ヴァスーラの歓迎スピーチ

2019年ギリシャ巡礼・ヴァスーラの歓迎の言葉

「神のうちのまこと のいのち」の名によって、皆様全員にご挨拶を申し上げたいと思います。そして壮大な歴史と、また聖書の歴史を持つ私の国へ来てくださったことに感謝致します。私たちはこのマラトン市を選びました。ギリシャ軍がマラトンでペルシア軍を打ち破ったという偉大な勝利の知らせを持って、走者ピリッピデスがここからアテネまで走ったところです(マラトンの戦い、紀元前490年)。彼は「ニキ!(勝った!)」というメッセージを伝えると、卒倒して亡くなりました。勝利の目標を達成し、良い知らせを宣言するためには、固い決意が必要です。そこで、私たちが固い決意をもって目指すのは──私たちの真摯な努力を通じて、平和をもたらし、神の御名において「ニキ!(勝った!)」と叫びをあげることができるように、勝利の目標を達成するということです。

ですから私は、この霊的な集まりのために主に感謝します。なぜならこれは、私たちがこのレースに参加し、平和のために働くように、神が私たち全員に与えられた恵みだからです。この恵みは、神の御国を広げる機会を私たちに与え、私たちが相互に理解できるように互いを近づけ、神のご意志である和解と平和、多様性における一致へと近づけます。

私たちは神を忘れてしまった世界に教えなければなりません。神を彼らの生活の中心に取り戻すように、神のそばに、神のうちにいるように、神だけのです。彼らは学ばなければなりません。誰もが生ける神の祭壇となるように歓迎されており、神無しには彼らの食卓は空っぽですが、神と共にいるならその食卓はいつも満たされていることを思い出すようにと。

神は私たちの時代に、歴史上かつてなく類を見ない方法で、ご自身をはっきりと示しておられます。神はご自身の被造物を新しくしておられ、イエス・キリストの来臨の準備としてあらゆることを行っておられます。神はその民を集めておられ、蘇らせ、真理を探し求めたいという願いをもって、彼らの霊に火を付けておられます。

裁きの日に、神は私たちの時代に憐れみを示してはくださらなかった、神はその目的を私たちと分かち合ってはくださらなかった、と言うことはできないでしょう。私たちの心に、緊急に平和を呼び掛ける神の声を聞くことも、神のしるしを見ることもなかったと、あるいは神が私たちに何を求めていらっしゃるのか理解していなかったと言うこともできません。

政府で高い権威を持つ人々(政治家)の多くが、世界に平和をもたらすことについて話しますが、彼らはまず神と和解したのでしょうか? 回心して、神を私たちを産み出した父として再発見するためには、愛の革命が必要です。一度私たちの神的起源を再発見し、私たちが誰から来たのかを再発見するなら、私たちは癒やされるでしょう。世界の平和は回復し、愛が憎しみに打ち勝つでしょう。不可能は可能となるでしょう、なぜなら神には不可能なことは何もないからです。しかし神は、私たちが自我に死に、神のみ旨に従うという私たちの同意が欲しいのです。

この終わりの時に、神は私たち皆のところに来られます、最も惨めな者のもとにも。神がこんにち私たちに求めて折られる犠牲とは、私たちの心が変わることです。主は私たち一人ひとりに、悔いる心を求めておられます、悔い改めの実をもたらさない限り、誰も自分を信心深いと見なすことはできないからです。私たちのやり方は神のやり方ではありません、ですから私たちは心を開いて、神に耳を傾けるべきなのです。もし一生懸命努力するなら、私たちの分裂に橋を架けるために、一緒になって熱心に働く能力が私たちにはあります。私たちは裂け目を修繕する者となるべきです。私たちの違いを修繕し、争いのある所に平和を、憎しみのあるところに愛を、分裂のあるところに一致を推進して。

私たちは皆、どんな区別もなしに、とても神に愛されており、神の目にとても貴重なのですから、私たちも互いに愛し合うように期待されています。なぜなら、神は私たち一人ひとりのうちに住まわれるからです。私たちはこのことを世に思い出させなければなりません──神の言語を、私たちの創造主は優しさと神的な愛にあふれており、同時に、権威、力と威厳においてもそれに不足するものではないということを。神は優しく、愛深いお方ですが、恐るべき審判者でもあります。神はアルファでありオメガでありながら、柔和なお方であられます。

ですから、人々が神と人類における愛の現実に直面するなら、彼らは神と隣人とを愛するようになるでしょう。

もし人々がこの最後の日々に神が与えておられる呼び掛けとしるしを真剣に受け止めたなら、世は神を賛美し、世界の冷酷さに変化をもたらし、それを燃え上がる愛の炎へと変えるでしょう。

もし人々が、この最後の日々におけるサタンの怒りに関する主の警告を真剣に受け止めていたなら、サタンはもう既に、世界じゅうの人々の心から追放されていたでしょう。

もし世界の宗教の全てが神の和解への呼び掛けに応えたなら、すべての男女は既に、お互いが一つの源から来た兄弟姉妹であることを悟っていたでしょう。

もし私たちが、神が全力でご自身の被造物を新しくしておられるという、信じがたいほどの恵みと憐れみの瞬間のうちに生きていることを悟ったなら、私たちは日夜絶えることなく神を賛美し、私たちの心は熱意に燃えているでしょう!

もし人々が主の回心への呼び掛けに注意を払っていたなら、男も女も全員聖人となっていたでしょう。

もし誰もが神のみことばを実行に移して生きたなら、一人ひとりの人生の歴史も、そして全ての民の歴史も、結果的に愛の賛歌となっていたでしょう。

私たちのレースはまだ終わっていません……ですから、神のアスリートとなり、神が私たちのために描かれたゴールに到達し、天の褒賞を獲得するために、私たちのレースを続けていきましょう。聖パウロが言ったことを、私たちも言えるようになるために。「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです」(二テモテ4・8)