ノート16のメッセージ

私は全能 ― 私はある

1987年10月12日 ノート16

(ある方を訪問した際、一冊の科学雑誌を見つけました。それは思考を科学的に解明することを奨励していて、どのような霊的な働きにも反対するものでした。最近では、どのような超自然的な事柄にも「自然的な」説明がなされます。二重人格、ESP(超感覚的知覚)、潜在意識、思考の暗示、催眠状態、あるいは集団催眠、あるいは自己暗示といった言葉によってです。例えばせいこん1関しては、自己暗示として説明できます、つまり、自己強制、統合失調症、あるいは性的コンプレックスによるものだと。人は常に論理的な説明を探したがるようです。今の時代には、イザヤのような大預言者は出なかったでしょう。なぜならこういう人たちのケースも、自然科学のデータファイルに入れられてしまうでしょうから。せいこんを受けた聖人たちは一人残らず、統合失調症、あるいは自己暗示やヒステリーによって自己誘発されたケースとして分類されてしまうことでしょう。私には、まるで人間が神と競争し、神に向かって、あなたは全能ではないと証明しようとしているかのように見えます。)

ああ、神よ、どうしてなのでしょう?

ヴァスーラ、私を信じない人々は無数にいる。

でも、主よ、一つお願いがあります。本気でお願いします。どうかあなたの存在を消し去ろうとする、このような理論や教えを全部打ち砕いてください。あなたの敵です。なぜそれらが増えるままにしておかれるのですか? 打ち砕いてください。そうしなければ、私たちの信仰が壊されてしまいます。どうかそうなさってください2

そうする。聞きなさい、嘆き悲しまないように、決して疑ってはならない、信仰を持ちなさい。書くことに決して疲れないように、愛する者よ。私が来たのはこのためである。あなたが失われるのを見ていられないからだ。もう分かっただろうか、ヴァスーラ。小さな子よ、あなたが倒れるのを見ることは決してない。

他の人たちはどうなのでしょう? 他の人たちが倒れるのも見たくありません。私と同じほどに、彼らのことも支えてくださるよう強く望みます。

ヴァスーラ、私はあなたたち皆を助ける。

(神は喜んでおられるようでした。)

ああ、神よ、あなたにこういったことを要求してしまった私をおゆるしください。衝動的でした。けれども、不正を我慢できません。はっきり言い過ぎてしまう私をおゆるしください。

ゆるそう、子よ。言いなさい。

(私の頭の中には別のこともありました。)

今のままでは、こういう人々は死ぬまで納得せず、せいぜい「説明不可」という項目のファイルに納めてしまうだけで、「そうか、それなら、この件やあの件は、神がなさったのだ」と言うことはないでしょう。

私が彼らを納得させよう。私の力は彼らの力を超えている、私が全能であることをあなたたち皆に示そう。あなたたちがどこにいようとも、私の全能を見て取れるであろう。どの目も否定できず、どの人間もこのしるしが私からのものであることを否定しないであろう3。愛する者よ、その時、彼らの理論は一体どのように映るだろうか4? 彼らの科学者たちはどう感じるだろうか? この者たちの知恵のすべてに一体何が起こるのか? 私の知恵の前では、彼らの知恵がどのように映るのかを彼らに示そう。
彼らが知恵だと信じているものを、私はこの世から消し去る。これが、私の計画を予告するためにあなたを用いて、あなたに私の言葉を刻みつけている理由の一つだ。主である私は、今あり、かつてあり、やがて来る者、私が存在しないなどという判断は、あなたたちに委ねられるのではない。「私はある」。

ああ、私のあがめる、愛する神よ、そのご計画がまさに今、今日、あるいは来週にも実現すればいいのに!

私の計画を実現させる、ヴァスーラ、私が始めたことはすべて、いつも実現させてきたように。
小さな子よ、共に祈ろう、

「愛する御父よ、
あなたを愛し、祝福します、
あなたのあわれみに感謝します、
私を十分にお使いいただけますよう、
あなたにふさわしい者にしてください、
お望みのままにお使いください、
愛しています、
アーメン」。

愛する者よ、あなたを祝福する。私を見なさい。

(見ました。)

ほほ笑んでいらっしゃいますね5

それを書きなさい。

そして、ほほ笑まれるとき、えくぼをお見せになります。

あなたを愛している。

主よ、愛しています。

御母を敬い尊びなさい

1987年10月10日 ノート16

イエス様?

