2019年ギリシャ巡礼 ヴァスーラのスピーチ1

誕生の時、私たちの心は、神の崇高な愛によって造られました。私たちがこの神的な愛を神に返すことができるようにと。私たちの心は初めから、光であられる神の現存によってのみ満たされています。それは完全です。私たちの心は、そのような言葉に尽くしがたい方法で造られました。なぜなら、心の中に神の崇高な愛と、甘美さと、神の現存を保持することを可能とする必要があるからです。残念ながら、時間が経って私たちが成長するにつれ、茨ととげが育ち始め、心を突き刺すまでに至ります。そして心は、穴の開いたタンクのように中身を失いはじめ、その中にあった神の愛と神の現存を失い始めます。茨とは世の心配ごとであり、罪であり、富への誘惑であり、心に穴を空けて、いのちを与える泉を干上がらせます。

そのようにして私たちは、あらゆる善の源である神から遠ざかり始めます。神の恵みにあずかろうと、真剣に心から取り組む者は誰でも、この世に対して冷静さを保ち、彼らの心の中に初めからあった崇高な中身を失うことがありません。

神は、この時の終わりにおいて、非常に多くのしるしをもってご自身をはっきり現しておられ、私たちを神性へと呼ばれ、神が私たちを愛しておられるほどに神を愛するように呼ばれています。神は私たちに、同じだけの愛を求めておられます。愛への愛。同じだけの愛は死を滅ぼします。愛は死にません。愛は私たちに、神がどなたであられるかを分からせ、いと高き方であることを理解させます。

問題は、どうすれば、神が私たちを愛しておられるほどに神を愛することができるのかという点です。神は愛そのものであられます。神が私たちに持っておられる愛に対して、私たちの側から同じ愛を返すことはできません。なぜなら、神は愛の無限の大洋であられるからです。それゆえ、私たちは恵みに依り頼む必要があります──神に不可能はないからです。なぜなら、天地を超越する聖なる方は、私たちが神の恵みを通して神的な愛へと到達できるように、肉的な感情や誘惑から私たちを解放し、それらに死をもたらし、悪い行いを滅ぼし、香り高い光と置きかえるように、助けてくださることがおできになるからです。絶対的な存在であられる神は、次に、神を崇めたいという熱望、生命であられる神のうちにいつまでも生きたいという熱望、香り高い光によって飾られたいという熱望、神の残り香を吸い込み続け、神の愛の炎を私たちのうちに保ちたいという熱望を、私たちのうちに注ぎ入れられます。このような近さにあって、私たちは必ずや神に接ぎ木されるでしょう。

神と過ごす生き方とは、実に、神を観想しながら生きるということであり、知性や理解を超越する言葉を超えた祝福を受けるということであり、その結果、この地上の喜びは単にその価値を失います。なぜならその代わりに、全能なるお方が私たちをいのちの水で満たし、第三の天へと引き上げてくださるからです。楽園は今でさえも、神と結び付けられています。ですから、私たちは神に浸されて、神のご意志を行うために、絶え間なく私たち自身を差し出したいというただ一つの熱望だけを持つようになります。その一方で、神もご自身を私たちに絶え間なくお与えになるでしょう。

問題はこうです。私たちは皆、姿形、皮膚の色、伝統や信条、文化が違っているとしても、一つの源である神から来ています。これを理解するのはそんなに難しいことでしょうか? 私たちの中で息づき、すべての存在の中で息づく、生命の息であられるお方がどなたであるのか、私たちが簡単に忘れてしまうのはどういうことなのでしょうか?

