ノート1-6のメッセージ

私の十字架を身に付けるとは

1986年12月8日 ノート1-6

あなたの光の中にいてもよろしいでしょうか?

あなたは私の光の中にいる。私はイエス、あなたの救い主。娘よ、私の十字架を身に付けるとは1、私の苦しみを担うことを意味する。

あなたは霊であり、私も霊であって、聖なる者

1986年12月4日 ノート1-6

(いまだに驚いています。どうしてこんなことが起こっているのか、大きな疑いを抱いています。どうしてこんなことがあり得るでしょうか? 字を書いている手を自分でコントロールできないなどということがあり得るでしょうか。まるで別の力によって自分が使われているような感じなのです。でも、私は現実的過ぎるほど現実的なので、疑ってしまいます。それなのに、これは起こっています。私には何が何だか分かりません……)

ここにいる。私はイエス。娘よ、あなたは霊であり、私も霊1であって、聖なる者であることを覚えておきなさい。私はあなたのうちに住んでおり、あなたも私のうちに住んでいる。私のうちにとどまりなさい。私、イエスは、あなたといつも共にいる。このことを理解するように。私の光の中にとどまりなさい、私は光であり、私を通してあなたは知識を受けているのだから。あなたは成長している。

分かりました、あなただと納得しました。あなたは二つの目的を果たされましたね。一つは、私が今あなたを愛しているということ。もう一つは、このようにしてあなたが私と会われているということです。私はあなたに魅せられてしまいました。私がいくらひどいと言っても、世界で一番ひどい精神分裂だとは思いませんし、精神科医よりも精神病だとも思いません2。これが悪魔からのものではないということも知っています。なぜなら、悪魔に攻撃されたときの感覚を知っているからです。それは人をひどく苦しめ、落ち着きを失わせます3。あなたの呼びかけを受け取ることを自分で選んだわけでもありません、私はあなたからはるかに遠ざかっていたのですから。あなたがお望みになられたのです、私の神よ。私は後悔していません。どうして後悔などできるでしょう、今やあなたに魅せられているのですから!

子よ、私はあなたを引き上げて、私と共にいられるようにした。私を愛するように教えた。こうして私と共にいるのがうれしいか?

ええ、もちろんですとも!

心の底からあなたを祝福する。

受難

1986年11月9日 ノート1-6

あなたに平和があるように。私はここにいる、私はイエス・キリスト。目の前にいる、私はあなたの教師、あなたを愛している。私自身をいけにえとして献げることによって、悪は征服された。すぐにあなたのもとに行くから、眠ってはならない。私は啓示である。伝えたいことがある。私の十字架刑について話してほしい、ヴァスーラ。

何をお話しすればよいのでしょう? あなたが十字架につけられる前のことでしょうか? それとも、その最中のことでしょうか?

つけられる前のことだ。

(イエスはむち打ちの映像をお見せになりました。)

