1999年8月7日 アルカディア市ヶ谷 東京
皆さん、こんばんは! イエスは、私を再び皆さんのもとに送ってくださいました。こんなにすぐ日本に戻って来れるとは私も思いませんでした。また皆さんとご一緒できて喜んでいます。
神からのメッセ―ジは13年前に始まり、今日も与えられています。『神のうちの真 のいのち』という題名は神ご自身がお与えになりました。『神のうちの真 のいのち』が伝えるメッセージは三位一体の霊性です。この霊性のうちに、私たちはどのように神を観想するかを学びます。
真の神学とは、いかに神を観想するかということ
与えられたメッセ―ジの中でイエスはおっしゃいました。
「真の神学とは、いかに神を観想するかということだ。どのように神を観想するようになるか、その道筋を教えること。どのように神ご自身のうちに私たちが浸透していくかを導くもの」
つまり、神をどう理解し、知るようになるかを教えます。今の時代は、神について話をする人びとはいても、神を知らない人が多いのです。多くの人は神を信じますが、理解していない人が多いのです。
『神のうちの真 のいのち』に見い出されるこれらの教えは、より高いレベルの観想へと導きます。神は大変いたわり深く忍耐があり、とても愛すべきお方です。神様はどうなさったと思いますか? 父親が幼な子に歩き方を教えるように、神は私たちの歩みを一歩一歩教えて下さいます。最初の頃のメッセ―ジの中でこうおっしゃいました。
「手をとって導こう。生まれて初めてヨチヨチ歩きをする赤ん坊を導くように、手を取って導こう。そしてともに歩むように、あなたを教えよう。」
少なくとも始めの頃は、本当に忍耐をもって悦びながら、一歩一歩の歩みを教えて下さいました。
どうして私を教え導きながら、神は悦ばれたのでしょうか? それは私たちが一歩上達するごとに、神様の眼には大きな悦びとなるからです。そしてしばしば、私たちを見ては可笑しいと思われ、笑ってしまうという優しいお方です。踏み出した一歩が間違えだったと気づいた時は、神様は何とおっしゃるかとドキッとしたものです。でも、「怖がることはない。あなたが学ぼうとしているその努力を私は喜んでいる」と言われただけでした。ですから、分からないまま、私たちはよく間違えを犯しますが、後で気がついて二度とやるまいと決心するような時、同じことを神はあなたにもおっしゃるでしょう。気にしなくてよいのです、まだ学んでいる最中なのですから。―これが神様のお姿です、本当に素晴らしいお方です。
今夜は私の数々の経験を分かち合い、さらに神から与えられたメッセ―ジを皆さんに伝えたいと思います。神からのメッセ―ジは、教えも多く、非常に内容が豊かです。聖母マリアのみ心についての教えもあります。マリア様は私たちの母でもありますが、そのみ心はどのようでしょう? そして諸天使は聖母をどう思っているでしょう? 『神のうちの真 のいのち』のメッセ―ジの中には、それらのことがみな書かれています。
神が語られる時には事態が深刻で、重大な時
イエスは十字架上から私たち皆に向かって叫んでおられます。「私と和解しなさい。あなたの隣人と和解し、互いに愛し合いなさい。」十字架からこう叫ばれて。この苦悶に満ちた訴えが、しばしば聞こえてきます。なぜなら、まだ平和はないからです。聖母マリアは「この世は氷のように冷たくなってしまいました」とメッセ―ジの中で、おっしゃっています。
後ほど、今日の背教についてこのメッセ―ジに触れたいと思います。神が教会の2000年の歴史の中で語られる時には、その必要があったのです。
神は「こんにちは」と、ただ挨拶するために天から降りて来られるのではありません。神が語るために降りて来られるときには、事態が非常に深刻で、重大だからです。神様は博学な神学者を訪れては来られません。神学者は何でも知っていますから、自分の知識を披瀝します。ところが私のような者のもとに神は来られます。宗教についてまったく不熱心な者、祈ったことも、基本的な公教要理さえ学んだことなく、なんの知識もない者のもとに。それはこの無でしかない者をとおしてご自分の慈しみを証しするためなのです。そして私にこれほどの慈しみを示されたのですから、皆さんにたいしても神は同じ慈しみをお持ちでしょう。私は神に「祈ったこともありません」と言いました。これらのメッセ―ジの中にある知識はすべて私からのものではありません。私が学んだことと、書かれてあるすべては聖霊の力によるのです。
祈りは必ず聞き遂げられる
神が語られる時には、重大な理由があります。神の声を聞き、ヴィジョンとして神を観ることができるというのは、私にいただいた賜物です。これらの賜物は私のためだけのものではなく、皆と教会の利益のために与えられているのです。神は私たちのうちに住んでおられますから、私たちは神の神殿です。神は私たちを住まいにしておられ、私たちが聖となることをお望みです。自分のうちに神が住んでおられるのに、自分が聖でないというのは考えられないでしょう? それでは釣り合いがとれません。ですから、神は私たちを再び教育して、変容させたいと望まれました。そして、どのように祈るかを教えたいと望んでおられます。祈りは私たちの悪にたいする武器です。私たちは悪にたいして、自分が無力だと感じるべきでありません。