私たちは、人間は平和と調和のうちに生きることができ、お互いに和解することができるということを他の人々に示す一例にならなければなりません。私たちは憐れみ深くあり、ゆるすことを学ばなければなりません。私たちはお互いに、真に一致し、和解することができるでしょうか? はい! 私たちは一致することができます。自分たちの神的な起源を思い出すことによって、

愛することを学ぶ限り

そしてイエスが使徒たちに言われたことを思い出すことによって。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(ヨハネ13・34─35)のです。

私たちは不純さのかけらもなく、偏見のかけらもなく、報復のかけらもなく、憎しみのかけらもない神の写しとなることを、自分自身に思い出させなければなりません。

このようにして、慈愛によって互いに結ばれ、私たちは一致を生き、心と魂の平和のうちに共に暮らすることができるようになるでしょう…… 聖パウロは愛と平和についてこう言っています。「愛はあなたたち皆を完全な一致のうちに互いに結びつけます」(コロサイ3・14)。

ですから、私たちが自分の自由意志を神に明け渡した後、神は私たちを、その神的な愛と完全に一致させることができるようになります。私たちを孝愛へと、神との一致へと導くことができるのは神だけです。それは、神が私たちをもっと受け取るために、私たちがもっと神を受け取ることができるようにし、私たちが神にもっと自分を差し出すために、神がご自身をもっと私たちに与えるように、私たちの心を大きく広げることによってなされます。この循環によって、私たちはすでに神に属しているものをすべて神に差し出すでしょう。

神の愛は基本的な善徳です。なぜなら、他のすべての善徳は愛から芽生えるからです。愛とは、真理のうちに生きるということです。愛の賜物が大きいほど、私たちの神への知識も完全になります。神への愛が熱烈であるほど、私たちの祈りも熱烈になります。私たちの愛が完全であるほど、私たちの生き方も聖となります……

神に包まれて、私たちの思いと行いはみな神的なものになっていきます。これ以降、私たちの輝く存在全体と魂は、神によって活気づけられるでしょう。これは私たちの、神のうちでの新しい生き方の始まりとなるのです。私たちは神の愛によって満ち足りるでしょう…… そして私たちの心が神のためだけに生きるように征服された後、神は私たちの愛、祝福の象徴を増やし続けられるでしょう。神との完全な一致の象徴。私たちがいのちを味わったことの象徴です。

そこで全能なるお方は、私たちの詩編の一節となられ、私たちの目に黄金に輝く太陽の光、私たちが触れることのできる婚姻の衣装、私たちの安らぎと休息となられます。神は私たちの親しい同伴者となり、私たちの魂の香り高いそよ風となられます(1991年6月17日)。

「来なさい! この荒れ野でいまだにさまよい、『私はあがない主を探し求めたが、見つからなかった』と、言っている者たちよ。愛する者たち、清い心で、利己心を捨てて私を愛し、私を見つけなさい。聖性のうちに、私が求める自己放棄のうちに、私を見つけなさい。私の掟を守ることによって、私を見つけなさい。悪を愛に置き換えて私を見つけなさい。素朴な心で私を見つけなさい。もう罪を犯してはならない。悪を行うのをやめ、善を行うことを学ぶように。正義を探し求め、虐げられている人びとを助けなさい。この荒れ野と不毛の地を歓喜させなさい。あなたの生ぬるさに火を付けて、燃えさかる炎としなさい。無関心を捨てて、熱意に置き換えるように。これらのことをすべて行いなさい。あなたたちがこう言えるようになるために。『私はあがない主を探し求め、そのお方を見いだした。そのお方はいつもそばにおられたのに、自分の闇が邪魔をしてそのお方が見えなかった。ああ、神に栄光! 私たちの主は祝福されますように! これほどまでに盲目だったとは!』そして私は、あなたが生きることができるように、私の指針を守り、宝のように尊ぶことを思い起こさせる……」(1989年7月8日)

このメッセージは、罪は私たちが神の現存を感じることを阻害するという洞察を与えます。ですから悔い改めを通してのみ、人は生まれ変わり、神を見ることができるのです……

次の言葉によって、私のスピーチの結論としたいと思います。神のおられる所には愛と憐れみと平和があります。終わりには、神のために生きる人は神と共に永遠に生きるのです。神はこの人を不滅の輝きで覆ってくださるでしょう……