Hさんのケース

2009年3月17日

今日私たちは、小さいけれども、一人の人生を変えた神の御業の現場に立ち会うことができて、大きな喜びに包まれながら帰宅しました。

月曜日の私たちベス・ミリアムの炊き出しに、かなり早い時期、まだ代々木公園でやっていた2年くらい前の頃から、Hさん(64歳、昭和21年生)という一人の車椅子の方が来ていました。話しかけても自分のことをあまり語ろうとはせず、話した内容からも、なにか複雑な事情を抱えているように思えて、あえて私たちは彼のプライバシーに立ち入ろうとはしませんでした。彼に何か助けが必要だったとしても、これはもう福祉や行政の問題に関わる話です。素人がカレーを作り配っているだけの私たちに、Hさんの問題を解決できるようなノウハウもなければ、責任を持って寄り添うこともできそうにありませんでした。私たちはこうして、もう2年の間、ただ見守りながら、週一回やって来る彼にカレーを配り、挨拶をするだけに終わっていました。

しかし、よく考えてみるとおかしな話です。Hさんは見るからに第一級障害者、左半身が完全に麻痺しており、自分の手では入浴もできず、トイレも車椅子用のトイレでなければ用が足せません。自力で仕事をしてお金を稼ぐことなど不可能、家族もありません。ここはバングラデシュではなく日本です。本来ならばしかるべき施設に入り、定期的な介護ヘルパーの訪問を受け、生活の世話を受ける権利が十分に保証されているはずです。その彼が何故路上で暮らし、いわば二重苦の生活を続けているのでしょうか? Hさんは、炊き出しのカレー一杯を食べるために、新宿から四谷までの4.2キロの距離を、麻痺していない右腕だけで車椅子を回して、2時間半かけてやって来るのです(中央線に乗れば一駅、150円で5分です)。雨の日も、寒い日も、酷暑の日も。車椅子を押してくれる介護ヘルパーはいません。もちろん、他の日には、他の炊き出しに行って食いつなぎ、生き延びるわけです。一体Hさんが今までどうやって生きて来れたのか、よく考えてみると不思議でしかたありません。

彼の状況を奇異に思い、彼によく事情を聞こうと一歩踏みこんだのは私たちのヨキエル神父でした。どう考えてもHさんは行政の保護を受けてしかるべきでした。先々週から私たちは、知識ゼロの状態で、東京都A区とB区の福祉部門と生活保護の窓口に当たりはじめました。そしてわかったのは次のようなことです。Hさんは以前に障害者年金と生活保護を受けており受給資格があること。数年前よりその受給を受けていないため、数百万におよぶお金が支払われないまま貯まっていること。しかし住所を設定できないとその受給も受けられず、さまざまな公的なケアを受ける手続きがとれないこと。そして住所となる車椅子の人が入れるような施設は都内では空きがなかなか見つけられないこと。Hさんは過去に施設を無断で出てきてしまった経歴があること※。そして結論として、資格はあるが東京では無理だから、横浜へ連れて行ってドヤ(簡易宿泊所)へ入れ、そこを一時的に住所にして手続きを取れということでした。A区に至っては、Hさんが過去に何度か窓口を訪ねてもほぼ門前払いで、Hさんはそのために気力を失い、社会復帰をあきらめてしまっていました。私たちが電話で問い合わた時も、区内に居住の実態があっても、A区では何もできないといった答えでした。

※Hさんは、ホームレスにありがちなアル中や問題行動を繰り返すタイプではなく、この件も、口べたで自分の主張をちゃんと伝えることができない不器用さが原因であることがわかりました。

3月9日月曜、私たちはHさんを横浜の寿町の簡易宿泊所に連れて行き、そこにしばらく宿泊した実績を作りました※。一週間程度では、役所は生活保護の手続きを認めてくれないだろう、一ヶ月くらいの滞在が必要だと寿町の出張所の役人がアドバイスしたようですが、私たちはそうしょっちゅう横浜まで来れるわけではありません。イチかバチか今日(3月16日)勝負に出ようと思い、横浜市C区役所に彼を連れて行き、神父とともに掛け合いました。そしてヴァスーラがしたように、守護の天使に祈り、役所の人たちの天使と掛け合って彼を受け入れてくれるようにと祈りました。

※費用は、皆さんからいただいている献金から出ています。

すると、話を聞いた区役所の担当者は、東京都A区とB区の対応に激怒しながらこう言いました。「たしかにHさんには過去に問題行動があったかもしれないが、第一級障害者を路上生活に何年も留めたままたらい回しにし、東京では面倒は見ない、横浜で面倒を見てもらえと言ってくるとは何事か。まして予算が潤沢なA区に至っては完全に門前払いとは考えられない。」憤慨した担当者が東京のA区とB区に電話をかけ、激しい調子で相手に抗議しているのが聞こえました。そしてこの担当者は上司に掛け合い、上司は的確に判断しました。彼をC区で扱うことを認め、本来ならばその時間帯には終了していた一時金の貸付(年金の支給には時間がかかるため、それまでの宿泊費、生活費、医療費を現金で貸し付ける)を例外的に時間外でも行うように経理部に要請し、今日出来うるすべての手続きがその場で終わるように取りはからってくれました。そしてその後面会した福祉担当者のなんと親切だったこと! Hさんは一瞬にして地獄から天国に移動したようでした。

私たちが手助けしたことによって、Hさんは完全にあきらめていた社会復帰、障害者としての当然あるべき普通の暮らしを、6年に及ぶ路上生活の末、今日得たのです。「ふとんで寝れるというのは天国です。おかげで身体の調子が良くなったようです。」「私は今感謝の気持ちでいっぱいです。近くに教会があるので、神様にお礼の気持ちを祈りにいきます」もし私たちが何もせずにいたら、彼はまだこの先何年も、路上で困難な生活を続けていたかもしれません。その困難さは想像を絶するものです。帰り道で神父と私たちはずっとそれについて語り合い、神が救いの手を差し伸べてくださったことに喜びました。

私たちはここで行政を批判する意図はありません。それよりも、私たちのたった週一日の活動の中から、初めての社会復帰者が出たことを喜び、Hさんが神の御業を信じてその栄光を讃えたこと、私たちが目に見える神の救いの御業に参加できた喜びを分かち合いたく、当日のうちにこのレポートを書いています。どうぞHさんの今後のために、そして路上で暮らす人々のために、お祈りいただけると幸いです。