2019年ギリシャ巡礼・ギャヴィン主教のスピーチ

2019年ギリシャ巡礼・ギャヴィン主教のスピーチ

ギャヴィン・アシェンデン主教
聖公会、エリザベス女王の元聴罪司祭

互いへの神的な愛は、私たちを神のうちの一致へと共に結び付け、
「霊における愛」は私たちを一致へと結ぶ

●分断された人々、分断された教会

このテーマから二つの疑問が浮かんできます。私たちを一致へと結び付ける「霊における愛」への探求を助けるものとは何か? そしてそれを阻み、妨げるものとは?

私たちはこの黙想の集いに、分裂した自己を持ってきています。聖パウロが、私たちの古い自己と新しい自己の間の霊の分岐点と呼んだもの:霊と肉のために私たちが苦しむように、この分裂した自己も苦しんでいます。この闘いを、私たちに特有の、霊的な多重人格の一つと呼ぶことさえできるかもしれません。なぜなら私たちは、自分が誰であるのか、どのように生きるのか、キリストにおいて生きるのか、キリストから離れて生きるのかということを決める時に、優位に立とうとして闘う二つ以上の自己をしばしば持ち合わせるからです。

その結果、私たちは個人として分断されます。そして分断された人々から成り立つ教会もまた分断されることになるとしても、驚くには値しません。

私たち自身の霊魂のこういった深刻な分裂に気付くことによって、私たちは自身の個人的な、あるいは集団としての断裂を神のみ前に持ってきて、癒やしを求めるのです。

●分断された教会を癒やす

教会の分裂はスキャンダルであって、私たちはこれを癒やそうと長い間努力してきました。しかしその解決策は、教会一致の問題に取り組む職業神学者たちの手に委ねられているように見えます。彼らの成果の記録は、非常に限られたものに過ぎません。

この癒やしを、教会が分裂したのと同じ期間で達成することはほとんど不可能です。歴史をやり直すことはできません。委員会やシノドスは、コミュニケーションの行き違いや、挫折した野心や、誤解に対する解毒剤とはなりません。それらは、党派的な意向を持つある個人を他の個人に対抗して投入したり、ある団体を他の団体に対抗して投入するという悪魔の働きに挑戦するために十分な識別も持っていません。

しかし神は、私たちを分裂させたまま見捨てることはなさいません。神はご自身の聖霊を送られ、預言のカリスマを通して、分断され、荒んでしまった心に語られ、悔い改めるように呼び掛けられ、ゆるしをもって私たちを暖めてくださいます。互いに寛大になるためには、このゆるしが私たち自身の霊魂のために必要なのです。

これが私たちがここにいる理由です。『神のうちのまことのいのち』のメッセージを通して、聖三位は、私たち一人ひとりをさらに深い神の愛の親密さへと導いておられ、私たちはこの愛をたたえるようになりました。

しかしこの愛は、ただ心を温めて霊魂をなだめるだけではありません。神の愛は火です。火は暖めますが、同時に清めます。「生ける神の手に落ちるのは、恐ろしいことです」。(ヘブライ人への手紙10・31)

この刷新の動きに呼ばれることは光栄なことですが、また同時に、痛みを伴うものでもあるのです。

●先祖の争いを永続させる

私たち自身の分裂が、教会の分裂を引き起こしているのでしょうか? そうだとすれば話は簡単です。実際には、私たちは自分の民族の、あるいは霊的な先祖たちの分裂運動を永続させているのです。メッセージの中で主は、自分の先祖の罪を継承し、現状に満足している私たちを叱責しておられます。

2001年11月13日、最初に主は教会に広く語り掛けられ、分裂と対立のうちに生き、この現状に満足している状態を終わらせ、私たちの分裂は罪の悪臭を放っていることを思い出すように招いておられます。私たちは神の落胆を共に分かちあう必要があります。

「羊飼いたちは分裂し、互いに反目し合っている。霊的な衰弱のうちに生きており、もし誰かが私の家のために熱意を持って、進んで私の十字架を担おうものなら、彼らもこの罪人たちに迫害される。この者たちはきちんと私に従ったと言うことができるだろうか? もし「はい」と言うなら、あなたたちの分裂について説明しなさい。分裂は罪である。あなたたちはこの言葉の意味を間違いなく知っているはずだ。『どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない』。信仰に特有の印が彼らには欠けている。もはやそこに愛は無い……」

