証し

世界中の信徒たちによる証し

……引きつけられるままに一気に読了し、ついに「これは神からの真実のメッセージだ!」と直観しました。そして直ちに“キリストからのラブレター”と言われる『神のうちのまこと のいのち』全十巻(日本語版)を取り寄せ、多忙な仕事の合間ではありましたが、まずはⅠ巻から毎晩、むさぼるように読み進めていきました。読めば読むほど私自身の神に対する渇きが増し加わってきて、シラ書に載っている「わたしを食べる人は更に飢えを感じ、わたしを飲む人は更に渇きを覚える」の聖句(24章21節)が、まるで私に与えられたみことばのように感じられました。そして聖書を味わうような思いで、日毎、熟読玩味し、現在までに通算4~5回読み返しました。当初は漠然としたイメージしかつかめなかった内容が、聖霊の導きによるのでしょうか、いつの間にか目の前の覆いが取り除かれるかのようにスーッと開かれ、霊的喜びに浸されることをしばしば体験しました。しかし、巻を追うごとに、その内容はむずかしくなり、混迷のうちに読み進んでいきました。そのため、Ⅱ巻、Ⅲ巻あたりの基礎的な部分の学びをしっかりと深めていかなくてはならないことを痛感し、ときには、また元にもどって主の備えてくださったせん階段を少しずつ昇っていきました。自分でも霊的にわずかながらも成長していることが実感できますと、そのうれしさはひとしおです。全文を読む

(須永和宏氏 家政大学教授 日本 2017年)


……私は生涯カトリック書の販売業を営んできました。そのようなわけで、カトリックの世界にとって本当に大切な書物なら、少なくとも耳にはしていると思います。『神のうちのまこと のいのち』というシリーズほど心の深いところに触れ、影響を与えてくれたものはなかったと申し上げたいのです……神ご自身が「この時代に最も高貴なわざ」(1998年2月25日)だと言われました。「あなたのあまりに惨めな時代にとってこの本ほど利益をもたらすものは他にない。わが教会の刷新にとってこれ以上のものはあり得なかった」(1999年2月2日)と言う以上に、この本の大切さを強調することはできないでしょう。神はそれらのメッセージを愛の賛歌や神の新しい歌として言及してこられ、もっとも驚かされたのは、もし私の理解が正しければ、この愛の賛歌とは聖書の黙示録14章3節にでてくる「新しい歌」に他ならないのです(1994年10月25日)。しかし何よりも素晴らしいのは神がそれらを、われわれ一人ひとりに対する「私個人からのラブレター」と呼ばれていることです。(1993年4月12日)聖トマス・アクィナスが「神はどの世代にも預言者を送るが、新しい教義を与えるためでなく、救霊のために何をしなければならないか、信仰のある者に思い起こさせるためである」と書いていたのが先日、目にとまりました。ヴァスーラ・リデンはわれわれの時代にとってそういう預言者の一人であることを確信しております。全文を読む

(ハンス・エンデルレ氏 カトリック書店経営 日本 2004年)


『神のうちのまこと のいのち』のメッセージを読んで、私の人生は非常に大きく変えられ、私の回心も大きく変わりました。付け加えるなら、カトリック教会と、この教会がキリスト者世界に表すものすべてに、私は恋をしたのです。私の信仰は、以前の自分には信じられないようなレベルにまで深められました。特に、祝された三位一体と聖母への愛です。さらに、ヴァスーラが彼女の息子を通して経験したのとちょうど同じように、ある早朝の午前1時、当時幼児だった私の息子ロベルトを通して、イエスは私に3回質問されました。私が『神のうちのまこと のいのち』のメッセージを読んでいる最中、ロベルトが私のところに眠りながら歩いて来て、私がイエスを愛しているかどうか質問したのです。これが続けて3度起こり、その度に、私の息子をベッドに連れ戻しました。あの早朝に何が起こったのか、何週間も経った後になってようやく分かり始めました。この出来事ゆえに、祝された三位一体に感謝します。

(M.V. 南アフリカ、ヨハネスブルグ 1990年)


1991年に『神のうちのまこと のいのち』のメッセージを読み、私たちに対する神のみ言葉の美しさ、愛と優美さを知り、『神のうちのまこと のいのち』によって回心が深められるのを経験しました。読んだ後、私は神の甘美さ、穏やかさ、そしてどれほど私たちをゆるしてくださるかということを悟りました。私は今、活気に満ちあふれ、生き生きとしています。なぜなら、私の人生における神の私への個人的な愛に気付いたからです。私の神への愛は成長しました。『神のうちのまこと のいのち』は天国からの愛の賛歌です。

(A.M. オーストラリア 1991年)


