スウェーデンの聖ビルジッタ

2026年2月20日 お知らせ

ヴァスーラは、2002年6月26日付のバチカンの信仰教理省に宛てた手紙の中で、こう記しています。「スウェーデンの聖ビルジッタも、同じような方法で彼女のメッセージを書き留めたということを、ここローマで聞きました。」聖ビルジッタの体験と、当時の状況が、現代と非常に類似していることを見ていきましょう。神のメッセージが現代の私たちにとってどのような意味を持っているかを再確認することができます。

時代背景

聖ビルジッタが生きた14世紀は、ヨーロッパ全体にとって激動の時代でした。

カトリック教会は深刻な危機を迎えていました。1309年から1377年にかけて、歴代の教皇はローマではなく南フランスのアヴィニョンに居を構えていました。これを「アヴィニョン捕囚」と呼びます。教皇はフランス王権の影響下に置かれ、ローマ教会の普遍性と独立性は大きく損なわれました。聖ペトロの後継者がペトロの殉教の地ローマを離れ、世俗権力の庇護のもとに安住しているという事実は、多くの信仰者を深く傷つけるものでした。

聖職者の腐敗も深刻でした。司教や司祭職が金銭で売買される聖職売買が横行し、聖職者が愛人を持つことも珍しくありませんでした。修道院の規律は緩み、本来は清貧と奉仕に生きるべき修道者たちが、富と権力を追い求める姿も見られました。

さらに、1347年から猛威を振るったペスト(黒死病)がヨーロッパ人口の三分の一とも言われる命を奪いました。人々は死の恐怖の中で神に問いかけました。神はどこにおられるのか?

英仏百年戦争(1337-1453年)も、この時代の大きな悲劇でした。キリスト教国同士が何世代にもわたって戦い続けるという現実は、キリストの教えとの深刻な矛盾を示すものでした。ビルジッタはこうした時代の闇の中に生きました。

生涯

ビルジッタ・ビルゲルスドッテル(Birgitta Birgersdotter)は、1303年頃、スウェーデンの貴族の家庭に生まれました。父親はスウェーデン東部のウプランド地方の知事を務める敬虔なカトリック信者で、ビルジッタは幼少期から深い信仰の中で育ちました。

7歳の頃、彼女は初めての幻視を体験したと伝えられています。聖母マリアが現れ、一つの王冠を与えてくれたというものです。10歳の時には、十字架上のキリストを見る幻視があり、その傷の生々しさに深く心を動かされました。この体験は、後に彼女の霊性の核心となるキリストの受難への黙想の原点となります。

13歳で結婚し、夫のウルフ・グドマルソンとの間に8人の子どもをもうけました。夫婦は共に信仰深く、巡礼を共にし、貧しい人々の世話をしながら生活しました。ビルジッタは貴族の妻・母としての義務を果たしながら、同時に深い祈りの生活を続けました。

1341年から1342年にかけて、夫婦でスペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼を行いました。その帰途で夫が病に倒れ、翌年に亡くなります。ビルジッタはこの死を深く受け止め、夫の死後は完全に神への奉仕に生涯を捧げることを決意しました。

夫の死後まもなく、彼女はキリストから直接語りかけられる体験をしたと記しています。「私があなたの花婿となろう。私は他のどんな花婿よりも優しく、あなたを愛する」。この言葉とともに、啓示を書き記すようにとの使命が与えられました。

その後のビルジッタは、スウェーデン王の宮廷に招かれ、王妃の侍女長として仕えながらも、王と廷臣たちの道徳的退廃を遠慮なく諌め続けました。王から疎まれることもありましたが、彼女はひるみませんでした。

1349年、ビルジッタはローマに移り住みます。以後、彼女の生涯はローマを拠点としたものとなりました。1373年、エルサレムへの巡礼から帰った直後に、ローマで亡くなりました。70年前後の生涯でした。

1391年、教皇ボニファティウス九世によって列聖されました。1999年、教皇ヨハネ・パウロ二世は、聖カタリナ・フォン・シエナ、聖エディット・シュタインとともに、ビルジッタを「ヨーロッパの守護聖人」と宣言しました。

