03.シモン・アタラー名誉司教(レバノン、マロン典礼カトリック)

神のあわれみと愛は世界の文化を発達させ、その一致を築く

ヴァスーラ・リデン夫人の寛大なご招待により、私たちは今回のエジプト巡礼に乗り出そうとしています。この巡礼はエジプトの古代文明を探求し、植民地支配の抑圧から逃れた聖家族に特別な避難所を提供した、エジプト独特の聖書的な霊性を探求することを目的としています。これによって、ベツレヘムで支配者の御子を育てるのに必要な時間が与えられ、天の御父の計画、神の普遍的な救いのご計画における使命を果たすことができたのです。またこの巡礼は、上エジプトから紅海まで、シナイの砂漠からその聖なる山までの、エジプトの修道院を訪れることを目的としています。これらの修道院は、コプト(エジプト)教会に足跡を残した古代の修道院で、福音的な修道生活が特徴です。使徒によって建てられたアンティオキア─シリア諸教会、特にマロン派教会に似ています。

救い主であるイエスは、天の御父の業を担い、それを示されました。それは福音の原則に従い、悔い改めの実践を基礎として、御父の救いの計画に普遍的な次元と普遍的な教会性を与えるためでした。福音のモットーは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」「主の道を整え、主の道をまっすぐにせよ」(マタイ3・2、イザヤ40・3)というものです。神の愛が注がれたこの良い知らせは、子どもたち、天の父の象りとして、神に似せて造られたにもかかわらず、悪の奴隷となり、死の暗闇の中に座っている子どもたちに対する天の父のあわれみを呼び起こすように、その担い手を強いるものでした。

そうです、イエス、彼だけが、全人類に対する天の父の愛を体現することができるのです。イエスは世の罪を背負って、謙遜な子羊の姿で来られ、子羊のように屠り場に導かれ、口を開きませんでした(イザヤ53・7─9)。愛する者たちの身代金として命を捧げるほどに愛されたからです(マタイ20・28)。神は「愛する者たちが自由に生きることができるように、自分を完全に捧げる学校」を開かれたのです。イエス・キリストが成し遂げられたこの贖いは、人間の解放の完全なプロセスであり、あわれみ、愛、真理によってのみ実現できるプロセスです(2009年に発表された故教皇ベネディクト十六世の『真理に根ざした愛』と題された回勅を参照)。定められた時が完全に訪れた時、天の父のあわれみは、人々の苦しみに耐えることがもはやおできになりませんでした。人々は、悪魔に占領された王国の暗闇の中で植民地化され、なぜこのように待たされるのか、なぜこのような罰を受けるのかわからないでいたのです。そこで「光が明けた、喜べ、地と天よ、夜は追い払われ、我々は光の中に出てきた」(ミシェル・ハイエク補佐主教、シリアの聖エフレムの『光の賛歌』に触発されて)。

シリアのアラマイ語の伝統に立ち返るなら、愛(l’amour ラムール)とあわれみ(La Miséricorde ラ・ミゼリコルデ)は同じ起源を共有していることがわかるでしょう。それはアラマイ語で「愛すること」を意味する「レヘム(子宮)」です。この動詞は、絡み合い、補完し合う二つの真理を包含します。愛が神聖なもの、教会の秘跡の中の秘跡、神の神秘の一つとなるまで、それぞれが互いを清め、聖化します。使徒パウロが、結婚の床は聖なるものであり(ヘブライ13・4)、婚姻以外のいかなる関係も汚れたものであると宣言したのはこのためです。愛は人間の心に宿るものであり、心はアラム語で物事の核心、人間の核心、本質、基盤です。一方、あわれみは子宮の中、最も深いところに存在します。ギリシャ人はそれを「エロス」と呼んだと私は信じています。なぜなら、それは解放され、救済され、あわれみを受け、洗礼を受けるべき自己愛的な次元を含んでいるからです。洗礼はそれを受ける者を解放し、光へと、真理へと導きます。そして利己主義や欲望、暗闇から解放された、三位一体に似た家族の確立へと導きます。それゆえ、結婚において、愛は相手に生命を与えるために、その持ち主を死なせます。自己犠牲を通して、婚姻の秘跡の中で、私たちは生命を交換し、自由に生きます。このようにして、あわれみ──すなわち神のあわれみと神の愛が私たちをひとつに集め、真実に神を礼拝し、道であり、真理であり、命であるお方を信じて忍耐するのです(ヨハネ14・6)。これに基づいて、愛を聖別し、自由なあわれみを築くことを目的とした浄化のプロセスは、人間社会の基盤である家庭を築き、人間としての人格を確立し、平和と幸福のうちに生きることを望む人間の成熟につながります。これが創造主の御心であり、すべての人間がいのちを得、喜びと豊かさのうちに生き、いのちを豊かに受けるためなのです(ヨハネ10:10)。