イエスが言っておられるように、心から祈るなら、祈りは聞き遂げられるのです。ですが疑う人たちもいて、祈りを聞き入れて下さったことをどうやって証明できるかと言う人もいます。しかし単純な心で、誠実に心から祈りを捧げるなら、その祈りは必ず聞き遂げられると確信してよいのです。「あなた方の祈りは世界を変えることができます」と聖母マリアがおっしゃるように、祈りには大変力があります。
昨年、ニューヨークの国連本部で、話をするように招かれた時のことです。司会者からこう質問されました:「絶え間なく戦争が続いています。どうすればすべての戦争を止めることができるでしょう? どうすればこの世に平和をもたらすことができるでしょう?」 答えはこうです:「心の中に戦いがあって平安がないなら、それは外在化するのです。人びとが回心し、聖なる生活を目指すとき初めて平和がもたらされます。世界が神と和解するとき、初めて平和のうちに暮らすことができるのです。その時は、平和が訪れるでしょう。」
司会者は「どうすればそのようにできますか?」と尋ねました。もちろん、私はそのすべての答えを知っているわけではありませんが、『神のうちの真 のいのち』の中にはいくつかの答えがあります。聖母は「あなた方の祈りは世界を変えることができます」とおっしゃいますが、それは世界中の人びとが祈るならこの世は変容するということなのです。
あるとき、イスラエルのユダヤ人に招かれ、ユダヤ人向けのテレビ番組で話をしました。私はエルサレムの旧市街に連れていかれ、取材の場所はなぜか十字架の道行きの第6留、「イエスはベロニカにより布を受け取る」という場所でした。テレビ局のスタッフは、私にその場で「平和と一致」について話してほしいと言います。そこは古い街並みでした。エルサレムにいらしたことがありますか? その地域の店はほとんどすべてイスラム教徒のものです。店番をする人たちは外に座って私たちを眺めていました。テレビ局の人たちはユダヤ人で、その通りには巡礼者のキリスト教徒も何人か行き来しています。「すべてのメッセ―ジを5分ですませてください。」私はとっさに思いました。「13年分のメッセ―ジをたった5分で! 何を話せばいいかしら! 13年分のメッセ―ジをどうやって皆に伝えたらよいのでしょう?」 それで神様に、助けて下さいと願ったのです。
二、三のことしか言いませんでした。こう言ったのです、「見て下さい。私たちは皆、神に両手によって造られた者です。天には一人の父がおられます。父親が一人ですから、皆が兄弟であり姉妹です。天国で私たちは、それぞれの一角にユダヤ人、仏教徒、イスラム教徒、カトリック教徒、正教徒などとバラバラにかたまっていると思いますか? 皆、一緒でしょう! 神の玉座に前では皆、一緒なのです。それではなぜ憎み合い、殺し合うのでしょうか? 私たちは皆一つの体の部分でしかないことに、どうぞ思いをめぐらして下さい。」―このように私は話しました。イスラム教徒たちの前を通りましたら、「奥さん、もっと話して下さい」と言われました。キリスト教徒の婦人たちの前を通りましたら、「とても素晴らしかった! もっと話を続けて下さい」と言われます。こうした光景も含めて、ユダヤ人の方がたによるテレビで国中に放映されました。現実にこうしたことがあったのです。
祈りによる<罪人>の回心の恵み
この「兄弟姉妹」のテーマにはあとでまた触れますが、今は祈りに話を戻します。聖母はおっしゃいました。「私たちは祈りによって<罪人の回心>という恵みを神からいただくことができます。」祈りが多く捧げられるなら捧げられるほど、そして祈りが多く聞き入れられたなら聞き入れられたほど、回心する人が増えます。祈りは強力なものです。ですから、祈りや犠牲を放棄しないで下さい、と申し上げるのです。神は捧げられるすべての犠牲を覚えておかれます。
知りませんでしたか、愛の賜物が大きければ大きいほど、神にたいする知識も増して完成されていくことを。神を愛する炎が大きければ大きいほど、祈りも熱烈になり、愛が完全なものとなればなるほど、人生は聖となります。他の人びとのために祈ることは、自分を犠牲にすることと同じです。私たちの愛がキリストの愛と似たものになるからです。キリストの愛は、自分にたいする利益をまったく求めない愛。その愛は霊魂を救うために、自分を完全に与える用意のある愛です。犠牲やひどい苦しみを伴うものだったとしても。ですから、祈りをとおして私たちは神に届くことができるのです。それは神との出会い、神と触れ合う対話なのです。
16〜17歳の若者のグループがいて、一人の少年が「祈りたいけれど、どうやって祈ればよいか分かりません」と言いますので、こう答えました。「一番の親友にどう話したらいいか、自分の秘密をその親友にどう打ち明ければいいか、分かっているでしょう? 神様にも同じように話しかけてごらんなさい。神様は最高の親友で、最も忠実な友となれる方です。祈るときは、神様に話しかけて下さい。なぜなら、神に話し掛けることが祈りだからです。」 少年は「そんなに簡単なことなの?」 と言いました。
神の現存に敏感なとき