彼らは私をむちで打ってから、つばを吐きかけ、頭を数回激しく殴ったので目まいがした。腹を蹴られ、息ができなくなって地面に倒れた。彼らは、痛みにうめく私を代わる代わる蹴ってなぶりものにした。かつての私の面影はなかった。体は引き裂かれ、心も引き裂かれた。肉ががれ、体中で垂れ下がっていた。
 足がなえてしまい、もはや体を支えることができなくなったので、彼らのうちの一人が私を持ち上げ、引きずって行った。それから彼らは自分たちの式服の一つを私に着せた。私を前方に引きずり出し、何度も殴り続け、顔を横殴りにして私の鼻を折り、私を苦しめ続けた。私は彼らの侮辱する声を聞いた。娘よ、これほどまでの憎しみとあざけりの声が響き渡る中で、私のはいは大きくなるばかりであった。私は彼らがこう言っているのを聞いた、「お前の友人らは、自分たちの王が俺たちとここにいるというのに、一体どこに集まっているんだ、ユダヤ人は皆そいつらみたいに当てにならん奴ばかりなのか? 奴らの王を見てみろ!」。娘よ、彼らはいばらで編んだ王冠を私にかぶらせた、「お前を歓呼して出迎えるユダヤ人はどこにいる、お前は王なんだろう、違うのか? せめて王の真似まねくらいできないのか? 笑え! 泣くんじゃない、王なんだろう、違うのか? 王なら王らしく振る舞ったらどうだ」。彼らは私の両足を縄で縛り上げ、十字架の所まで歩くように命じた。
 娘よ、私は両足を縛られていたので歩くことができなかった、そこで彼らは私を地面に引き倒し、髪の毛をつかんで十字架の所まで引きずって行った。痛みは耐え難いものだった、むち打ちで所々がれてぶら下がっていた肉がちぎれて落ちていった。
 彼らは私の両足の縄をほどいた、そして私を蹴って立ち上がらせ、両肩で重荷を持ち上げさせようとした。私は頭に食い込んだいばらから顔にしたたり落ちる血で両目がふさがれ、私の十字架がどこにあるのか見えなかった。そのため、彼らは十字架を持ち上げて私の両肩に載せ、門の方に私を押しやった。娘よ、ああ、担がされた十字架がどんなに重かったことか! 背後からむちで追い立てられながら、門まで手探りで進んだ。私の血のために両目が焼けるように痛んだ、この血を通して、行く手を見ようと目をらした。
 その時、誰かが私の顔を拭いてくれるのを感じた。悲嘆に暮れた女たちが現れて、腫れ上がった私の顔をいてくれた。彼女たちがすすり泣き、嘆き悲しんでいる声が聞こえた。私は彼女たちを感じ取った。「祝されよ」、私は言った、「私の血は人類のすべての罪を洗い流すであろう。見よ、娘たちよ、あなたたちの救いの時が来た」。
 私は体を引きずるようにして立ち上がった。群衆は狂気と化していた。周りには一人の友もいなかった。誰一人慰めてくれる者もいなかった。苦痛はますます激しくなり、私は地面に倒れ込んでしまった。十字架につけられる前に私がことれるのを恐れて、兵士たちはシモンという男に私の十字架を担ぐように命じた。娘よ、それは優しさやあわれみから出た行為ではなかった。十字架につけるまで私を生かしておくためだったのだ。
 丘にたどり着くと、彼らは私を地面に押し倒し、衣服をぎ取った、私は裸のまますべての人々の目にさらされた、傷口が再び開いて血が地面に流れ落ちた。兵士たちが苦いものを混ぜたぶどう酒を差し出したが、私は断った、敵が私に与えた苦味を既に心の奥深くで味わっていたから。彼らはまず手早く私の左右の手首を釘付けにし、釘を十字架に固定させてから、ぼろぼろになった私の体を引き伸ばし、両足に荒々しく釘を刺し通した。娘よ、ああ娘よ、何という痛み、何という苦しみ、何という魂の苦悩、愛する者たちに見捨てられ、ペトロの上に私の教会を建てようとしていたのに、そのペトロにまで否認され、残りの友人たちにも否認され、完全な孤独のうちに取り残され、敵のなすがままに捨て置かれた。私は涙した、魂が悲しみに満ちていたから。
 兵士たちは私の十字架を押し立て、くぼみに差し込んで固定した。
 ほとんど何も見えなかったが、私は群衆を見つめた。腫れ上がった目で世を見つめた。私をろうしている人々の中に友人は見当たらなかった。私を慰めてくれる人は一人もいなかった。「わが神! わが神! なぜ私をお見捨てになったのですか」。私は愛してくれた人々皆に見捨てられたのだ。
 私の視線は母の上に留まった。母を見つめ、私たちは心で語り合った、「私の愛する子どもたちをあなたに与えます、彼らがあなたの子ともなるように、あなたは彼らの母となるのです」。
 すべては終わろうとしていた、救いが近づいていた。私は天が開くのを見た、すべての天使が沈黙したまま、まっすぐに立っていた、「父よ、私の霊を御手に委ねます、今や私はあなたと共におります」。
私、イエス・キリストが、あなたに私のもんを書き取らせた。
 私の十字架を担いなさい1、ヴァスーラ、私のために担いなさい、私の十字架は平和と愛を求めて叫んでいる。私が道を示してあげよう、あなたを愛しているから、娘よ。