現代の生活の現実から抽出されたもうひとつの「言葉」、「現代世界」では、愛が枯渇してしまったかのように見えます。この現代世界において、私は愛とあわれみという絡み合った二つの真理への裏切りを中心にして展開している状況について考えます。この裏切りとは、あらゆるレベルにおける二つの基本的な要素、自由と成熟の喪失を中心に置いています。この二つは、人々の間に正義と平和を広め、彼らに生命を与え、安心と幸福、喜びをもって生きることができるようにするために必要なものです。この 「(現代世界という)言葉」は、私たちの世界が経験している人道的・社会的危機を中心に展開しています。この言葉はその真正性、アイデンティティ、人生と未来に対する正しい視点への回帰を求めています。そして正義が勝利し、人々が人生に満足を見出すために必要な変革のプロセスへと社会の成員を導きます。そうです、危機は、過去よりもより良く、より完璧になると期待される未来への道筋において、あらゆる逸脱やあらゆる損失を修正する有効な手段となることができ、実際にそうなのです。

この危機を見極めるプロセス、あるいは危機全般を見極めるプロセスは、万物は宇宙の創造主からの無償の贈り物であり、すべてが恵みであるという原則の前に私たちを置きます。これらの危機は至る所に蔓延しており、これらを見極めることは、あらゆる人間の人格を形成します。なぜならそれは一致のカリスマという光に基づいており、望まれている要求に基づいているからです。このプロセスは、一方では福音の精神に忠実であるという問題に取り組み、他方では、真理、善、美の道へと人々を導く受肉者であるキリストをまだ知らないかもしれない、社会の合理性の論理に取り組むという積極的な挑戦です。それゆえ、福音に対する「裏切り」、民族の歴史と本性に対する「裏切り」に陥らないためには、福音を広める責任と、まだ存続している国々の合理性に対する責任が不可欠です。私たちはこの合理性を、自然の原理とその価値によって誠実に尊重します。

このように誠実な責任を持つことは、自然と福音の側面を持ち、ダイナミックで創造的でなければありえません。その究極の目的は、人間社会を進歩的に発展させることであり、それは、ある文化から別の文化へ、ある伝統や遺産から別の伝統へと移行する過程で必要になってきたことです。聖書にあるように(創世記1・9、18、20他)、すべてが善であるように、より良く、より完全であるように努力することが常に求められています。

ある現実から別の現実へと移行するプロセスには、変化をもたらす責任というプロセスが伴わなければなりません。それには、多くの分野における人間的な弱点を含め、さまざまな形での私たちの限界を認識することが必要です。私たちの限界は、望まれる正しい変化のプロセスを妨げる可能性があるため、私たちは幅広い共同の識別プロセスに同意しなければなりません。これによって、変革は病的な無関心や混沌とした無責任さとは程遠い、愛とあわれみの領域にとどまることができるのです。

この変化のプロセスは、どんな建設的なプロセスも評価しないという挑戦的な態度や、無関心な態度にしばしば遭遇します。それは勇気を必要とし、変化をもたらし、支持者や擁護者に、ちりぢりになった世界を抱擁し、傷ついた人類の叫びに愛情深く耳を傾けるように後押しします。このプロセスは、愛をもって身をかがめ、あわれみをもってその深い傷を手当てする者を求めています(ルカ10・25─37、善きサマリア人のたとえを参照)。私たちの世界は父性と母性を必要としています。世界を孤児にしたまま、橋の下で犬や猫と一緒に暮らそうとする「路上の子どもたち」の仲間入りをするのを放置していてはなりません(ルカ15・11-32、放蕩息子のたとえを参照)。

さらに、ここで求められているあわれみは、あわれみと愛を示す者たちに、象牙の塔から「一歩踏み出し」、愛とあわれみの論理に導かれながら、変革に必要なすべての条件を備えることを余儀なくさせます。特に、私たちの自発的な行動が効果的であり、私たちの一歩一歩がしっかりと地に足のついたものであるために、いくつかのレベルで必要とされる準備においてです。私たちはその複雑さに溺れるべきではありません。そうではなく、溺れかけているすべての魂を救い出すようにしましょう。誰かが兄弟愛とあわれみの手を差し伸べて、自分の傷に油を注ぎ、ろばに乗せ、宿屋に連れて行って、介抱してくれるのを待っている魂たちを(ルカ10・33b-34)。

ここで必要とされている意識的な勇気、象牙の塔から一歩踏み出すということは、洗礼の誓いに取り組み、自然的諸価値に責任を持つという論理に適合します。そしてこの世の道筋に沿って、死の陰の中にいる人々に手を差し伸べることを可能にします。私たちは、愛とあわれみに飢え、一致のカリスマと一致の賜物を渇望する今日の世界の課題に応え、具体的な愛の行為を通して彼らと関わらなければなりません。この具体的な行為は、人類の歴史への神の介入の延長なのです。この介入は、人間、すべての人間のために身代金としてご自身の命を捧げられた救い主である御子を通して示された神の愛によってなされました。これによって、人間が父である神をまことに礼拝し、あらゆる堕落した反逆や悪意ある反対から人間を解放することができるのです。これは、彼らをこの世の歪んだ道から遠ざけます。そうです、神は、この世界の預言者たちが断言しているように、人類の歴史に現れ、現れ続けておられるのです。それは、私たちに新しいものを与えるのではなく、新しい言葉で語り、神の言葉が過ぎ去ることがないことを私たちに思い出させるためなのです(ルカ21・33、ヴァスーラ・リデンの2005年、ヨーロッパでのスピーチを参照)。

聖ノフラ修道院にて
ファトカ、レバノン 2023年8月25日

シモン・アタラー名誉司教 OAM