今日、神が望んでおられるのはこれです。口先だけの祈りを唱えても何の意味もなく、それはリップサービスにすぎません。神が心から望まれるのは、心から発せられる祈りです。私たちの前に現存しておられる神のお姿を、生き生きと思い浮かべなければなりません。誰かに話しかけるときは、相手に面と向って、目を見ながら話すでしょう。こうして、そのお方に心から自分のことを伝えられるのです。そのように天の父とも話して下さい。その生き生きとしたお姿を目の前に思い浮かべ、単純に、清い心で話しかけて下さい。心から発せられた祈りは真実味を帯び、誠実な響きをもっています。神は必ずその祈りを聞いて下さるでしょう。
イエスが望まれる祈りは、絶え間ない祈りです。『神のうちの真 のいのち』のⅠ巻で、ある日イエスが来られ、「絶え間なく祈ってほしい」と言われたとき、私は「家の用事がたくさんありますのに、そんなに祈り続けることはできません」と答えました。それは私が理解していなかったからです。しかし、私がパニック状態になったので、イエスは可笑しそうに言われました。「ああ、ヴァスーラ、分かっていないね。絶え間ない祈りとは心を込めて私を愛すること。一日中、神なる私に恋い焦がれ、あなたの神に飢え渇き、慕い求めることです。」
私たちの心がまったく神に埋没し、その現存に敏感なとき、言葉は不要になります。このようにして神のみ前で自分を表現することができます。なぜなら、私たちの存在すべてが生き生きとした炎となっているからです。神の愛により、燃え立たせられて。それは燃え尽くす愛なのです。こうした沈黙の祈りの瞬間は、霊にとって世の中を忘れさせます。愛され、沈黙のうちに神の所有となって、み手のうちに捕らわれているのです。神はおっしゃいます。「あなたを変容させることを許してほしい。」 「許してほしい。」という言葉に注目して下さい。神はしばしば「メッセ―ジを書くためにあなたの手と時間を使わせてほしい」とおっしゃいます。イエスはこのように、そっといたわりつつお現れになります。私たちの自由を犯す影すらなく、まったく自由にしておかれます。決めるのは私たち自身。扉は開かれていますが、決めるのは私たち自身なのです。イエスが「許してください、……させてほしい」とおっしゃるとき、そこには神イエスの愛と寛大さも示されています。
小さな例をあげましょう。イエスが私を教え始められた初期の頃。イエスはいつも日中、その日の出来事をとおして教えておられました。ある日メッセ―ジを書いていると、電話が鳴ります。電話が鳴ると直ぐ、イエスは書きおろしを止められたので、受話器を取ってよいと分かったのです。それは母からでしたが、彼女は膝が悪くてよく歩けません。電話ごしに、「ヴァスーラ、ひとっ走りして店が閉まる前にパンを買って来てちょうだい。今すぐ!」と言います。私は、「ちょっと待って」と答えようとしました。イエスのおことばを書きおろしているのです。イエスは眉を上げて「パンを買いに行きなさい」という合図をなさいました。そして「はい、行きます」と答えて受話器をおろした後、イエスはおっしゃいました。「あなたが誰に仕えていようとそれは、私に仕えていることです」と。ほかの人、隣人にすることは、すべてがイエスにしていると、こうした仕方で教えてくださったのです。
「世の中は氷のように冷えています。愛がありません……」
愛、愛の賜物は非常に大切です。木の根の部分のように。木の根である愛の賜物があるなら、その木は徳を表すたくさんの枝をつけるでしょう。別の言い方をすれば、愛はすべての徳の根源なのです。愛から忍耐や謙遜などあらゆる種類の徳が生まれます。審判の日、その日は重要な日となりますが、私たちは自分の愛の秤によってはかられます。ですから愛し方を知るのは、非常に重要なことなのです。聖母はメッセ―ジの中でおっしゃっています。
「愛し方を知らないなら、暗やみの中で生きており、不幸なことです。世界に災害が押し寄せてくるとするなら、それはこの世が悪に満ちているからです。世は自分自身にこうしたあらゆる悪を招いてしまうのです。背教し、神を捨てたために。神の座は、ある種の自己実現に取って代わっています。今日の世は神に栄光を帰するのを拒み、神の善に刃向かう敵となっています。」
今日、私たちは良いものが悪に変えられ、この世が神の愛に対して冷たくなってしまった時代に生きています。そのような神に対する冷えた心についてのメッセ―ジがあります。聖母マリアはおっしゃいました。
「世の中は氷のように冷えています。愛が全然ありません。深い暗やみの中にいます。憎しみ、貪欲、利己主義が地上全体をその中心部にいたるまで支配しているからです。私は恐ろしい光景、この暗い世の罪悪と、聖所そのものに浸透していった背教を目の当たりにして、打ち震えています。私たち自身が神の聖所ですが、災害、飢饉、災難、戦争や疾病、こういったすべてを、私たち自身で引き寄せている状態なのです。多くの人の思い込みとは違い、こうしたすべての惨事を引き起こしているのは、神ではありません。神は正しいお方で、慈しみそのものです。しかし、悪が悪を招いてしまうのです。」
神と親密な、特別な関係を持つこと