私だ。

ああ、イエス様、キリスト者たちが信じていないなんて全く知りませんでした。マリア様への崇敬のことです、彼らが聖母についてどう感じているか、全く知らなかったのです。キリスト者たちの間にこれほど大きな違いがあるとは、全く知りませんでした。こんなにひどいとは、思ってもいませんでした。

ああ、ヴァスーラ、それはあなたが思っているよりもずっとひどい!

ああ、イエス様、どうしてそんなにひどいのでしょう?

なぜなら、ヴァスーラ、それは私の体がばらばらに引き裂かれているからだ。私の体が一つであってほしい!

一つになれば、聖母は崇敬されるのでしょうか?

子よ、そうなる。

「そうなる」ということは、彼らはそうする、つまり、そのようになるということですか?

私が彼らをかがませ、ひざまずかせよう、彼らは私の母を崇敬し、尊ぶようになるだろう。

はい、イエス様。

小さな子よ、私は私の教会を生き返らせる。
 さあ、私たちで共に?

はい、主よ。

御母は天の元后

1987年10月8日 ノート16

イエス様?

私だ。

イエス様、聖母に対して言われたあらゆる侮辱の言葉を償いたいと望みます。あなたが創造した者たちの口から、聖母に対する侮辱の言葉を聞くのは耐えられません、特に聖職者たちの口から。たとえ自分の首がはねられようとも、私は聖母を守ります。

ヴァスーラ、それらの侮辱の言葉を聞いて、神の愛がどれほど苦しむかを分からせてあげよう。
 ヴァスーラ、主である私が、母を尊んでいることを知らせなさい。私の母を侮辱する人々に知らせなさい、彼女が天の元后であることを、主である私が彼女の頭に冠を、十二の星の冠を据えたことを。愛する者よ、彼女は統治している、そしてそのことは私の言葉の中に書かれている。私は母を尊んでいる、そして私が尊んでいるように、あなたたちも私の母を尊ぶべきである。
 あなたを愛している、私の母と私が、共にあなたを祝福する。

主よ、あの牧師は、聖母が私たちの聖なる御母であられることも、聖母を崇敬するべきことも否定しました。あなたが十字架の上からそうおっしゃったとその牧師に言うと、あなたはヨハネのことだけを指しておられたのであって、聖書のどこにも、彼女が私たちの母でもあるとか、私たちが彼女の子どもであるとは書かれていないと言うのです。

だがもう一度言う、娘よ、私の母は本当にあなたたちの母でもある、あなたたちは彼女の子どもたち、それは私の言葉の中に確かに書かれている、知らない人々のためにもう一度言おう、聖書はこう言っている、

聖書のどこでしょうか、主よ?

ヨハネの黙示録の中で、サタンが私の母の後を追ったが失敗した時、母に対して激しく怒り、彼女の子孫の残りの者たち、すなわち、神のおきてを守り、イエスの証しを守りとおしている者たち皆と戦おうとして出て行った、という箇所だ。

私を助けてくださり、ありがとうございます、主イエスよ。

ヴァスーラ、既に言ってあるが、私はあなたの目の前にいる。私のわざを成し遂げられるように、小さいままでいなさい。あなたを愛している。

愛しています、主よ、あなたを祝福します。

私たちで共に?

はい、主よ。

私の石版となりなさい

1987年10月6日 ノート16

(自分の無力さを感じました。実際そうなのです。無知と理解の遅さのために、神をお喜ばせしていません。こんな自分に不満を感じています。主が私のことを被造物の中で誰よりも「ずば抜けて」みじめだとおっしゃったのも、全くそのとおりです。事の始まりがどうだったかなんて、今はもう絶対言いたくありません。私自身のことを話しているのに気付いたからです。その頃の私は邪悪で、とても醜悪です。けれど、友人や人々はどんなふうに始まったのかを聞きたがり、説明を強いられるのです。そして説明を進めていく中で、自分自身について何かを話す度に、自分への嫌悪感を禁じ得ず、それで、もうこれからはどう始まったかは説明するまいと思うに至りました。そうすれば自分について語るのが避けられます。他の人たちから教えてもらえばいいと思いました。彼らが好奇心を持ったとしても、私がそれを満足させることはもうないでしょう。これを信じて読みたいと思うならば、神御自身がその人たちを照らしてくださるでしょう。私はもう自分自身の証しはしません。すべてを神の御手に委ねます。神は不可能を可能になさるお方、だから、これからはただの神の鉛筆となり、紙となり、秘書となります、神を愛するように教えられ、神のことを書き取る秘書に、神の石板になります。)

