ジンバブエのセラフィム府主教による悼辞

聖書には、「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました」(ヘブライ1・1)と書かれています。

ヘブライ人への手紙1章1節を簡単に言い換えると、次のことが強調されています。「古代、つまりキリストが現れる前の時代、神は多くの機会と多くの方法で、預言者たちを通して、私たちの先祖に語りかけ、ご自分の意志を明らかにされました。そして、この終わりの時代には、神はご自身の独り子イエス・キリストを通して私たちに語りかけられたのです。」

異邦人への使徒であり、知恵者であるパウロが語っていることは、私たちの愛するヴァスーラにも当てはまります。

パウロは私たちに、神が私たちの救いのために世界に明かされていることを強調しています。ヴァスーラのメッセージを注意深く研究すると、聖書で重要とされているのに、多くのキリスト教徒たちが実際には実行していない点を強調していることがわかります。

ヴァスーラはメッセージで次のことを強調しています。

第一に、私たちの棄教からの悔い改め。
第二に、キリストの体としての私たちの一致。
そして第三に、地上で神の王国を生きるために、すべてを共有していた初期の教会のメンバーのように生きること。
「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた」(使徒言行録4・32)。

40年間にわたるヴァスーラの説教は、彼女の人生そのものでした。彼女の人生は、神の御目には、私たちは皆、平和と愛の中で生きるべき神の子どもたちであることを理解させるための彼女の日々の言葉でした。「神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます」(1ヨハネ4・16)。私たちがコロンビアにいた時、あの美しい国で起こっていた内戦を止めるために祈りを捧げたことを思い出します。

また、私たちがバルセロナで会い、日々の生活で聖母マリアの愛、犠牲、謙遜の模範に従おうとした時のことも思い出します。

バルセロナで一緒に会ったとき、私たちは日常生活において聖母の模範に従い、愛と犠牲と謙遜の規範に従った時のことを思い出します。

私たちがエジプトの聖地にいた時のヴァスーラのことも思い出します。そこはヨセフと若きマリアが、血に飢えたヘロデに幼子イエスを殺されることがないように避難した地であり、シナイ山の聖カタリナ修道院はモーセが十戒を受けた場所です。

ヴァスーラには、イエス・キリストがラザロの姉妹たちと復活の前に交わした言葉が当てはまります。「私を信じる者は、死んでも生きる」(ヨハネ11・26)。

ご存知の通り、ヴァスーラは、彼女が私たちに教えたことを最初に実践した人物です。だからこそ、彼女の慈善活動は敬虔なキリスト教徒たちの心を動かし、貧困に苦しむ国々で困窮し孤児となった子どもたちの保護に貢献することにつながったのです。ベス・ミリアム財団は今や世界中に知られています。

ベス・ミリアム財団が貧困に苦しむ孤児を保護している国々の中には、ジンバブエも含まれます。子どもたちがヴァスーラと支援者たちに感謝を伝えたいと言った時、ヴァスーラは、困窮した子供たちや孤児たちに与える食事は、神の御子の代理であられる聖母マリアからの贈り物だから、聖母マリアに感謝すべきですと指摘しました。

しかし今日は、ヴァスーラの忠告に初めて背くことをお許しください。私たちのヴァスーラ、あなたに感謝します。すべてのために。

神が私たちに与えてくださった贈り物に感謝します。神の預言者たちのように、私たちに絶えることのない愛を教え、許し、そして、アダムとイブが堕落する前の楽園で暮らしていたように、また、天国に入る人々が暮らすように、私たちに平和と団結、謙遜をもって生きることを教えてくれました。私たちのヴァスーラ、本当にありがとう。

あなたの夢と、すべてのキリスト者が同じ日に復活祭を祝うように努力してきたことは、神のご加護があれば、来年実現するでしょう。その年には、ニカイア公会議の1700周年も祝うことになります。この公会議は、「私は唯一の神を信じます」という共通の信仰の象徴と共に、すべてのキリスト教徒が従うものです。

ありがとう、ヴァスーラ。あなたは天国の聖なる天使たちとともに、私たち皆のために祈り続けてくれていると感じます。

ジンバブエのセラフィム・キッコティス府主教(東方正教会アレクサンドリア総主教庁)