聖母は私たちに理解させようとして、こうおっしゃいました。「愛は世を救うことができ、世を変容させることができる」と。では、どうしたら神を愛し、隣人を愛せるようになるでしょう? 多くの人が私のところに来て、「私もそのようにしたい。でもどうしたらよいか分かりません」と言います。『神のうちの真 のいのち』の中で、神は一歩一歩その方法を教えて下さいます。
神を愛する方法の答えは、親密さです。神と親密になる、特別な関係を持つこと、神との聖なる一致を持つことです。神にたいする愛は表面的なものではありません。それは神聖なもの、聖なるものです。神はご自分と親しくなってくれることを切望しておられます。
最初の頃おっしゃった言葉は、こうでした。
「来なさい、私に近づきなさい。そして親密になってほしい。私を怖れなくてよい。刃向かう時にだけ怖れなさい。あなたの親密さがほしい。一方では、私が聖なる者だと忘れないように。」
この言葉を初めて聞いた時、私は神から遠くに立っている自分を見ました。神に近づこうなどという気持ちは毛頭なく、私には守護の天使とはとても親しくなったのです。
生まれた時から、私たち一人ひとりには守護の天使がついています。初めてこの天使が近づいて来たとき以来、長い時間をかけて私はだんだんこの天使のことが分かってきました。そこで、一番の親友に話しかけるように、この天使に話しかけていました。そして神と出会う準備として、清めの時期を経ているときでした。
私は自分の心の中で、神の気をそこねたことが何であるかを見させられました。自分の目で自分を見るのとは違って、神の目で見させられたのです。これは大きなショックで、自分を憎みました。そして自問したものです、神はどうして今までこんなに待つ必要がおありだったのかと、人生のもっと早い時期に分かっていたならよかったのにと。そうしたら、神のみ心をこれほどまで悲しませなかったでしょうに。いただいた賜物を拒んだり、恵みを無視したりして。
感謝を知らない現代人
そして特に申しますが、私どもが無視している恵み一つあります。それは神を本当に深く悲しませているのです。一生どれほど神にたいする感謝が足りなかったかを表していますから。
初めの頃でしたが、御父はにがにがしい言い方というよりは、悲しみに満ちてこうおっしゃいました。
「なんと“fastidious”になったか、世代よ」と。生まれて初めて聞く言葉で、私は意味が分からなくて辞書を引きました。それは「感謝がない」という意味です。こせこせする、満足しない、扱いにくい、いつももっともっとと欲しがる、ぜんぜん満足しようとしない、などということはすべて、この“fastidious”という形容詞に含まれています。「“fastidious”に、あなたの時代はなってしまった」と神はこの形容詞を強調して、文頭に持ってきながら、おっしゃったのです。
私たちは確かに“fastidious”ですが、たとえばよく無視する恵みの一つに触れてみましょう。神は毎日毎日あふれるほどの祝福を与えて下さっています。こうした祝福は有形ではなく、目には見えないのですが、私たちが光と闇を区別するに十分な理解だけは下さっています。
私たちに与えられているものはすべて善いもので、これらは皆神から与えられているのです。健康もそうでしょう、しかし神に十分感謝はしていません。着ている衣服も、健康でなければ、衣服を買うお金もありませんから、やはり神からのものです。皆の健康や衣服や住宅、冷蔵庫、そして帰宅してお腹が空いた時に開けた冷蔵庫の中の食物や飲物、家族や家庭など、すべて神からの恵み、祝福なのです。でもそれを神には感謝していません。なぜでしょう? 当たり前と思っているからです。このすべては自分がした結果だと思っているのです。
しかし私たちが持っている力はすべて神からいただいたもので、いのちも、まさに神からいただいたものです。もし神がお望みなら、私たちからあらゆるものを取り上げることもおできになるはずです。聖書の中でヨブになさったように。ヨブは裸になり、病を得て、孤独の中に捨て置かれました。神は彼を試されたのです。しかしヨブは神への熱烈な忠実さを表しました。このすべてにもかかわらず、神に信頼をおいたのです。そして神にすがり、一瞬も背を向けることなく、「神はこんなひどいことをされた」と愚痴も言いませんでした。そのために、以前よりもはるかに多くを、神はヨブに与えられました。ですから、神への讃美を忘れないで下さい。そして持てるすべてに感謝して下さい。
今、聖霊に自分の意志を明け渡す
今日分かち合いたいメッセ―ジが、ほかにもあります。それは自分の持つ意志についてです。光の中を道案内されたいなら、完全に自分自身を神に明け渡すことが大切です。そして私たちの創造主に向ってこう叫ぶのです:「ここにおります。お望みどおりになさって下さい。私はあなたのものですから。私どもはあなたから発していて、あなたの種子だとあなたご自身がおっしゃったからです。私を受け取って下さい、清めて下さい、そして用いて下さい、あなたの栄光のために!」
こう心から叫ぶなら、至高者の道具になれるでしょう。そのためには自分自身を捨て去り、自我をすっかり打ち消さなければなりません。この変容が完成したなら、神はご自分の栄光で私たちの身をまとい、完徳へと導いて下さいます。そして私たちの思いは、全き愛に浸された神の思いとなるでしょう。私たちの行いは神がなさるものとなり、私たちが語るものは神の語られるものとなるでしょう。神はこうおっしゃいます。「今、私の聖霊に心の場所をあけて、そこに種子を蒔かせなさい。」