どちらの家の方があなたをより必要としているだろうか?

1986年10月23日 ノート1-6

ヴァスーラ、どちらの家の方があなたをより必要としているだろうか? あなたに選んでもらいたい。

イエス様、あなたの家と私の家のどちらの方がより大切かとのお尋ねでしたら、もちろん「あなたの家」と答えます。どちらかを選ぶとすれば、あなたの家を選びます。

あなたを祝福する。

(イエスは大変喜んでおられるようでした!)

小さな子よ、あなたを教え導こう。
 さあ、私の十字架を取って、付いてきなさい。私が助けるということを忘れないように。あなたは私の弟子となる。私を現すことができるように助けよう。私は聖なる者、私は聖なる者である、だからあなたも聖なる者となりなさい、聖なる生き方をしなさい。私が支えよう。ヴァスーラ、私のために喜んで働いてくれるか?

もう一度お名前をおっしゃってください。

イエス・キリスト。

はい、あなたのために働きます。

愛している。呼びたいときにいつでも私を呼びなさい。

(神のために働くとは本当はどういうことなのか、よく分からないまま承諾していました。神を愛していたので、お喜ばせしたかったのです。自分の無力さには全く気付いていませんでした!)

聞きなさい、私の叫びに耳を傾けなさい、私の十字架が見えるか? 私はイエス、この幻(ビジョン)を与えている1。私は呼んでいる、私は苦しんでいる、なぜなら、愛する者たち、あなたたちの数を数えていると、あなたたちがちりぢりにされたまま、悪魔が仕掛けた危険に気付いていないのが見えるからだ。私からあまりにも遠く離れているのを見て、私の心はずたずたに引き裂かれている!

(丸一ヵ月間、イエスは御自分の十字架の映像をお見せになりました。どこを向いても、どの方向を見ても、巨大な焦げ茶色の十字架が立っているのです。食事中にお皿から顔を上げても、その巨大な十字架が見えました。の中から外を見ても、十字架がありました。歩いて他の部屋に出て行き、座ろうとしたり、何か別のことをしたりしようとしても、その十字架が追いかけてきてそこにあるのです。一ヵ月間、まるで付きまとわれているようでした。
 そして、別のことが私を悩ませ始めました。起こっていることは何もかも、もしかすると神からのものではないのでは、という思いです。でも、もしこれが悪魔からだとすると、悪魔はそこまで愚かなのでしょうか? こんなことが人々に知られたら何と言われるだろう、どんなことが降りかかってくるだろう、きっとばかにされる、と恐れ始めました!)

娘よ、娘よ、平和のうちに生きなさい!

(不審に思いました。)

どなたですか?

私、イエスである、私のそばにとどまりなさい。何年もあなたを呼び続けてきた。私を愛してほしかった、ヴァスーラ……

イエス様、最初に私を呼ばれたのはいつでしたか?

あなたがレバノンに行こうとしている時だった。あなたが眠っている時に呼んだ。あなたは私を見た。あなたを呼んで、私の方に引き寄せたことを覚えているか?