私たちの中には、自分は広い心を持っている、暖かく寛大な心を持っている、自分は包括主義的な意図を持っていると言って、自分たちを弁護しようとする誘惑に駆られる人もいるかもしれません。しかしながら、私たちは自分の先祖たちからの制度的な、また宗派的な重荷を背負っていることを、主は思い出させておられます。

「たとえこの分裂が、直接彼らから来るのではなく、先祖から来るものだったとしてもだ」

私たちがまとっているアイデンティティーの多くは、先祖たちの争いを永続させています。私たちが党派心や部族主義に飲み込まれるのに乗り気であることを警告する聖パウロの叱責に耳を傾けましょう。

「兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません。相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。ある人が「わたしはパウロにつく」と言い、他の人が「わたしはアポロに」などと言っているとすれば、あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか。アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です」(1コリント3・1-5)

私たちはパウロとアポロから、マルティン・ルターとイグナチオ・ロヨラに移ったに過ぎないのです

あまりにも多くの人々にとって、教会は「この世の中にある」ように見られています。互いに競合し合う、異なった部分を持つ組織だと。私たちがここにいるのは、霊に目を開いていただくためです──お互いを見る時、戦争によって引き裂かれた歴史の繰り返しを見るのでは無く、イエスの現存を見るのです。互いのうちにイエスを把握するなら、互いに霊的に「恋に落ちる」のに失敗することはありません。ここから、この癒やしと教会の一致は始まるのです。

●どのようにして霊のうちに生きるのか?

この「肉から霊への」旅路の鍵となるのは、悔い改めです。

「私の言葉によってあなたたちの心を燃え立たせようと、私の裸足はだしの天使たちを送ってきた。時代よ、あなたたちに警告するために彼らを送った。あなたたちが悔い改め、祈り、その罪を償い、生き方を改めないなら、そして私の聖体を重んじ、聖なる生き方をし、一致して、心の中に私を封印のように置かない限り、その失敗によって、あなたたちの上に地上の悪の全てを引き寄せることになると」(2001年11月13日)

定常的な形而上学というものはありません。私たちは心の清さと謙遜によって、悪を食い止めるのです。あるいは、互いに対立するという悪魔的なエネルギーに向かうなら、分離させようとする怒りと非難へと戻ることになります。

私たちの悪に対する防御は、謙遜への飢え渇きと、陶器師の手の中における柔軟性に掛かっています。この陶器師は私たちを造られ、さらに神のかたどりとして造り変えようといつも努めておられます。

私たちが方向を変え、聖パウロにならって、他者を自分より優れた者として扱うだけでなく、教会のさまざまな部分に対して神が与えられたカリスマも認識するなら、私たちを共に一致へと結び付けるこの神的な愛に出会います。私たちの誰も、他者の存在とカリスマなしに、完成した教会、一体となったキリストの体となることはできません。

そしてこの神的な一致は、私たちがともに祭壇を囲むときに、もっとも深まることが知られています。

「私の家はなおざりにされてきた。どんな家でも、誰かが対価を払うものだ。私自身の血によって私の家を買い取った。あなたたちが一つになるようにという私の父への懇願に、なぜ誰も耳を傾けないのか? あなたたちが従順を示すことによって私の呼び掛けに応えていたなら、今日、あなたたちは一つの祭壇を囲み、一つの杯を分かち合っていたであろう」(2001年12月10日)

私たちの謙遜のしるし、償いの行為とは、一つの杯を分かち合うために、一つの祭壇を囲んで集まることです。

●一致のモデルとしての三位一体

聖三位一体とは、三つの位格が単一のうちに埋め込まれているということですが、これは偶然ではありません。教会は聖三位一体を映し出すものであるべきですが、罪によってバラバラに壊されています。私たちは三位一体の中に、この逆転した愛のヒエラルキーを見いだします。御父は私たちのゴールであり目的地ですが、御父の現存へと向かう旅は、十字架上で私たちの罪を担ったキリストだけが可能にできるものです。霊魂を御父の現存の中に引き寄せるのは、聖霊の力だけにできることです。私たちが御父の玉座に近づく時、聖霊は私たちの足元の地面であり、心の中の火であり、腕を組む友人なのです。