神は赦しを与えるお方です。私どもの犯したどのような悪も、受け取られるとご自分の背後に捨て、二度と思い出されません。なぜなら、神はご自分の被造物を愛するお方だからです。神のみことはは甘美です。どのように甘いかと聞く人もして、神はむしろ厳しい存在として知られています。私たちが刃向かうなら厳しくされるでしょう、どんな父親とも同じで。神は愛深い父親の姿勢を持っておられる方です。詩篇の中で、ダビデはしばしば神の甘美をうたっています。そして神の甘美が私たちの上に注がれますようにと祈りました。私たちの創造主は栄光と輝きのうちにおられますが、単純な言葉で語って下さるのです。
ある日、イエスは天の御父をこう言い現されました:「私の父は王でありながら、母の愛をもつ方、審判者でありながら、いたわり深く愛あふれる方、そしてアルファでありオメガ―初めであり終わりという意味で、神の偉大さを言い現していますーでありながら大変温和な方なのです。」
神は複雑な方ではありません。神を複雑にしているのは私たちです。私たち人間が複雑だからです。地上では限界があります。そこで神にもその限界を押しつけているのです。しかし神は際限なく力あるお方です。そして寛大さをもって私たちを赦そうとなさるあまり、天からはるばる私どものもとにかがんでおられます。
背教の時代への警告
この背教の時代に、神は介入なさっています。私たちが皆、闇のほうに向っていると警告を与えるためです。神は救いに来られ、希望を与えに来られたのです。その希望とは聖霊、聖霊の御力です。このすべては預言されていました。これらのメッセ―ジは聖書に書かれてある預言を私たちに思い出させるものです。イエスは「あなたたちは聖書を読んでも、理解していない、とくに封印された聖書の黙示録やダニエル書を」とおっしゃっています。これらの書は今の私たちの時代に関連が深いのです。イエスは聖書の読み方を私に教えられました。聖書の多くの個所が互に結ばれていると。ダニエル書のある一節はエゼキエル書、聖パウロの預言と黙示録につながっていて、ザカリア書にも関連しています。そしてイエスはここがここにつながっていて、ここからここに結ばれている、というふうに一つの書から別の書へと説明なさり、全体がどういう意味を表しているかを分からせて下さいました。
小さな例を一つ示しましょう。イエスは、マタイ福音書の24章で、弟子たちに教えておられます。時の終わりについて話しておられるのです。それは今のこの時代のことで、これは世の終わりではなく、ある時代の終わりだとおっしゃっています。来年は2000年ですが、私たちはこの時代に生きており、多くのことを預言されているのです。イエスはマタイ24章で、「時の終わりはこの徴によって見分けることができる。預言者ダニエルの預言が実現したなら、それは時の終わりです。」こうおっしゃってその個所を引用されました。「時の終わりには破滅を招く忌むべき者が神の聖所に立ち上がり、永遠の生にえを廃止される。」その意味はこうです。「永遠の生けにえ」とはご聖体のことです。「忌むべき者……」とは、神殿の聖所に反逆の霊が立ち上がって、それがご聖体を廃止するということです。反逆の霊が立ち上がって来るとイエスは警告なさっています。そして私たちは今、こうしたことが世界の各地で起きているのを知っています。
聖パウロも同じことを言っています。二テサロニケ書の2章で「時の終わりを二つのしるしによって見分けるでしょう」と。第一のしるしは、今すでに起きている“大背教”であり、第二のしるしは“反逆の霊と反キリスト”です。この二つのしるしがあるのですが、イエスはこのすべてについて詳しく説明され、敵が誰であるかを明らかにしておられます。そのためにこのメッセ―ジはこれほど多くの迫害を受けているのです。イエスが私たち皆に今行われているすべての悪を露にしておられるので、悪魔はそのメッセ―ジを沈黙させたがっているからです。そこでイエスは注意を促しておられます、こうした罠に落ちないように「気をつけなさい、気をつけなさいと」と。
けれど同時に希望も予告されています。それは神の聖霊にたいする希望です。この時代はあまりにも多くの悪が横行しています。しかし、神は私たちを放棄なさっていません。人類全体にご自分の聖霊をふり注いでいます。聖霊はいのちの息吹として私たちを訪れます。霊的に死んでいる者さえも、何年も死んだ状態にある者、神が言われるように、その腐敗臭が天にまで届いている者にも、聖霊は訪れて下さるのです。そして復活の息を吹きかけ、彼らを変容させ、愛の炎で満たして下さいます。
こうしてこの人たちは熱心になります。その熱意は大きく、ちょうどサマリアの婦人のようになるのです。イエスと出会い、預言者と呼んだあの方のように。彼女は手を振り上げながら村に駆けて行き、「私は預言者に出会った、私の人生のことをすべて言い当てて下さった」と言ってイエスを述べ伝えたのです。こうした人たちには、そのような熱意が与えられます。彼らは証しをしに出て行って、イエスについて話すのです。神と出会い、神を知るように、恵みによってどう甦らされたかを。ここに聖霊の働きが見られます。