そう、私の石板となりなさい、あなたに私の言葉を刻みつけさせなさい。だが柔軟でありなさい、私の言葉を深く刻みつけることができるように。

(我を忘れて床の上に座り込んでいました。主は私を御覧になり、思い出させてくださいました。私はひざまずきました。)

愛している、ヴァスーラ、あなたと私は共に、私の十字架を担っている。
 聞きなさい、あなたは私の魂の愛する者、それをまだ理解していないのか? 感じなさい、あなたの神である私が、どんなにあなたを愛しているかを感じなさい、私の子、心から愛する花嫁よ。

(イエスが私を包み込んでくださっているのを感じました。)

耳を傾けなさい、ヴァスーラ、天全体に私の叫びがとどろいている、私の熱望は揺るぎない、あなたたちの耳に届いたはずだ。柔軟さを熱望している。あなたたちが柔軟でなかったら、どうやって一致できるだろう? 私の教会を一致させたい、私を感じ、私の声に耳を傾けてくれるか?

私の神よ、なぜ教会のトップの方たちにあなたのメッセージをお知らせにならないのですか?

知らせる、娘よ。私の教会を飾りなさい。私を愛しなさい。教会は生き返る!

(イエスのすばらしいお姿を見ました。荘厳で、栄光に満ち、王として勝利を得られた美しいお姿で、御手を上げて指を立て、一つのしるしを作って見せてくださいました。それはまるで、勝利の合図をしておられるかのようでした。)

トリノと聖骸布 私の愛の生けにえとなりなさい

1987年10月5日 ノート16

(聖マリアが求められたとおり、あの牧師の償いのために出かけようと思いました。しばらくして、いとこのイスミニから電話があり、イタリアのトリノに旅行に行くけれど、一緒に行かないかと尋ねられました。かねてから、トリノに行ってせいがいが置かれている大聖堂を訪ねることが私の夢だったので、やっとその時が来たのだと思いました。イエスはまたも私のためにお膳立てをしてくださいました。行きましょう。
 いとこたちは、彼らがよく行くホテルに車で連れて行ってくれました。トリノは広大な町ですが、そのホテルは目的地から五百メートルしか離れていませんでした! イエスが簡単に行けるようにしてくださったのです。私たちは土曜日の昼食時に到着し、少ししてから大聖堂に向かいました。非常に感銘を受けました。大聖堂のドームの中で、上階がせいがいのある所でした。私は大聖堂の中でも最も聖なる場所を見たのだと思いました。そのドームには平和と聖性が行き渡っていました。それを内面で感じました、すばらしいものでした。
 しばらくして、私はホテルに向かいました。いとこが買い物から戻って来たのは夜のことでした。私は自分が行った所のことを話しに急いで行きましたが、いとこの方が私の方に飛んで来るような感じでした。私の話を聞くよりも、自分の話を聞いてほしかったのです。彼女が発見したものが、本当にすばらしいものだったからです。
 彼女は言いました。「ヴァスーラ、私たちはもう十回もあの道を通ったけれど、何年もの間、私はあの道にマリア様のぞうがあるのを見たことは一度もなかったの。しかも、ものすごく大きかった! 三メートルはあったと思うわ。すごくきれいだった。プリーツのたくさん入ったドレスに青いケープを着けていらしたわ。本当に美しくて、両手を広げて、まるで世界を抱きしめたいというようなお姿だった。あなたも行って、あの聖母を見るべきよ。あなたもあそこを通ったでしょう、ぞうを見なかった? マリア様の左右に深紅のサテン生地のカーテンがあって、きらきらしてきれいだったわ」。私は「私もそこを通ったけれど、半分赤で、半分黄色の、よれよれのカーテンしか見なかったわよ」と言いました。彼女もそのぞうには何年も気が付かなかったと言いました。私はぞうは一切見ていません。
 翌日の日曜日、彼女が私に、その巨大なご像を見に行ってほしいと言うので、私は言いました。「あなたをまずせいがいのある大聖堂に連れて行ってからね」。彼女は私に付いてきました。主日のミサの日のことです。半時間ほど滞在し、ろうそくに火をともしてから、聖マリアの大きなぞうへと向かいました。到着すると、いとこが卒倒しそうになりました。大きなぞうどころか、小さなぞうさえもなかったからです。きらきらした深紅のカーテンもありません。そこには私が見た何の変哲もないよれよれの赤と黄色のカーテンがあるだけで、ぞうはありませんでした。
 いとこは訳が分かりません。でも私には分かりました。そのカーテンの奥には室内ドアがありました。彼女がそれを押すと、そこは教会でした。そこで彼女に言いました。「トリノに来た訳が分かったわ。この教会に来るためだったのよ、『ロザリオの聖母(Madonna di Rosario)』と呼ばれているここで償うために。聖マリアの教会でね。あなたの見たその巨大な美しいぞうが、私たちをここに引き寄せ、連れて来てくれたの。私たちのお母さんが呼んでくださったのよ。聖母がぞうの姿であなたに出現されて、それはあなたの印象に残り、私たちをここまで引っ張って来るほどに大きかった。聖母は御自身の教会で、御自身のろうそくをともし、牧師が言った言葉を償いたいと思われたのだわ」。中に入ると、そこはとても美しい教会でした。ちょうどミサの最中でした。私たちはミサが終わるまでそこにいました。そして聖母と幼子イエスの金色のぞうまで進んで行きました。聖母にろうそくをともし、私たちと牧師をゆるしてくださるようイエスに祈ったのが、その場所だったのです。)

