パトリック・ラビエール教授による序文

パトリック・ラビエール教授による序文

パトリック・ラビエール ジュネーブ大学、フリブール大学教授  

神の庭園では、驚嘆させられる様ざまな花々に不意を打たれて、にわかには信じがたいという思いにおそわれることがあります。キリスト教の神秘神学の歴史は、神的というよりはむしろ人間的な伝統の名によって始めは遠ざけられている、思いがけないような人びとのケースに未だに満ちています。後世、これらのケースは結局は依るべき典拠となるのでしょうが。

満ち溢れる霊的な賜物がさらに増大したとでもいえそうな気さえしてきますが、それは単に被造物の応答によって生ずるのではありません。むしろ、教会の教父たちが「救済の調和」と呼んだ、神の不可思議なご計画に則ったものなのです。

ヴァスーラにおいて私たちの注意を引くのは、被造物の応えではなくて、創造主の問いのほうです。ここに示されている文章のうちに私たちが見い出すのは、リジューの聖テレジアの「一つの魂の歴史」のような自叙伝ではありません。私たちが見い出すのは、神から来ている愛に満ちた働きかけの歴史なのです。そこには教えがあり、メッセージがあるのですが、それ以上に被造物に向けられた神の宣言、期待、あえて言えば嘆願が見い出されるのです。

この呼びかけは新しいものではなく、それは様ざまな時代を通じて響き渡り、注意深い幾多の霊魂のうちにそのこだまが見い出されます。しかしその音調やあり方は未聞のものです。ここに一人の女性がいますが、その人は三十年の間神について気にかけたことなど殆んどありませんでした。社交界で大活躍している最中に、突然天使の呼びかけを受け、その天使が三か月間、神の直接の介入を準備したのです。このすべては、殆んど絶え間ないヴィジョンや超自然の存在の訪れを伴いつつ、ノートに書き記されていきます。

ほかにも多くの例が浮かんできます。十五世紀のローマの聖フランチェスカ、十九世紀のアンヌ・マリー・タイジ、二十世紀ではアルミダのマリア・コンセプシオン、ガブリエル・ボッシ、そしてマリー・スヴレー。いずれの場合も世俗に生きる女性で、殆んどは結婚しており、脱魂状態は経験しないが明らかにキリスト、聖母、天使たちとの霊的な親しみの中に生きている。彼女たちの皆がヴィジョンを持つわけではありませんが、誰もがメッセージを書くように求められ、それによって彼女たちは特権的な証人となっています。言ってみれば、ごくありふれた雑事のただ中にあっての内的生活の、選ばれた預言者となっているのです。

ヴァスーラにあっては、日常生活の細部の中への神の侵入は、ローマの聖フランチェスカにおいてと同様に、世界の運命についての教え、および天国、煉獄、地獄についての驚くべきヴィジョンと混じり合っています。ご自分の選んだ女性の自由を尊重しながら、そのみ名とメッセージを明かされる対話の相手の、神性と人間性の相次ぐ不意打ちのような現れに、私たちは殆んど臨床的に立ち会うのです。ヴァスーラは、これほど近くにあり、これほどにも強烈な存在を目に見、感知しながら、彼女さえも信仰告白の必要を免除されてはいません。

私たちは、測りがたくかつ具体的な現存によって素晴らしいものと化した日常生活の諸場面に立ち会うのです。ヴァスーラはありのままの彼女として、スポーティーな家庭の母としてのその振舞いの中で受け入れられており、その日常的な枠組みの中で、預言的なメッセージが世界に向けて発せられるのです。

一人ひとりの霊魂が親密さへと招かれ、世界全体としてはみ国の実現を目指して改心へと招かれるのです。キリストは福音書の中で判断の基準を私たちに与えられました。樹はその実によって判断すべしと。これ以降メッセージを読むことによって、まさに通常の経路でキリストのメッセージを受け入れる準備などもっとも出来ていないように思われる男女の人びとにおいて、何十もの改心が生み出されたのです。すでに信じている人びともまた、この改心への呼びかけのうちに、新たな熱意を汲み取っています。

このメッセージは、愛が私たちの思っていた以上に創造的であると結論せざるを得ない信仰の態度がなければ、理解できません。それ以上に練り上げた議論はまた、懐疑的な人びとを説得できないでありましょうし、本文そのものを読むのにじゃまとなるおそれがありましょう。ここで個人的な証言をさせていただきたい。神秘的な書物を読むのは一つのことであり、それを書いた女性と出会うのは別のことです。そして私は自身の目で確認したのですが、恩寵はこれほど明らかにその能力を超える使命を提示する場合であっても、自然を破壊はしないということを、私たちは体験させられたのです。ヴァスーラは相変わらず私たちの時代の女性であり、この人と私たちの誰もが語り合うことができ、神の愛は万人に向けられていて、私たちは自分に考え得る以上にはるかに愛されていると教えられるのです。聖パウロにはこの事実を言い表す言葉があります。神の愚かさ、さらに文字通りに言えば十字架の愚かさです。