第二の聖霊降臨
この第二の聖霊降臨は数年前から起きています。いわゆる第二の聖霊降臨とは何であるか、故教皇ヨハネス23世は一生をかけてその到来を祈ってこられました。第二の聖霊降臨のために神が霊を送って下さるようにと。この教皇は一致と和解のためにも祈っておられました。こうして第二の聖霊降臨が起きたのです。その第二の聖霊降臨が始まったのですから、和解が実現するでしょう。一つの心による一致も訪れ、一つの心をもって互に理解しあえるようになるでしょう。
聖霊について「第二の聖霊降臨とは何ですか?」と人びとが尋ねます。昨年までは、それを説明できるほど十分な光が与えられていませんでした。第二の聖霊降臨があることは知っていましたが、どのように訪れるかは知りませんでした。ところが、最近のことですが、ある日、神はみ旨によって分からせて下さいました。突然、心の中に光が点ったように悟ったのです。それはビデオで聖霊について話している時でした。気がつくと、私はこのように言っていました。「第二の聖霊降臨は個別的に訪れます。これは漠然としたある日に、突然大勢の人びとに訪れるのではなく、もうすでに個別的に始まっているのです」。
第二の聖霊降臨による復活を、あの人、この人が個別的に体験したかは、どのようにして見分けられるでしょう? それは、その人の変容した姿によって見分けられます。今まで死んだ状態で、無関心だった人が、今は生き生きとしているのです。愛に満たされ、神の愛を証ししに行こうと、聖霊による熱意に溢れて。このようにその人を燃え立たせたものは何でしょう、それこそ聖霊の働きそのものなのです。こうして彼女は預言にあるような、時の終わりの使徒となったのです。今こうしたことが、いたるところで起きはじめています。それは何倍にも増え続けている。これが神の与えておられる希望、聖霊を待ち望むようにという希望です。
聖霊の働きについて、短い個所を読みましょう。『神のうちの真 のいのち』の後半に書かれているものです。この本は英語版は10巻まで、日本語版は4巻(1999年5月)まで出版されています(現在5巻まで)。この先、第5巻以降には聖霊についての教えがたくさん出てきます。多くの人がまだ聖霊を知らないからです。聖霊に親しんでもいません。聖霊は癒しの水、私たちを癒し、清めるお方としてここでは描かれています。別の個所では、私たちを清める炎として。ほかの個所では、いのちの息吹として描写されています。次の個所はかなり程度の高いメッセ―ジで、神秘的な用語が用いられていますが、それも分かち合いたいと思います。聖霊に近づくようにという一つの招きです。
聖霊は目の光、存在の動機……
聖霊はこうおっしゃいます。
「もっと近づきなさい。あなたのうちに永遠の命を吹き込もう。あなたの霊魂が再び活気づいて、高いものを望み、私の栄光のうちに息づくために。もはやあなたは自分に属する者ではなく、あなたを動かすおん者に属するように。私たちの一致のうちに一つとなって。」
一つの例を上げましょう。魚は水の中で泳ぎ、呼吸をし、いのちを水の中から得ています。魚を海から引き上げると、やがて死んで、干からびてしまいます。霊的に同じことが私たち皆にも言えるのです。もし聖霊を拒むなら、霊は死に、霊的に干からびてすっかり砂漠のようになってしまいます。そして心は岩のように硬くなるでしょう。しかし、神なる聖霊を私たちのうちに受け入れるなら、聖霊によって鼓舞され、聖霊の中で呼吸し、聖霊の中で生きていけるのです。神はおっしゃいました。「『私のような罪人が、聖人にしか届かないような光に向かって、あえて手を延ばすことなどできようか?』とは言わないでほしい。もし、あなたの言うように、自分が本当に罪人だと信じ、私の与える賜物にはふさわしくないと思っているなら、不可能は可能となる。ただちにあなたを聖霊の炎で燃え立たせよう。さらに私でないすべてを根こそぎ焼き尽くす。こうして、手が届かないとあなたに思われた聖霊を送る。そのお方はあなたの目の光、存在の動機、心臓の鼓動、口から発する言葉、あなたの歓びあふれる笑いとなろう。聖霊はあなたの心を王的な飾りで飾り、その霊の番人となられる。聖霊はあなたの兄弟、姉妹、忠実な友。聖霊はあなたの祝うその祝い、あなたが開く晩餐。あなたの秘められた宝、真珠となろう。聖霊は讃美の歌へのあなたの讃美の歌。アーメンのアーメンとなるであろう。」
「讃美の歌へのあなたの讃美の歌」とはどういうことでしょう? それは、本当に歓びで満たされるあまり、聖霊に向かって一日中うたいつづけ、讃美そのものであるお方に向かって絶え間ない歌を捧げるようになるということです。神のみことばは讃美の歌のようですから。神ご自身がご自分に向かってうたいつづけるように教えておられるからです。では、“アーメンへのアーメン”とは? どの祈りでも終わりにアーメンと唱えますが、それはアーメンそのものであるお方に唱えているのです。黙示録ではアーメンも一つの神のみ名だと分かります。それは忠実で、真実なお方という意味です。そこで、一日中、アーメンであるお方にアーメンと祈ります。