はい、覚えています。とても怖かったです。私は十歳ぐらいでした。私を引き寄せるあなたの力がとても恐ろしかった。まるで激しい川の流れのような、小さな磁石を引きつける大きな磁石のような、そんな感じがしました。私は抵抗し、振り切ろうとしました。でも自分があなたにくっついていることが分かるまで、何もできませんでした。そして目が覚めたのです。

(イエスがこの夢を思い出させてくださったことが不思議に思われました。そしてこの夢をいまだに覚えていたことも不思議でした。)

私はあなたの教師

1986年10月22日 ノート1-6

神である私は、喜んであなたをそばに置いてあげよう。娘よ、愛している。私への信仰を持ちなさい。二カ月もしないうちに、私の言葉をはっきりと聞き分けることができるようになる1、あなたが望んでいる支えを与えよう。私の目的はあなたを教え導くこと。あなたは二ヵ月も経たないうちに大きく成長するであろう、それが私の意志なのだから。私はあなたの教師。私の教えるすべてがあなたの魂を照らすであろう。私のそばにとどまりなさい。ヴァスーラ、みじめさを感じたときはいつでも私のもとに来なさい、慰めてあげよう、あなたは私の愛する者だから。私はどの子にも決してみじめな思いをさせたくない。彼らは私のもとに来るべきだ、そうするなら私が慰めよう。

あなたの能力の限界は十分に承知している

1986年10月16日 ノート1-6

あなたに平和があるように。愛する者よ、休みなさい。それ以上自分に仕事を課さないように。あなたの神経がどれほど張り詰めているかが分かる。

あなたの現存を感じました! 御自身の現存を強調されましたか、イエス様?

そうだ、あなたが理解できるように現存を強調した。ヴァスーラ、あなたの能力の限界は十分に承知している。

(その日は非常に疲れていました。でも読んだり働いたりするのがやめられなかったのです。どこにいてもイエスの現存が感じられました。イエスは何かを伝えようとされていました。)

私は平和である

1986年10月10日 ノート1-6

私は光。私、イエスは、あなたに注意しておきたい。どんなことがあろうと、悪霊が仕組んだわなにかかってはならない。あなたを不安にさせるようなメッセージは決して信じないように。悪霊がなぜあなたを止めようと必死なのかをよく理解しなさい。娘よ、以前の私のメッセージ1を非難するようなメッセージは、どれも悪から来ている。悪魔はまたしてもあなたを阻止し、断念させようとしている。私、あなたの救い主は、ここではっきり確認しておきたい、愛と平和の呼びかけを携え、道に迷った人々を私のもとに立ち帰らせるメッセージは、どれも御父と私から来る。だから気を落とさないように、私への信仰を持ちなさい。覚えておきなさい、あなたの心を不安にさせておくようなメッセージは一切信じてはならない。私は平和である、だからあなたも心穏やかでいるように。

私は手が届かない存在ではない

1986年10月5日 ノート1-6

(「神を体験した」という多くの人々の報告が載っている本を読んでいるのですが、この人たちのほとんど全員が、その体験は神からのものではないから忘れるべきだと「専門家」たちに言われています。神から来るそのような体験は、高潔な魂だけが経験するもので、そういった経験をする人は高潔でなければならないと。自分はそのような者ではないし、善良さからは程遠い人間だということも分かっているので、神と共に書くという、このような神との接触はやめようと決心しました。すべてのことに「見切りをつけて」しまった方が良さそうでした。この専門家たちは、神に到達するためには聖人でなければならないと言っているように思え、神はとても遠くにおられるのだと私に信じさせました。そこで、私はこのすべてをやめにして、最後にもう一度だけ、これまで何ヵ月にもわたって書いてきた「力」に手を委ね、それに書きたいことを書くに任せました。)

ヴァスーラ! 私を置いていかないでほしい、愛する者よ、私に呼びかけ、私から学び続けなさい。私がいつもそばにいることを忘れないように。神である私は、あなたの中に生きている。私を信じなさい、私は全能者、永遠の神である。

いいえ。そんなはずはありません。神であるはずがありません。そういうことに詳しい人たちが、神ではないと私に証明してみせるでしょう。神は、清くふさわしい魂にしか、そのようなお恵みをお授けにはなりません。