三位一体のそれぞれの側面が、教会のいのちに映し出されます。私たちの悲劇とは、私たちの証しは、私たちが壊されてしまったために妥協したものとなり、壊れた三位一体を提示していることです。

20世紀の初めから、世界の教会には3つの分裂があるということが、侮りがたい教会一致の神学者であるレスリー・ニュービギンによって観察されました。御父の教会、御子の教会、聖霊の教会です。

まるで、カトリックと正教会が御父のある部分を反映し、プロテスタントが御子のある部分を、ペンテコステ派が聖霊を反映しているかのようです。

カトリック教会と正教会は御父を象徴し、教会は荘厳さと、光輝への畏敬を響き渡らせます。私たちは神の現存の壮麗さと力に出会い、そのみ前で聖なる畏敬に打たれます。私たちは典礼と建築、霊性の中にあって、超越する御父の栄光のみ前で頭を垂れます。キリストはパントクラトール(全能者ハリストス)、最後の審判のキリスト、天上の王として現されます。

教会のプロテスタント的な側面は、しばしば神のみことば、ロゴスの明瞭さと力を映し出します。眠っている世界をみことばの力で刺し貫いた大工との出会いです。苦しむしもべは屈辱と十字架刑へと進み、悪霊とファリサイ派を行く道から追い散らします。良い羊飼いはたとえ話で人の心を溶かし、聖書を通した無限の力で語り掛けます。

教会のペンテコステ的な部分は、聖霊の力と賜物、聖霊の実と力強さに焦点をあてることで明らかになります。

私たちは神格の三つの側面を持っています、ところが、神格の霊的かつ実存的な深い一致を映し出すかわりに、深い分裂を経験しており、それを提示しています。この分裂にあって、私たちはお互いを認識し、尊敬することに困難を抱えています。神の諸側面と、神が分け与えるカリスマを認識することが困難になっているのです。これらが、私たちが待望し、達成するべき義務である和解と癒やしを覆い隠しています。

私たちの汚れたプライド、誤解、内部あるいは外部との統合の不足、それらを超えて、とりわけ私たちの和解と一致を妨げるものは何でしょうか?

ここには、打ち勝つべき霊的かつ形而上学的な闘いがあるのです。

●合理主義の霊

私たちの創造主と共にいることによって、自分たちの安全と至福を見いだすということは、単にそう望めばよいという問題ではありません。私たちの道に立ち塞がる障壁があるのです。

私たちと教会を脱線させる根本的な霊的障壁の一つとは、私たちが遭遇する敵対であり、その最も効果的な表出とは合理主義の霊であることを、メッセージは私たちに非常にはっきりと示しています。

合理主義は特に、賢く有能である人々に訴えます。それは私たちに、自分は精神的に支配しており、支配することを好むという錯覚を与えます。しかしそれは唯物主義の知的形態なのです。それは霊的な世界の現実と、天の御国のありのままの地理を不明瞭にします。それは御国の真実を異なる形にねじ曲げてしまうのです。

メッセージは私たちの敵の戦略について厳しく警告し、告発しています。

「時代よ、あなたたちは眠っているうちに、私の敵に捕らわれ、催眠術にかけられてしまった。サタンの偽りに囲まれて、あなたたちは催眠術にかかり、記憶は薄れ、忘却の闇に陥ってしまった」(1994年7月22日)

教会のあまりに多くの人々が、聖書と伝統の鏡を取り上げ、自分たちがどれほど周囲を取り巻く文化に降伏してきたかを計るかわりに、社会的な欲望を正当化し、私たちの退廃した文化の形状、この文化が優先する事柄に従い始めました。

知識を追い求め、文化に賛同する聖職者たちのどれほど多くが、神に忠実であるよりもむしろ、世俗的な知的自尊心と文化への賛同が支持されるように追求することの犠牲となったのでしょうか。どれほど多くが、神学校や大学でこの100年間権勢を振るってきた合理主義的な神学──それは奇跡的な事柄や形而上学的な事柄をはぎ取り、信仰を社会活動の霊性に格下げしてしまう──をうのみにしてきたのでしょうか?

