イエス様?
私だ。
イエス様、どうして司祭や神学者のような方たちよりも、メディアの方たちの方がたやすく信じてくれるのでしょう。この質問を私になさった時のことを覚えておられますか、主よ?
覚えている。
第一巻を読むと、残りが読みたくなり、彼らのほとんどが、第一巻を読んだ後には、ひざまずき、祈るようになります。人生でこれまで祈ったことのなかった人でさえ。すばらしいです!
ヴァスーラ、私の子どもたちは飢えている。私のパンを見ると、彼らは飢えを癒やすために、それをつかみ取る。もっとほしくなり、さらに求めて私のもとにやって来ると、私は持っているものをすべて与える。
けれど主よ、一度か二度あったことなのですが、それを読んだ人たちが喜びのあまり、司祭も喜んでくれると考えて、分かち合いたいと思ったのですが、司祭に全く関心を持っていただけなかったのです。実際、司祭たちはこの人々を失望させてしまいます。
ヴァスーラ、その者たちこそ私を傷つけ、繰り返し繰り返し私を刺し貫く者たちである。私の弟子たちが私を拒絶するのを見て、私は耐え難いほど苦しんでいる。彼らには私の小羊たちに与えるものが何もない。
それでも主よ、司祭たちの否定的な態度や、熱意の欠落にもかかわらず、彼らは落胆しません。あなたと再び出会い、そこに平和を見いだすからです。けれど、このようになってしまうことに心を痛めています。司祭たちがご出現のことを何もご存じないのが分かるとなおさらで、どうして教会はこのことについてもっと語らないのかと不思議に思うのです。彼らの一人の意見では、そういうことは小さな声で、しかも内輪の話だけにしておくものだと言うのです。
そうだ、ヴァスーラ、私の聖職者たちは、今日の私の業を押さえ込んでいる。娘よ、既に言ったが、もう一度言おう、彼らは知識の鍵を握っていながら、自分が入らないばかりか、入りたいと思う者の誰をも入らせない! 懐疑や猜疑心、頑迷さによって、道をふさいでいる。子どもとしての彼らを、私は失ってしまった。自分たちの知恵によって目が見えなくなり、私への道を見失ってしまっている。
──愛する者よ、今あなたがしなければならないことをすべて犠牲として献げ、私と共に祈りなさい。
はい、イエス様。
「御父よ、
彼らが平和について話し合うようになりますように、
彼らの不誠実さをおゆるしください、
御父よ、もし彼らが私を迫害したら、
傍観していないでください、
来てください、私を守りに来てください、
私の味方でいてください、
彼らを照らし、彼らに教え、
間違いに気付かせてあげてください、
あなたは正しいお方、
むしろ彼らの上に輝いてください、
彼らがこう言ってあなたをたたえますように、
『御自分の子どもたちが平和であるのを見たいと望まれる
いと高き私たちの神は偉大、
私たちを一致させるために降ってこられた主に賛美、
今日の御業を告げ知らせるために来られた主に賛美』。
アーメン。」
さあ、愛する者よ、後でまた会いに来なさい。今は私の現存を覚えておきなさい。愛している、娘よ。
はい、主よ、覚えておきます。