2019年ギリシャ巡礼・ルイス・ラファエル一 世・サコ枢機卿

「互いへの神的な愛は、私たちを共に神における一致へと結び付ける」

ルイス・ラファエル一世・サコ枢機卿
バビロニア総大司教(カルデア典礼カトリック教会)
教皇庁諸宗教対話評議会顧問

神は愛であられ、私たちは神の愛によって、人間として、またキリスト者としての両方のレベルで存在しています。この愛なくしては、私たちは決して存在しませんでした。私たちは皆、神を私たちの創造主として、父として、私たちを一つの家族として一致させてくださる方として、認識するように招かれています。「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです」(1ヨハネ3・1-2)。私たちは成長して、この親しい愛の関係性にまで上昇するように呼ばれています。

「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。……わたしたちが神を愛したのではなく、神が先にわたしたちを愛されたのです。……愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。……わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。……愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。」(1ヨハネ4・7-16)

他の人と関係性を築きたいと望む時、私たち一人ひとりが訪ねる基本的な質問とはこうです。「私を愛していますか?」。そしてイエスはこの質問をペテロに三回尋ねられました(ヨハネ21・15-17)。

愛とは空気のようなものです。それ無しには、私たちは平和、熱意、幸福のうちに生きることはできません。この意味で、コリントの信徒への最初の書簡は述べています。「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。……愛は決して滅びない」(1コリント13・1-8)。使徒パウロは「愛と与えることの喜び」に焦点をあてています。ここで私は、「愛 love」という言葉は、憐れみを意味する「慈愛 charity」という言葉とは違って、むしろ心から出る感情としての愛のことを意味していることに注目します。

愛とは、誠実に愛する人のために、自分自身とすべてを放棄することです。他者への愛は、私たちの心に深みをもたらし、他者のために役立つことができるようにします。信仰は愛と同じ意味を持ちます。神が私たちを愛してくださるから、私たちも神を愛します。そして神に信頼し、自分自身を神の自由になるように差し出すのです。すべてのキリスト者の旅路とは、神の世界から自分たちの世界に毎日何かを持ってくることであり、私たちがキリストに向かうことができるように、キリストから来るものを身に付けることです。彼らはキリストが御父と一つであるように、一つとなります。私たち、神の子どもたちは、神のうちに溶け込むのです。私たち、死すべき者は、もし神のうちに溶け込むなら、死んでも生きます。なぜなら私たちの存在の奥深くには、死ぬことのない霊魂があるからです。「私は愛するお方を愛し、私の霊魂は御子を愛する、彼が休むところには、私もいる。私は彼と混ぜ合わされている、なぜなら、恋人がその愛する者を見つけたのだから、そして私は御子を愛し、私は息子となった。不滅なる神に加わる者は誰であろうとまた不滅となる。命のうちに喜ぶ者は、誰であっても生きる」(ソロモンの詩(モアシャハット)、シリア語のテキスト、159ページ)。私たちの他者への愛は、キリストの愛に溶け込む種類のものなのです。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25・40)。

──愛は幻想ではなく、真理のうちに生きる、それは率直で誠実、偽りを知らず、複雑ではない。
──愛は私心がない、自己の利益を追い求めない、「私にくれるなら返してあげましょう!」という考え方に耳を貸さない。
──愛が私たちの存在を圧倒する時、私たちを驚くほど健康に成長させる。
──愛が私たちのうちに住む時、私たちの人生に何か壊れた部分があったとしても、それを固く結び付ける! 聖体は愛の神秘ではないのか? キリストは、ご自身が深く愛しておられる私たちのために、寛大にもご自身を差し出された(ヨハネ13・1)。
──愛は感動させるもので、憂鬱にし、心配させ、イライラさせるものではない。それは大きな心と忍耐、元気を回復し、分かち合い、創造的で、いつも新しくされる。それは「今売り出し中の商品」へと変えられることはない。
──愛は誰も苦しめないし、誰の個性も消さない。愛はどんな有害なこともせず、試練や苦痛に直面しても弱くならない。愛はいのちの中断を信じず、希望、自信、活力、平和と喜びを私たちのうちに輝かせる。愛は祝祭である、約束された将来への祝祭であり、開放である!
──愛は完全で調和した成熟である。愛は語る必要がない、それ自身が表現するからだ! 文字は殺すが、霊は生かす(2コリント3・6)、それはすり切れることがない。愛は疲れることがなく、内向的になることもない。
──愛は試練に対峙し、困難を乗り越える力と勢いを与える、そして人間同士の、そして私たちと創造主である神との間の、最も強い絆である。
──深い真実の愛は神の私たちへの愛の反射である、それゆえ私たちは自分を教育するように呼ばれている。
──愛とは活動的な事業である、それは驚嘆させ、喜ばせ、高め、機械的にではなく、段階的な統合を通して超越する。
──愛は自分自身を自由に与える。愛する人は、創造的で生命を愛する結婚生活に自分自身を奉献することを恐れない。あるいは司祭職であれ、修道士としての奉仕であれ、自由でよく実を結ぶ奉献生活に身を献げることを恐れない。体と霊魂、心と精神を通して。私たちが愛し、共に生きる人々のために、終わりまで自分自身を犠牲にする。この視点から、私たちはイエスの言葉を理解するべきである。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」(マタイ16・25)。
──愛は思いやり深い親密さであり、あらゆるものを偉大な善へと変える。これが、パウロが愛は滅びないと断言する理由である!

7世紀の東方の偉大な霊的教父たちの一人、聖サードナ・マルティリウスの言葉で締めくくりたいと思います。「神の王国はあなたたちのうちにある」(ルカ17・21)。誰であっても、神の愛を自分の中に所有する者は、神自身を所有するのだ。愛を持つ人は何と偉大か、愛である神がその心に住まうのを許した者は。そしてこの限られた小さな心が、天と地をもってしても収めることができない方を霊的にかくまうとは、何と驚くべきことか」(伝記完全版188)。