1991年以来、『神のうちのまこと のいのち』の本は全部読みました。それらはとても美しいことに気付きました。イエスが私たちに望まれていることに従うように一生懸命取り組んでいます。私に起こった多くの不幸と孤立感にもかかわらず、私はイエスに信頼する強さを見い出しました。人生において起こることすべてには理由があると分かっています。『神のうちのまこと のいのち』を通して、イエスは統治しておられます。しかも、イエスは私たちに力を与えてくださいます。私が大きく進歩したのは、信頼するということにおいてです。

(F. W. オーストラリア 1991年)

今年の四月ころに『神のうちのまこと のいのち』を知り、二か月ほどで一通り読み終わりました。もう一度読み直しています。ヨハネ・パウロ二世、ベネディクト十六世、ステファノ・ゴッビ神父様などの推薦文があったので、『神のうちのまこと のいのち』を安心してひたすら読み進めることが出来ました。神のみ旨は、キリスト者が一致するのを強く望まれていることだと知りました。今年一月のメッセージを読み、現在、神はどのように思われているのか知り、幾分安心しました。世界、社会情勢は厳しい状況にはあるように思いますが、猶予が与えられているように思ったからです。それに五月末の教皇様と東方教会が共同ミサをあげられたニュースは喜ばしく、その他にもプーチン大統領の発言などのニュースも期待出来そうで、希望がもてるように感じます。私は52才の男性で、幼児洗礼を受けたカトリック信者ですが、長い間教会から離れていました。今から二十年近く前の三十三才のときに、とても不思議に感じる体験をしてから回心しました。以前は、宗教(キリスト教)よりは心理学、哲学、科学などの方に関心が強くありましたが、今は、霊的読書をしたり、毎日ロザリオや他の祈りをしています。

(M. I. 日本 2014年)


私はカトリック信者です。30過ぎて洗礼を受けました。にもかかわらず、次第に生ぬるい信者になり下がっていきました。ある日、この『神のうちのまこと のいのち』に出会い、読み進めるうちに再びイエス様と出会いました。イエス様は生きておられ、私に愛を求めておられました。どんなにイエス様を悲しませていたか、その時に知ったのです。それから私は生まれ変わったかのように、いつも生きておられるイエス様のことを考えて生きるようになりました。それは何ものにも代えることのできない大きな歓びです。そしてイエス様は、全ての人に愛を求めておられます。あなたにもです。この本はたいへん意味深い時を生きる私たち人類へのイエス様の愛のメッセージです。

(日本 2018年)


『神のうちのまこと のいのち』、それは神さまから私たち人類へのラブレターです。神さまはいつも私たちのそばにおられ、見守り、導いてくださる……数々の希望と愛に満ちたすばらしいメッセージで溢れています。

「私、神はあなたの父、あなたの造り主、そしてあなたたち皆を愛している」

神さまはご自身について語られ、私たちひとりひとりを救いに導くため、優しく語られるその言葉で私たちの心を引き寄せられます。神さまの言葉は私たちの心に平和を与えてくれます。愛のメッセージの数々の中で、神さまがどんなお方であるか……また私たちに何を伝えようとされているか知ることができます。メッセージは私たちに心からの幸せを実感させてくれることでしょう。

(日本 2018年)


この本を読んでいると、神さまの呼びかけに心を打たれ、涙がこみ上げてきてなりません。人類への深い深い愛が伝わってくるのです。これは、私たちを創造なさった方が、預言者ヴァスーラを通して呼びかけておいでのメッセージなのです。神さまはこの時代のためにとっておかれた宝をすでにあらわされています。それは、どんどんと広がり増えて、大きな歓びに溢れるはずの出来事です。冷え切ったわたしたちの心を暖め、溶かす愛です。

そして生きるつらさ、日々のことに悩み、辛さ、悲しみを味わう私たち人類のことを私たち一人一人をけして放ってはおかないことを約束してくださっています。神さまがどんなに私たちを愛しているか、一人も欠けることなく知ってほしいです。

神さまはいないのでしょうか? 私たちはただ一人で歩んでいるのでしょうか? もしかしたら、この本は様々な問いかけに答えてくれるかもしれません。そしてこの時代がどんな時代で、何が求められており、今緊急に叫ばれる事とはいかなることなのか、私たちは知ることになります。

(日本 2018年)


私はヴァスーラの1997年来日時の祈りの集いに参加しました。ある通訳がヴァスーラの言葉の通訳を間違いました。すると驚いたことに、ヴァスーラは日本語が分からないのに、すぐに訂正して『そうじゃないわ。私が言ったのはこうこうこういうことで…』と言ったのです。この人は神が選んだ預言者以外の何者でもないと私が確信した瞬間です。集会が終わってからヴァスーラに「どうして通訳が間違ったと分かったのですか?」と尋ねると「私、そんなこと言いましたか?」と言うのです。覚えていないのです! イエスが彼女の口を使われたのは確実です。

(日本 2020年)