『天の書』


ビルジッタはノートブックとペンを使って啓示をスウェーデン語で書き記しました。その筆跡には、推敲の跡がそのまま残されています。米国議会図書館に現存する自筆の草稿は3枚の紙からなり、多くのスペルの誤りや修正が確認されており、これらが清書ではなく草稿であることを裏付けています。ビルジッタが受け取ったままの言葉を、生きた草稿として書き留めていたことがここからもわかります。

書き留められたスウェーデン語の草稿は、聴罪司祭であった神学者ペトルス・オルラビによってラテン語に翻訳・編集されました。これが『天の書(Liber Caelestis)』、あるいは『啓示録(Revelationes)』と呼ばれる全8巻の大著です。啓示は告解司祭たちによって収集・整理され、ビルジッタの死後もヨーロッパ中に広く流布しました。枢機卿フアン・デ・トルケマダ、ジャン・ジェルソン、マルティン・ルターを含む多くの著名人がその著作を読み、注釈を加えています。

啓示の内容は多岐にわたります。キリストの受難の詳細な幻視、聖母マリアとの対話、教会への警告、個々の聖人たちの言葉、そして当時の王侯・教皇への直接的な訓戒など、その範囲は個人の霊的体験を大きく超えて、時代全体に向けられたものとなっています。

教会と聖職者への警告

ビルジッタのメッセージの中でとりわけ鮮烈なのは、当時の教会と聖職者に向けられた厳しい警告です。キリストの言葉として記されたある箇所では、堕落した聖職者についてこのように述べられています。「彼らは私の羊を養うために立てられながら、羊の毛を刈り取ることしか考えていない。彼らは私の言葉を語らず、彼ら自身の欲望を語る。」

修道者の腐敗についても容赦がありませんでした。本来は神へ奉献された者であるはずの修道者が、富を蓄え、世俗的な快楽を追い求め、共同体の規律を無視している現実を、ビルジッタは神から示されたものとして詳細に記しています。

ビルジッタの批判は、単なる告発ではありませんでした。その根底には、教会への深い愛と、失われたものへの悲しみがありました。キリストの言葉として記されているのは、罰への脅しではなく、「私に立ち帰れ」という呼びかけです。

教皇への直接の訴え

ビルジッタの活動の中で最も歴史的に有名なのは、教皇に対してローマへの帰還を繰り返し求めたことです。当時の教皇庁はアヴィニョンにあり、ローマは荒廃していました。ビルジッタはキリストおよび聖ペトロの名において、教皇クレメンス六世、ウルバヌス五世、グレゴリウス十一世に次々と書簡を送りました。その内容は礼儀正しいものでしたが、メッセージは明確でした。「ローマに戻れ。さもなければ神の裁きを受ける。」

教皇ウルバヌス五世は一度ローマへ戻りましたが、間もなくアヴィニョンへ逆戻りし、その直後に亡くなりました。人々はビルジッタの警告の成就を見たと感じました。教皇グレゴリウス十一世は最終的に1377年にローマへ帰還しますが、その実現にはビルジッタをはじめとする複数の神秘家の訴えが大きく寄与したと歴史家たちは評価しています。

平和への呼びかけ

教会内部の腐敗だけでなく、ビルジッタは当時の政治的暴力に対しても発言しました。英仏百年戦争が続く中、彼女はイングランド王エドワード三世とフランス王ジャン二世の双方に書簡を送り、和平を強く求めました。戦争はキリスト者同士の殺し合いであり、神の御心に反するというのが彼女の主張でした。王たちが彼女の訴えに耳を傾けることはありませんでしたが、この行動は、ビルジッタが啓示を個人的な慰めとしてではなく、世界に向けた責任として理解していたことを示しています。

個人の魂への言葉

ビルジッタのメッセージは、体制への批判だけではありません。個々の魂に向けられた、穏やかで親密な言葉も多く含まれています。キリストの言葉として記されたある箇所では、こうあります。「私の友よ、私があなたを愛するのは、あなたが善いからではなく、私が善いからだ。私の愛はあなたの功績によらない。私はただ、あなたが私のもとに戻ってくることだけを願っている。」

参考文献
Birgitta of Sweden, *Revelationes*, ed. and trans. Denis Searby, Oxford University Press
Birgitta of Sweden, *Life and Selected Revelations*, Classics of Western Spirituality, Paulist Press, 1990