日: 1986年12月11日

聖なる者になるとは、私のようになること

1986年12月11日 in ノート1-6

娘よ、聖なる者となりたいか? 恐れないように。

(イエスは前のメッセージの話題に戻られました。)

聖なる者になるとは、厳密にはどういうことなのでしょうか?

聖なる者になるとは、清くなること、そして心を完全に私に献げること。聖なる者になるとは、私のために愛をもって働くこと。聖なる者になるとは、私を愛し、私のそばにとどまること。聖なる者になるとは、私のおきてに従うこと。聖なる者になるとは、私のようになることである。

心だけで聖なる者になれるのですか?

なれる!

聖なる衣服よりも、心の方が大事なのでしょうか?

そうだ、心こそが重要だ。私のそばにとどまりなさい、そばにとどまりなさい1。私が望んでいるほど、あなたは近くにいない! 避けているように感じられる。

(イエスはうれしそうではいらっしゃいませんでした……)

私は聖なる者、だからあなたも聖なる者であってほしい。

心からあなたにもっと近づきたいです!

本気で言っているか? 本気で私を探し求めているか?

私を見捨てないでください!

私は見捨てない!

決して?

決して! 娘よ、恐れないように、修道服2があなたに悲しみをもたらすのではと恐れているのか? さあ、口に出して言ってみなさい!

(私はありったけの勇気を振り絞りました。)

本当は修道服を着たくありません。今のままの私であなたを愛しています……

やっとそれを言う勇気が持てたか、娘よ! あなたが正直でいてくれてうれしい。神である私は、あなたを愛している。あなたが反対のことを言っていたら、私の面前でうそをついたことになっただろう。

(神がとても喜んでおられるのを感じましたが、その結果を悲しまれたかもしれないとも思いました。)

悲しんではいない! 聞きなさい。あなたには修道服でではなく、心で聖なる者となってほしい。

中途半端とはどういう意味でしょう? 修道服を着なければ、中途半端になるのではないでしょうか?

中途半端という言葉も結局同じ意味を持つ、聖なる者となるために修道服は必要ない。着る物が聖であっても、心が聖でないなら何の価値があろうか? それは塩気を失った塩のようなものだ。あなたがもっと私に近づけるよう、私があなたの所へ行こう。もっと私と親密にさせてあげよう。愛されていると感じなさい、私を恐れないでほしい、私は平和。私、イエスがあなたを案内する。私があなたを導こう。もっと祈り、このようにして私と共に働きなさい。私への信仰を大きくしなさい。私を求めなさい。目を覚ましていなさい、時が近づいているのだから。