背教は合理主義から
何が私たちを背教に仕向けたのでしょうか? イエスはおっしゃいました。「それは合理主義です」と。すべてのものを理性で説明しようとする精神です。そこから神に対する感覚を失いました。理性的な頭は神から非常に遠いものです。合理主義には二つあり、よくない合理主義とは目で見るもの以外何も信じようとしない姿勢です。この人びとは目で見なければ、そして目で見えていても信じようとはしない人びとです。
かつてエジプトのあるところに聖母マリアが出現されました。それは数年間続き、誰の目にも見えるようになさいました。聖母は屋外で、教会の屋根の上に出現され、清らかな光そのものでした。そしてそのお姿は誰にでも見分けられたのです。それでも認めようとしない人たちに出会います。一人の親戚の女性はそのご出現を見に出かけたのですが、「私は見たわ。でも信じません」と言いました。それには言葉もありません! これほど合理主義にはまっていては、お手上げです。
聖母マリアは毎日、その教会の屋根上に欠かさず出現されていました。1960年代でしたが、訪れた人は基督教徒であろうとイスラム教徒であろうと認めることが出来ました。奇跡もたくさんあって、訪れた人は誰でも奇跡が受けられました。聖母は差別なさらないのです。
これを最初に見つけたのはイスラム教徒でした。彼は帰宅するために車庫の扉を閉めようとしている時でした。指が壊疽になり、翌日は切断のため病院に行くことになっているのです。さて、彼と友人は教会の高い屋根の上に婦人を見て、初めはその婦人が自殺しようとしているのかと思いました。大変だとばかり彼は、「駄目です、駄目です! 奥さん、身投げしないで!」と大声で叫びました。彼はその壊疽にかかった指でマリアを指して「しないで、そんなことをしないで!」と叫んでいたのです。「私たちが助けになりますから!」と。
そのとき改めて光に包まれた美しいお姿を見ましたが、その婦人はじっとしています。彼ははっと気がついて友達に言いました:「この方は普通の婦人ではない、“私たちの婦人”だ!」イスラム教でも聖母マリアを“私たちの婦人”(サイエダ)とお呼びする言い方があるのです。彼の指は完全に癒され、もう切り落とす必要がなくなっていました。
聖母の出現が意味するもの
今の時代、聖母は多くの場所で出現なさっています。それは私たちに正気を取り戻させ、目を開かせようとするためです。「私たちは神の似姿に象られて創造された者です」ということを伝えるために。「どうしてその似姿を汚してしまうのですか? どうしてその似姿を聖なるものとしておかないのですか?」これが聖母からのメッセ―ジです。「祈りなさい。祈って断食しなさい、断食は悪を取り去ってあなた方を清めます。」
それだけでなく、断食は犠牲になります。この犠牲によって他の人びとも聖性へと連れ戻すことが出来るという意味なのです。すべては計られています。水曜日と金曜日にはパンと水で断食するようにと聖母は頼んでおられます。もしそれが健康上などの正当な理由でできないときは、他の方法でも断食はできます。たとえば口を慎むようにしてみて下さい。噂話をやめるという意味です。あるいは人を裁くのをやめるようにして―それは大変難しいことですが。
では断食とは何でしょう? それは好きなことを我慢して自分自身に与えないということです。自己を否定することです。テレビが好きなら二日間はテレビを見るのをやめようとか(私にとっては苦手なのですが)、コーヒーが好きならコーヒーなしで過ごそうとか。断食とは食を断つことだけではありません。
あなた方は王家の出身
イエスが下さったあるメッセ―ジを分かち合いましょう。それは黙示録の書かれたギリシャのパトモス島でいただいたメッセ―ジです。若者たちのグループと一緒にその島で巡礼をしていたのです。そこでメッセ―ジをいただきました。これは私たち皆に与えられたものです。イエスは私たちを奮い起たせ、目覚めさせようとなさっていました。そして私たち自身がどういった者かを知らせようと、こう言われました。
「息子よ、娘たちよ、あなた方は至高者の血筋で、偉大な者から発している。あなた方は私たち三位一体に属し、天に属し、王家の出身です。それなのになぜ野獣の声を聞くのか?」野獣とは悪を現しています。私たちにはどうして誘惑がこんなに多いのでしょう? 常にこの世に引き寄せられてしまいます。「あなた方は祝福されている。私たちの似姿として。野獣の似姿はしていない。あなた方は皆、力あるお方の宮殿を歩くように招かれている。そこで、私の輝きをもってあなたを飾らせなさい。心を開いてほしい。そうするなら、あなたを救う。」
つづけてもう一つ、今度は御父からのメッセ―ジです。「学びなさい。誰であろうと私を一心に喜ばせようと願って私のほうを向くなら、心から喜んで、そう、心から喜んでその人に特別な好意を示そう。そして、この人びとが自分たちの旅路を私とともに終えるよう、私が善良な姿を現す。」
こうして最後には天国にたどり着けるようにと、御父は皆を招いておられます。御父はこうお尋ねです。「天国を楽しみたいであろう?」―いかがですか皆さんは!? 「はい」という返事でしょうか……(笑い)聞こえてきませんね!