私は人が触れることのできないような遠い存在ではない! ヴァスーラ、私は誰も拒まない。私のもとへ来るようにと、子どもたちに与えている私の支援を止め立てする者を皆、私はとがめる。私と共にいるため、あるいは私に受け入れられるためには、清くふさわしい人でなければならないなどと教える者は誰であれ、私の教会を傷つけている。私を見つけたのに、他の者に妨害される人がいるなら、誰であろうと無限の力である私が支え、力を与えよう。なぜ、どうして、専門家と称する者たちに、私であるか否かを判断させなければならないのか。この者たちがあらゆる可能性を禁じ、私の子どもたちを慰めもなく助けも得られない幻滅した状態に置き、私の恵みを無視して、子どもたちを私から引き離すのを、どうして許しておかなければならないのか。なぜ、私が与える恵みはどれも拒絶されるのか。私が与えた恵みなのに。私は無限の富である。
 娘よ、あなたがようやく私を見つけた時、私は喜びにあふれた。あなたが怖がって逃げてしまわないように慎重に接した。幼子おさなごを扱う母親のように、優しく接し続けた。私があなたを近づけたのだ。あなたに呼びかけ、あなたと出会い、あなたをそばに引き寄せ、あなたに私の持っているものをすべて分け与えて、私は喜びに満たされていた、愛する者よ。それなのに今度は、私から離れたいと言いに来たのか。神である私は、手の届かない存在であり、私に到達することができるのはふさわしい魂だけで、自分はその水準に達していないという話を聞いたからか! 私はどの魂も拒まない。最もみじめな魂にさえ恵みを差し出す。
 私を喜ばせ、このようにして私と出会いなさい。娘よ、あなたを祝福する。あなたを教え導いている。あなたは私から食べている。ヴァスーラ、今日はペトロの手紙一を読みなさい。注意深く読みなさい、あとで説明してあげよう。第一章を読みなさい。信仰を持って生きるように。ペトロは信仰を持つようにと教えている。

(イエスは「信仰」という言葉によって多くのことを分からせてくださいました。人は信仰によって山をも動かすことができるのです。言い換えれば、人は盲目的に信じなければならないということです。)

 

神である私は存在する

1986年9月30日 ノート1-6

娘よ、あなたに平和があるように。

どうかイエス様、あなたを感じて書くこと1ができるように、私を照らしてください。

ヴァスーラ、口先だけの呼びかけは無意味だ。

(自分の過ちに気付きました。愛を込めず、よく考えもせず、心から感じようともせずに、これをイエスに願ったからです。今度は言葉の一つひとつに心を込め、私の魂をイエスに向けながら、もう一度繰り返しました。)

今のように私を感じながら2、呼びかけなさい。神である私は、感じている。すべてを感じている。呼びかけには魂の深みからの愛がなくてはならない、私を求め、愛し、ひと言ひと言心を込めて呼びかけなければならない。神である私は、存在し、感じている。口先だけの呼びかけは、どれも地に埋めておいた方がましだ。口先だけの言葉は墓場のうなり声。神である私は、存在し、感情を持っていることを覚えておきなさい。私の子どもたち皆が、私を喜ばせながら働いてくれるように願っている。

私は道である

1986年9月28日 ノート1-6

(今日イエスは、鮮明な幻(知性で理解できる幻、ビジョン)を与えてくださいました。それは、私がどことも知れない所におり、誰もいない沼地のような場所で、私の霊が迷子になっているような光景でした。枯れた木々の間から、私を捜しておられるイエスの姿が見えました。)

私はここにいる。私はイエス。あなたを見つけた。おいで、帰り道を教えてあげよう。私の声を聞きなさい。私、イエスは道である。道に迷ったと感じたら、いつでも私を呼びなさい。あなたのもとに来て道を示そう。私は道。