17. リア・アボ・エル・アサル主教(イスラエル、聖公会)

神のあわれみは、神を礼拝し、賛美するために、私たちを一致のうちに結び付ける

平和、サラームをもって、皆さんにご挨拶することから始めさせてください。平和こそ、最も必要とされ、望まれているものです。あらゆる理解を超える神の平和が、皆さんの心と思いを、神とその御子イエス・キリストの知識と愛のうちに保つように祈ります。

私たちの誰もが、「被造物がすべてうめいている(ローマ8・22)」という聖パウロの言葉に同意するに違いありません!! 世界は燃えています。真実は隠され、正義は失われ、平和は見つかりません。私たちは神に向かうよりむしろ、宗教に向かいます。宗教の名の下に、多くの危害が加えられてきましたし、今も加えられています。宗教は一致させるどころか、分裂させています。

人々が宗教にうんざりしているのはなぜでしょうか?

今回のテーマについて考えていると、ジョン・ニューマンの歌の言葉が浮かんできます。

導きたまえ、やさしい光よ、私を囲む暗やみの中で
先へ導きたまえ
夜は暗く、家路は遠い
先へ導きたまえ
この足を支えたまえ、私が見たいのは
遠くのものじゃない。私には一歩で十分

(Lead, Kindly Light「導きたまえ、やさしい光よ」)

神を礼拝し、賛美するために一致することを私たちが真剣に考えるなら、その一歩を踏み出す必要があります。

友達とかくれんぼをして遊んでいたある男の子の話があります。彼がまだ隠れていたのに、友だちはどういうわけか、遊ぶのをやめてしまいました。男の子は泣き出してしまいました。何が起こったのか知るために急いで駆けつけた祖父が、男の子に言いました。人生とはいつも、神と私たちの間のかくれんぼのようなものだ。私たちが公平にゲームをしていないので、泣いているのは神の方ではないか? 神は見つけてくれるのを待っています。ここにいる全員が、そして私たちが代表するすべての人々が神を探し求め、神を、神だけを見つけたとき、私たちは他に崇拝し、賛美するものはなくなってしまうでしょう。

私たちは自分、自分、自分の考え方からシフトし、「私たちで共に」に焦点を合わせる必要があります。あわれみの要素がなければ、探求は私たちをあらゆる場所や偶像に導くかもしれません。主の「善いサマリア人」(ルカによる福音10・25-37)のたとえ話ほど、あわれみの本質についてはっきりと私たちに示されるところは他にありません。

このたとえ話の中で、イエスは三つのグループの人々を紹介しています。

1.人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま道の脇に置き去りにした強盗。「お前のものは俺のもの」という教義を持つ人々。

2. たまたま通りかかり、道の向こう側を通って行ってしまった祭司。「自分のものは自分のもの」という教義を持つ者たち。

3. 情けをかけ、介抱した思いやり深いサマリア人。このグループの教義は、「私のものはあなたのもの」。

私たちへの神の呼びかけは単純で、あわれみを示すこと、思いやりを持つこと、ゆるし、忘れること、排除するよりも仲間に入れること、相手の中にある違いを認め、感謝すること、そして何よりも、神が私たちを愛してくださるように愛することなのです。
「神のうちの真のいのち」を生きようとしている皆さん、「アーメン」と言ってくださいますか。