「私の現存を歓びたいか?」「はい!」「では子どもになって私のもとに着なさい。」子どもは無邪気です。子どもには悪意がなく、清らかです。「私と出会い、顔と顔とを会わせたいか?」「OK、いいでしょう。」(笑い)「では、無垢な、清い心で私のもとに来なさい。」
「清い心で私を探しなさい」
次はちょっとした黙想のために、短いメッセ―ジを2つ紹介します。それは、いくら祈っても神を感じることができないという人が、今の時代は沢山いるからです。イエスが招いておられます。
「来なさい。この荒れ野でいまだに『私の贖い主を探しているが、まだ見つからない』と、間違って言うのはやめなさい。いとしい者よ、清い心で私を探しなさい。自分への利害を捨て、私を愛することによって。聖性のうちに私を見出しなさい。私が望むようにあなた自身を放棄し、私の掟を守ることによって私を見出しなさい。悪を愛に置き換え、それによって私を見出しなさい。単純な心で私を見つけなさい。もう罪を犯さないように。悪をやめ、善を行うようにしなさい。正義を求め、虐げられた人びとを助けなさい。この不毛な荒野を歓喜で満たしなさい。あなたの生温さを、熱烈な炎へと燃え立たせなさい。無感動を捨て、熱意に置き換えてほしい。これらすべてを行うなら、次のように言うことができよう:『私は贖い主を探し、ついにこのお方を見つけた。今までずっとそばにおられたが、私が闇の中にいたのでその方が見えなかった。ああ、神に栄光、主は祝福されますように。これほど目が見えてなかったとは!』 次は、あなたが生きていくために、私の指針を守り、大切にしなさいと言おう。」
人は、私がメッセ―ジをどのようにして受けるのかと尋ねます。このようにして旅行している時は、長いメッセ―ジはなく、たまにしかメッセ―ジをいただきません。神は秩序ある方で、混乱を招く神ではないからです。そこにはある秩序があるのです。今、私はローマに住んでいますが、帰宅すると呼ばれて、時間をかけた長いメッセ―ジをいただきます。それから今度は与えるように、再び私を旅に送り出されます。そして家に戻ってくると私を満たされ、次に述べ伝え、分かち合うために再び送り出されるのです。メッセ―ジを書き下ろす時間は、10分のこともありますが、ときには9時間にも及びます。その時は短い休憩を間に入れ、一日中神のうちに埋没しています。
私は一本の脚をこの地上に、もう片方を天上にかけている感じです。ある日、筆記を書き下ろし終えた直後に友人が訪ねて来て、こんなふうに、手を取ろうとしました。けれど、手を触れられるのに耐えられませんでした。痛みを感じそうだったのですが、そういうことになるとは、それを体験するまで気がつきませんでした。今のような普通の状態に戻り、再び人びとと交わるには少し時間がかかることが、これによって分かったのです。神の現存はあまりにも聖なるもので、この世とはぶつかってしまうからです。
神がお望みなら、常にお教え下さるのが目的で、道を歩いている時でもメッセ―ジを1、2行いただきます。たとえば、その時もエルサレムにいました。いろんな集会があり、最後の日は土産を買うためにあけてありました。「今日は集会がないから自由だわ」と思って、私はダマスコの門から旧市街へ友達と歩いて行きました。途中で一人の友人がシスターたちに電話をするのを思い出し、戻って来ますと、「ヴァスーラ、止まって。それ以上さきに行かないで」と言います。「どうして?」と聞きますと、「シスターたちが来てほしいんですって。食事を用意して待っているそうよ」との答えです。「えーっ、それは予定には入ってないわ!」「いいから、食事を作って待っておられるし、一緒に祈りたいんですって。二、三聞きたいこともあるそうよ。」私は目を上げて、「ああ、自由はどこにあるのかしら?」とため息をつきました。その途端、稲妻のように心の中で言葉が響いたのです:「私の霊のうちに。」―霊のうちに自由はある、と。
そして、ある時ギリシャで、この時も友達と一緒でしたが、迫害と混乱のさ中、私はイエスの方を向いて申し上げたのです。「イエス様、私をどういう中に置かれたのですか?」すぐさま返事が聞こえました:「私の体の中に。」また、ある時はお腹がすいていた時です。台所でサンドイッチを作ろうとして、戸棚を開けながら独り言をつぶやきました。「ああ、お腹がすいた!」すると、横から声が聞こえました。「私の言葉にたいしてか?」イエスは本当に、親友でいらっしゃいます。
聖母への奉献
一言二言黙想する言葉を述べて、しめくくりにしたいと思います。御父はおっしゃいました。
「私のために生きる人は私とともに生きる。隣人を愛する人はすでにこの世に打ち勝っている。そして我が息子、イエス・キリストの足跡をしっかりとたどり、私の王国に向けて歩みを進めている。」
神の掟や指針を忠実に守る人たちは多いのですが、どういうわけか喜びを失い、背筋が硬直しています。けれど神は歓びです。そしてこう言われます。
「私の指針を守りなさい。しかし岩ではなく心をもって。残りの生涯正義を行うと決心しなさい。しかしそれを喜び味わいながら。」
そして自分自身、家族と国家を聖母に献げることをおすすめします。聖母は偉大なことをして下さいますでしょう。本当の母でいらっしゃいます。神戸からいらした方はもう聞いておられますが、そこで話した小さな例を上げましょう。3年間のメッセ―ジを書き下ろしてきましたが、ちょうど3年目に、イエスは私を送り出す準備をしているとおっしゃったのです。私はちょっと息子のことが気がかりでした。時どき、学校の勉強を見てやっていましたので。「これからどうしよう。学校で困らないかしら?」と、こう思ったのです。そこで、聖母にお願いしました。
「聞いて下さい、あなたの息子、イエス・キリストは私を送り出そうとしておられます、ご自分の利益のために(笑い)。マリア様、どうぞ私の家にとどまっていただけますか? そして私の関心事を面倒見ていただけますでしょうか? 息子たちを捧げます、あなたのものです。どうぞ相手してください。」そう言って旅に出ました。一週間後に戻って来ますと、学校の主任先生から電話です。「話したいことがありますから、すぐ来て下さい。」「ああ、どうしよう、どんなことになるかしら?」こう思って、学校へ行くのが怖くなりました。主任室に入った途端、先生は立ち上がって満面の笑顔で「おめでとうございます!」とおっしゃいます。「今週、息子さんたちは素晴らしい成績でしたよ。大きく伸びました。」
そこで皆さんを神様が祝福されますように。メッセ―ジは多岐にわたり、今夜ですべては紹介できません。諸教会の一致についての力強いメッセ―ジもあります。一致は訪れるでしょう、聖書は実現されるはずだからです。けれど、そのためにはどうぞ祈って下さい。私も皆さんとこの国のために祈ります。そして私を忘れないでいて下さい。私のためにも祈って下さい。皆さんを神様が祝福されますように。ありがとうございます。