ペレス・ヴァレラ神父

ペレス・ヴァレラ神父

イエズス会、上智大学名誉教授(神学・哲学)

この書に記されているメッセージが、真の宝を見いだし得るものとして受け止められ、カトリックの伝統に属する信仰者のみならず、分かれたキリストにおける兄弟たち、そしてすべての人々にとっても、その教えが自分のものとなることを願いながら、いくつか留意したらよいと思われることを述べたいと思います。ここでは、主にカトリックの伝統に属する信仰者のための助けになればと思いますが、他の方々にとっても役立つなら幸いです。

まず初めに、私は一人の信仰者として、この書について徹底した識別をし、ヴァスーラのメッセージが、生ける神の子であり、私たちの救い主である主イエスご自身からのものであることを確信しました。もちろん、これは教会の権威によって裏付けられたものではありません1。教会はこれについて賢明に、慎重に調査し、当分の間、最終的な判断を下すことはないでしょう。

ただ、私はここで、私の得た確信を皆さんと分かち合いたいと思います。これらのメッセージを主イエスご自身からのものとして信じて読むなら、私がその中に真のパンとぶどう酒を見いだしたように、あなたもそれを見いだすでしょう。そして教会が教えている、主イエスへの信仰が限りなく深まっていく道を歩むことになるでしょう。その結果、主イエスの聖心とあなたの心が直接、常に、親密に結ばれる必要性をより切実に感じるようになるでしょう。

この書は、純金のようです。もしあなたが聖書を生命の泉としてまだ発見していないなら、この書はその発見を助けてくれるでしょう。もし教会が尊ぶように、あなたも聖書を尊んでいるなら、ヴァスーラのメッセージが、聖書の教えと見事に一致していることを悟り、実感できるでしょう。それだけではありません。聖霊の働きがなければ、聖書は紙の上に記されているインクのしるしにすぎません。聖霊の働きによって初めて、聖書は生きたみことばとなり、歴史にわたって、教会の伝統として展開していくのです。聖霊のそうした歴史的な働きを無視するなら、どんな神学的、あるいは霊的な運動も、信仰者の目に疑わしいものに映るでしょう。その観点からも、この書に疑わしいことは何も見られません。聖霊に助けを願いつつ読むなら、あなたは教会の尊い、純粋な伝統を再発見することになるでしょう。

また、ヴァスーラのメッセージは、根本的な絶え間ない回心への招きという意味をもっています。周知のとおり、それは尋常ではないやり方でつづられています。しかし、読者は何かもの珍しいことを求めたり、単なる好奇心からそれを読むべきではありません。聖霊のみ業は、聖霊によってしか認めることができないのです。そして聖霊の一番根本的なみ業は、人間の回心なのです。聖霊による回心を求めて初めて、ヴァスーラのメッセージはあなたへのメッセージとなり、その豊かさを味わうことができるでしょう。そのとき、珍しいものを求める代わりに、ごく平凡なものの中にある非凡なみ業に目が開かれ、驚くことでしょう。

回心の招きに応える行動をとるには、もちろん、多くの苦しみが伴います。浅い信仰、希望、愛から、深い信仰、希望、愛への移行は甘いものではなく、十字架の意味をもっています。しかも現代のキリスト者の回心は、すべてのキリスト者の一致への道を準備するものです。その道を歩むことは、私たちにまだまだ足りない柔軟性や、異なる兄弟から学ぶ素直さと同時に、真理への忠実さを求めるものです。真理への忠実さを、自分の頑固さと間違えてはなりませんし、兄弟に対する閉ざされた心を真理への忠実さと呼ぶこともできません。真理なしには、キリスト者の生活もキリスト者の一致も意味がありません。たとえばマリア崇敬や教皇の権威を認めることを排除して求める一致は、真理を裏切ることになります。一方、聖霊はカトリックの教会の中でしか働かれないと主張するなら、それも真理を裏切ることになります。この書のメッセージは、聖霊によって私たちに兄弟から学ぶ素直さ、真理への忠実さ、またそのバランスをも育ててくれるでしょう。これらのことは回心への動きのなかに含まれています。