イエス様、これで良かったのでしょうか?

ヴァスーラ、そうだ、あなたが説明したとおりだ。
 あなたが使命を果たしたら、すぐにでもあなたを私のもとに引き上げよう。私の魂はあなたに思い焦がれている。ヴァスーラ、母のおっしゃることを聞きなさい。

ヴァスーラ、イスミニに伝えてください、私がどんなに彼女を愛しているかを。子よ、私は彼女にその大きな私の姿を見せて彼女の注意を引き、あなたたちを私の教会に導きました。愛しい子どもたち、あなたたちをどんなに愛していることでしょう。私たちを尊びなさい、愛する子どもたち、私たちを尊びなさい。あなたの兄弟のために償いなさい。
 私たちがどれほどあなたたち皆の近くにいるかを覚えておきなさい。ヴァスーラ、決して失望してはなりません、私があなたのかたわらにいるのですから。いつもイエスにお頼りなさい。娘よ、イエスの御受難のことを思い巡らしなさい。イエスのために生きるのです、イエスの栄光をたたえなさい。

お母さんとイエス様の助けがあって初めて、そのすべてのことができます。お母さんを尊びたいと思います。

あなたたち皆を愛しています。イスミニを祝福します。彼女と彼女の夫を私の教会で祝福しました。

あなたを祝福します、聖マリア。

私もあなたを祝福します。

(しばらくして)

主よ、おゆるしください。私はあなたに全くふさわしくなく、失敗ばかりで、あらゆる善が欠けているために、まえであなたに背いています。

すっかりゆるす。

愛しています、大切なイエス様。

あなたに愛していると言われる度に、あなたのすべてのみじめさを見過ごしてしまう、それを見過ごして、神の義があなたを打つのを止めてしまう、ヴァスーラ、あなたは本当に言葉にできないほどみじめなのだから。私を愛していると言ってくれることで、私の怒りは鎮められる。

(イエスが厳格に見え、怖くなりました。)

あなたが怖い。

私は愛である、だから私を怖がらなくてよい。

ああ、イエス様、私がこんなにひどい人間でなかったら、こんなに恩知らずで、悪意に満ちた者でなかったらいいのに!

あなたをあわれんでいる。このあわれみゆえ、あなたに対して怒りが燃え上がることはめったにない。

自分はお恵みの一滴すら受けるに値しない者だと分かっています。あなたはあまりにも私に良くしてこられました、我慢強く、決して私にお怒りになったことがありません。失敗しても、愛してくださるだけです。あなたは私を甘やかしておられます。

ヴァスーラ、私の慈しみとはそういうものだ!

イエス様。

私だ。

私の神よ。

私だ。

あなたをもっと愛せるように、あなたが望まれるように愛することできるように教えてください。それによって、あなたにゆるしていただき、私があなたを尊ぶことができるように。

小さな子よ、私はこれからもあなたを教える聖なる教師である。決して疑わないように、私のゆるしを決して疑ってはならない。

決して、主よ、疑いません。あなたのお恵みによって、私をふさわしい者としてください、そして私に近づいてください、あなたの栄光をたたえさせてください。私が決して罪を犯さないように、そして私の罪で絶え間なくあなたに背くことがないようにしてください、愛するお方。

私を祝福しなさい。

イエス様、あなたを祝福します。お父さん、愛しています。

十字架の道行きであなたに会いたいと望んでいる。

ああ、イエス様、どうやって? そうしたいですが、でもどうやって? 誰と? 誰が私を案内してくださるというのでしょう?

