔恨は神への愛であり、それが大罪をゆるします。神への愛があるかどうかは、決意によってわかります。ユダは決意をしませんでした。彼は恐れていましたが、聖ペテロのように「ごめんなさい、もうしません」とは言いませんでした。だからこそ、この神のいつくしみの祝日を最大限に活用することがとても大切だと思います。