次に、ヴァスーラのメッセージを読むにあたって気をつけたらよいと思われることについて、少しつけ加えたいと思います。まず、誤解しないように気をつけましょう。ヴァスーラのメッセージの中に、読者は自分の感受性に合わないところや自分の考えとぶつかるところを見つけるかもしれません。そのとき、聖霊の助けを願ってその問題を乗り越えられることもあれば、あるいは疑問が残ることもあるでしょう。後者の場合は、健全な答えを見いだすことができるように助けを求めることが必要でしょう。メッセージの意味が自分にはっきりしないからという理由で、「間違っている」と言ってしまうのは軽率です。ヴァスーラは教会の教えに基づく聖書の読み方を認め、そして私の見たところ、彼女のメッセージには教義に反することは何もありません。さらに、宗教上起こり得る二つの根本的な錯覚に陥らないように気をつけましょう。ひとつは信仰を忘れて神体験を尊重しすぎること、もうひとつは原理主義ファンダメンタリズムです。それぞれの罠について一言触れましょう。

聖霊によって私たちがいただく神の体験は、信仰、希望、愛をおのずと深め、み旨の道を照らし、その道を歩む力を与えてくれます。信仰の内容は神そのものであり、文字通り無限です。しかし体験は、いくら素晴らしいものであっても、人間の内面性に条件づけられ、常に限られたものです。錯覚が起こり得るのは、体験に目を奪われ、それに陶酔し、有頂天になって信仰を忘れ、体験を中心にしてしまうからです。つまり、神を中心にする代わりに、自分を中心にしてしまい、体験のゆえに傲慢になることです。それによって真の宗教体験は根本から損なわれ、実を結ばず、不毛なままになります。気をつけなければ、ヴァスーラのメッセージを読む人もそのような錯覚に陥る危険があります。また、個人に起こり得ることは、グループにも起こり得ます。この書の勧めに従って生まれるであろうグループは、閉ざされたひとつの「派」にならないように気をつけてほしいと思います。ヴァスーラのメッセージは普遍的なもので、いかなるグループにも限られるものではないからです。

起こり得るもうひとつの錯覚は、原理主義ファンダメンタリズムです。神様が一方的に与えられる恵みは、日常生活、仕事、遊びや学問などを私たちの創造的な協力によって変容させるものです。恵みとのあらゆる協力を拒む立場を、ファンダメンタリズムと言います。したがって、恵みとの協力を拒む度合いに応じて、私たちの行動はファンダメンタリズムの様相を帯びてきます。

ですから、ヴァスーラのメッセージから教えを汲み取る人は、聖霊と協力する責任を感じてほしいと思います。そうすれば、信仰は家族、家庭、他の人間関係、つまり、文化に受肉していくでしょう。そのためには、祈りのほかに信仰について学ぶ必要があります。ヴァスーラのメッセージだけで信仰教育は済むと考えてはなりません。

最後にヴァスーラについて教会がどのように判断しているかについて記しておきましょう。1995年10月4日「オッセルバトーレ・ロマーノ」という新聞に、教皇庁教理省はヴァスーラの諸著について、かなり否定的な記事を載せました(その後の教理省の調査についてはこちらを参照)。しかし、1996年5月9日に同省の長官であるラッツィンガー枢機卿は、キリスト者がヴァスーラのメッセージに対してどのような態度を取るべきかについての問いに次のように答えました。「……彼女の著書の普及を続けてもよろしい。ただ適切に識別するように気をつけるべきです」と。私は枢機卿のそうした勧めに従い、自分なりに徹底的に識別を行い、すべてのキリスト者に『神のうちのまこと のいのち』を神との一致を促す書として勧めたいと思いました。

聖霊に心を開いてください。そうすれば、ヴァスーラのメッセージのうちにあなたの歩みを照らす光と力、あなたの心の慰め、平和を見いだせるでしょう。

1998年2月22日
聖ペトロの使徒座の祝日に
東京にて

  1. 訳注:この文章が書かれた1998年当時、権威筋の承認と印刷許可は出ていなかった。