ヨキエル神父の講話1

2017年1月24日

於上石神井イエズス会修道院

今回は皆が質問して、質問に答える方法でお話しくださいました。

質問① 聖書の中で「人の子の悪口を言う者はゆるされるが、聖霊を冒涜する者はゆるされない」という箇所があります。これはどういう意味ですか?

答① イエスは神でありまた人間である。イエスはすべての人を救うために地上にきた。回心すれば救われる。地獄に行くことは自由意思。決定的に悪を選んだ。ある人は神を憎むから悪魔を選ぶ。多くの人が通る広い道は危険な道、神から離れる誘惑が多い、罪を犯すことになる。そうすると天国に行けない。しかし、少しでも愛があれば、煉獄にとどまれる。煉獄は大変苦しく、その期間は愛の程度で決まるが、ある人は千年、ある人は世の終わりまでとどまる。回心は罪を捨てること、回心は聖人の道に入ること。回心して聖人の道に入りましょう。

質問② イエスが神殿で発見されたとき、「わたしがここにいることがどうしてわからなかったのですか?」と母マリアに言った。冷たく感じる。どうしてこのように言ったのですか?

答② 冷たく聞こえるが、イエスは母マリアをとても愛していた。心は一つ。突然神殿に残ったのは、イエスは言う必要がないと思った。イエスの父は天の父、マリアはその時は奥義まではわからなかった。人となった神イエスを深く知って欲しい。イエスのみ心に私たちが入ること望んでいる。祈りの中で、イエスと親しくなって、イエスと一致すること望んでいる。それには、イエスに頼むこと、望むこと。神は喜ぶ。神の栄光になる。

質問③ 悪霊に祈っている人がいる。教会から出るように祈る? あるいは回心を祈るべきか?

答③ 当然、回心を祈って欲しい。それこそが隣人愛。教会から出るようにとは祈らないほうがよい。その人の為に愛をもって祈る。神がゆるしたい、救いたいと望まれている。

質問④ 悪霊を追い出してもらった人が、後で悪霊が戻り、もっと悪くなったと聖書にある。追い出してもらった人は皆その危険があるのですか?

答④ たくさんの人の中に、悪魔が入ることができる。ある人は心に蛇を養っている。回心して罪から離れ、深い祈りをするなら悪魔が耐えられない。しかし気を付けていないと、うっかりしていると、悪魔は帰ってくる。仲間を連れて来る。悪い考え、恨み、憎む、裁く疑う心など。自分を責める心も悪魔から来る。小さいことがきっかけで、心と体の弱さから少しづつ働く。「悪魔がいない」という司教・司祭もいる。悪魔は国をつぶしたい。戦争を起こしたい。神からくるものは、希望と喜び、私たちの心が聖三位一体が住む聖櫃になるように、神を賛美し、愛の実行、神が喜ぶことをしましょう。

質問⑤ イエス様はすべての人を救いたいのに、どうして「救いにいたる道は狭い」のですか?
答⑤ 世間の道は広い道、悪い道、神にとって悲しい。私たちはすべての人の回心のため、生き方を通して、祈りと犠牲によって、人に伝えることによって、人びとの回心のため神に協力できる。人々の回心のため、聖母は世界中に現れた。イエスは今も生きている。今も私たちに話している。教皇と教会のために祈らなければならない。現代の神学は、頭は使うが心が無い。聖霊が分かっていないからそうなる。神のお望みのようになるためには、人間の協力が必要。秋田の聖母のモデルとなった、すべての民の御母をオランダのハーレム教区の司教様が認められた。聖母は協贖者であると認めた。メジュゴリエは多くの人の回心がある。(聖母は週二回のパンと水の断食と毎日三環のロザリオの祈りを頼まれた。人々の協力を頼まれた。)

質問⑥ イエス様は悪霊を追い出されましたが、人の中に悪霊がいるかどうか識別できません。

答⑥ ヒトラーのような人は、ただの人間ではなく悪魔の力が働いていた。沢山の司祭の中にも、沢山の人の中にも悪魔が入っている。神の目でみると、自分の罪がわかる。以前に軽く見ていたことが実は大きな罪だったということがある。傲慢、人を軽蔑する、裁く、人に良く思われたい、神の御旨を聞くのではなく、自分の考え(たびたび神様の思いとは違う)で行う。良心の究明するときに調べてみてください。子どものようにならなければならない。良い子は親に信頼して、親に相談する。親に頼む。神にもそのようにしてください。全部神様と一緒にしてください。意識して、神の望みと御旨を探してください。神と一致できるように、神に求めれば神は喜ぶ。神の子となる。悪魔はロザリオの鎖で縛られるという預言がある。聖母もいつもロザリオを手にしておられる。秋田の聖母は私たちのために泣かれた。神のお望みを求めましょう。

質問⑦ ダンテの神曲にあること信じて良いか?

答え⑦ ダンテの個人的考えであり、聖書ではない。そのように理解してください。