私たちはメッセージで警告されています。

「あなたの時代には、私のしもべの中でもほんの一握りだけが、私への忠実に留まり、聖書を教えるべきように教えるが、多くが不忠実によって私を裏切り、合理主義に陥ると言われている。この合理主義は私の教会を砂漠とし、その奥にまむしが巣くう廃墟としてしまう。

サタンの発する煙はこの時代に、霧のように、鍵穴やちょうつがいを通して浸透して行く。その煙は死に至らしめるものであるゆえ、あなたには犠牲と祈りを倍に増やすようにと心から頼む、私を愛する者たちによって、非常に多くの償いがなされなければならない。サタンは怒りにまかせ、教会に対して、その働きを倍にした。

私の子よ、私はあなたたち皆を呼んでいる、あなたたち一人ひとりを探し求めている、その心に入るのを許してもらいたい、そうしたなら、一人ひとりを癒やそう」(1988年9月27日)

しかし私たちの主は、主の利益のために私たちが対峙するものをはっきりと分析しておられます。

「教会の最大の敵は合理主義と近代主義である。ともに無神論へとつながる。どちらも地球全体を飲み込もうと欲している。しかし、私の娘よ、私はこれらの裏切り者たちに、火の息を吹きかけよう。そしてひとたび目からうろこが落ちたなら、自分たちがいかに大きな混乱を招き、私たち二つの御心を虐げてきたかを見ることができるようになるだろう」(1992年1月31日)

そして私たちの敵に打ち勝つための対策です。

「私のうちのまことに生きるとは、何を意味するかを教えた。しばしば祈り、聖なるロザリオを毎日唱えなさい。なぜならこの小さな鎖がサタンをつなぎ、征服する鎖となるのだから! 私の平和を与える、決して疑わないように、『私たち、共に』?」(1988年11月16日)

「あなたに言う、あなた自身の霊魂と他の者たちの霊魂を聖化するために、絶え間なく祈りなさい。心を込めて祈り、悪霊が逃げ出すようにしなさい。私と一致するなら誰も、何物も、あなたと私の間に入ってくることはない。これ以上ちゅうちょしてはならない時が来た」(1992年7月7日)

私たちは何をするように召されているのでしょうか? 神の神格との深い一致です。大昔、ポントスのエウァグリオスは、私たちが召されている道は浄化、光を照らすこと、そして一致だと説明しました。最初の二つを説明するのは難しくありませんが、一致を説明するのは困難です。このために私たちはメッセージに頼るのです。

私たちはメッセージによって、新しいいのち、新しい飢え渇き、新しくされた巡礼へと呼び覚まされます。私たちを見つけ出して解放するために御子を送られ、聖霊の力によって私たちを家へと運んでくださる、御父からのメッセージによって。『神のうちのまこと のいのち』のメッセージに私たちの関心と心を向けましょう。このメッセージは、神的な愛を経験する中で、私たちが何に呼ばれているのかを思い出させます。この神的な愛が、私たちを神格における一致へと共に結び付けるのです。

「──さあ、私を求める者、私の周りに群がる者たちは皆、来なさい。天の貯水池から流れてくるこのしょうを聴きなさい……

私を抱擁する者は幸い、私はその人を、私たちの一致のうちに強めよう……今日、私はいと高き天から一歩踏み出て、あなたたちを呼んでいる、私と一つにするために。あなたたちに私自身を与える、あなたたちが私の偉大さと神性を見いだすために。それは造り主と被造物との超自然的な一致。あなたたちの王であり花婿である者が、あなたたちを自身との婚姻へと招いている。まさに黄金の天幕から足を踏み出す花婿のように、恵み深く、太陽のように輝き、自身の光のうちにきらめきながら、私は天から一歩踏み出し、あなたたちを私の胸へと、そして愛である私の心の黄金の寝所に招くために。

あなたたち、私の神的な愛の深さを知らず、私の心があなたたちの婚姻の寝所であることを知らなかった者たちよ、来て、私の言語を学びなさい……私の甘美さを味わうようにと、あなたたちの繊細な魂を招いている。私の望みとは、加えて言うなら私の渇望とは、あなたたちを救い、あなたたちが属している天国に引き上げることだ」(2003年2月3日)