2025年8月10日

エジプトのコプト正教の聖人、皮なめし職人の聖シモンについて

2025年8月10日 in お知らせ

2023年、私たちはエジプトのカイロを巡礼で訪れましたが、その時、信仰によって山を動かしたコプト正教会の聖人についての伝承を耳にしました。皮なめし職人の聖シモンです。

皮なめし職人の聖シモン(十世紀)は、靴職人の聖シモン(コプト語:Ⲫⲏⲉⲑⲟⲩⲁⲃ Ⲥⲓⲙⲱⲛ Ⲡⲓⲃⲁⲕϣⲁⲣ; Ⲡⲓϩⲟⲙ;アラビア語:سمعان الدباغ、Sama’an al-Dabagh)としても知られ、エジプトのカイロにあるモカッタム山を動かしたという奇跡の物語に関連するコプト正教会の聖人です。この出来事は、ムスリムのファティマ朝カリフ、アル・ムイズ・リディーニッラー(953–975年在位)の治世中、コプト正教会のアレクサンドリア教皇アブラハム(アブラアム)の時代に起こったとされています。

生涯

皮なめし職人の聖シモンは十世紀末に生き、多くのエジプトのコプト・キリスト教徒が手工業に従事していた時代に、皮なめし職人として働いていました。この職業は皮革に関連する複数の技術を包含し、シモンは皮なめし職人、靴職人、革職人などの称号で呼ばれました。

山を動かす奇跡

伝承によると、カリフ・アル・ムイズ(972–975年在位)は、宗教指導者たちを招いて議論をさせていました。ある議論の場で、教皇アブラハムとユダヤ人のヤクブ・イブン・キリス(別の話ではモーセと呼ばれる)が参加し、アブラハムが議論で優位に立ちました。復讐を企てたイブン・キリスは、マタイ福音書(17・20)の「イエスは言われた。『はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。』」を引用し、教皇にこの奇跡を証明するよう求めました。カリフはアブラハムにこの言葉が福音書にあるかと尋ね、アブラハムが「ある」と答えると、三日以内にこの奇跡を行わなければ、コプト正教徒は全員剣で殺されると命じました。

アブラハムは僧侶、司祭、長老たちを集め、三日間教会で悔い改めの祈りをしました。三日目の朝、空中教会で祈っていると、聖母マリアが現れ、市場で「水の入った壺を肩に担いでいる片目の男」を見つけるように、彼が奇跡を起こす者だと告げました。アブラハムは市場でその男、皮なめし職人の聖シモンを見つけました。シモンは、聖書の「もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい」(マタイ 5・29–30)に従い、自身の右目をえぐり出していた人物でした。シモンはアブラハムに、司祭や民衆、カリフや兵士たちと共に山に行き、「主よ、あわれみたまえ」と三回叫び、十字架のしるしを山にかけるよう指示しました。アブラハムがその通りにすると、山が持ち上がり、奇跡が起こりました。カリフの前で奇跡が実現した後、アブラハムはシモンを探しましたが、彼は姿を消し、誰も見つけられませんでした。カリフはアブラハムに「おお、教皇よ、私はあなたの信仰の正しさを知った」と語りました。

この奇跡の後、アル・ムイズはキリスト教に改宗し、息子に位を譲って修道院に入ったとされます。彼のための大きな洗礼盤が聖メルクリウス教会に作られ、「スルタンの洗礼盤(Maamoudiat Al-Sultan)」として現存しています。ただし、この改宗の話は、アフマド・ザキ・パシャやムハンマド・アブドゥッラー・エナンなどの著名なムスリム歴史家によって否定されています。この奇跡を記念して、コプト正教会は降誕祭の前に三日間の特別な断食を行います。物語の詳細は、979年11月27日に奇跡が起こったと主張するコプトのウェブサイトに記載されています。

シモンの遺骨の発見

1989–91年に、コプトの聖職者と考古学者が十世紀の皮なめし職人であり聖人であるシモンの遺骨を探しました。シモンはカイロ旧市街のアル・ハバシュ墓地に埋葬されたとされていましたが、コプト正教会のバビロン・エル・ダラグの聖母教会の修復中に彼の遺骨が発見されました。1991年8月4日、教会の表面下約1メートルで発見された遺骨は、頭の後ろに髪が残っており、頭頂部が禿げていたことが確認されました。これは、シモンが貧しい人々に水を運んでいたとされる特徴と一致します。近くの教会では、千年以上前のものとされるシモンが使ったとされる水がめの破片も発見され、現在はモカッタムの聖シモン教会に保管されています。

奉献された礼拝所

聖母マリアと皮なめし職人の聖シモン大聖堂は、ナイル川東岸のザッバリーン村(ゴミ収集者の村)の背後にある皮なめし職人の聖シモン修道院にあります。1969年、カイロの知事がゴミ収集者をモカッタムに移すことを決定し、1987年には約1万5000人がザッバリーン村に住んでいました。修道院への最終行程は「ごみの町」としても知られるザッバリーン村の通りを通ります。

(Wikipediaの”Simon the Tanner”を和訳)