(投げやりになって、目に涙があふれてきました。)

涙は、私の母に対する侮辱を聞くときのために取っておきなさい。

ああ、イエス様、助けてください。

娘よ、私にり頼みなさい、あなたを教え導かせてほしい、柔軟なままでいて、私を喜ばせなさい。さあ、私のそばにいなさい、愛している。

イエス様、愛しています。私の無知をあわれんでください。

そうした。こう言って私を喜ばせなさい。「主よ、あなたのいけにえとしてください、あなたの燃える愛のいけにえに。あなたと共に十字架につけられ、右も左も決して見ず、あなたを、あなただけを礼拝したいのです。あなたのために魂を獲得することによって、あなたの渇きを癒やしたいのです。あなたの愛のいけにえに、私はなるのです、あなたを愛しています」。こう言いなさい!

(そう言いました。)

あなたはこれからずっと、私の心から離れることはない、ヴァスーラ。選びなさい、ヴァスーラ。あなた自身の人生か、それともいけにえとしての人生か、選びなさい。

イエス様、私を置いていってほしくありません。あなたと共にいたいのです。あなたのおそばに。

ならば、あなたは良い選択をした、あなたは私に似た者となる、愛のいけにえとなりなさい。花よ、あなたは私の光の下で育つだろう。

ありがとうございます。あなたを祝福します。私に与えてくださったすべてのゆえに、私にかけてくださったあわれみのゆえに。

私の平和を受けなさい、娘よ。私の現存を決して忘れないように。あなたのうちで休ませてほしい、そこが私の家なのだから。

うれしいことを言ってくださるのですね、イエス様、あなたから学んでいます。

花よ、私はあなたの師であり、神である。さあ、私たちで共に?

はい、主よ。

私の聖骸布は本物

1987年10月2日 ノート16

私、イエスである。私や私の母を表すイメージは、どれも尊ばれるべきだということを伝えなさい、なぜなら私の十字架が私を表しているように、それらも私や私の母を表すものだからだ。私のせいがいはまさしく本物であることを知らせなさい。それは私を覆った実物である。私の祝福を受けなさい、ヴァスーラ、私の心の中に入って来なさい、あなたをそこにかくまわせてほしい。休みなさい。来なさい、あなたの父のもとに来るように。

(神が私を覆ってくださり、神に包み込まれているような感じがして、幸せでした。)

私は渇いている、ヴァスーラ!

1987年10月1日 ノート16

(朝です。化粧品のセールスでここを訪れた客人のために、午前中の時間がすっかり取られてしまいました。必要のないものばかりで、全く時間の無駄でした。でもその人は私の友達の紹介で来たのです。)

小さな子よ、あなたを狂おしいほどに愛している。私こそがあなたの最愛の者。どうしてか、ヴァスーラ? 私から離れないように! あなたの推測は正しい1。私の愛が再び燃え上がっている、そしてそのようなとき、私は愛を要求することを自らに許す。私のためだけに生きてほしい。私だけに目を据えてほしい。私を見、私を愛し、私を香らせ、私を飾り、私を祝福し、私を求め、私のために呼吸し、私のためだけにほほ笑んでほしい。あなたの神である私を、どれほど愛しているか教えてほしい。他の人々を私のもとへ連れて来ることに努め、飽くなき私の渇きを満足させなさい。私は渇いている、ヴァスーラ! 私は愛に渇き、魂に渇いている。ヴァスーラ、どうして私と張り合うものを連れて来るのか、もうこれ以上そのようなものを連れて来てはならない、決して! 私に賛辞を贈りなさい、あなたにはあふれるほど与えた、与えているすべてのものゆえに、私に感謝してはくれないのか?
私の喜びの園をあなたと共に散歩した、共にその美しさを分かち合った。私の喜びも苦しみも分かち合った。あなたに私の十字架を担わせ、今それを共に分かち合っている、十字架の苦悩、悲しみと痛み、十字架の愛を分かち合っている。あなたを私の胸にまで引き上げて、あなたを養い、癒やしたではないか? あなたを私の花嫁とし、私の十字架を二人の婚姻のとことして分かち合った。私を見てくれるか?

(イエスの御顔を見ました。)

花よ、一体あなたを見捨てたりできるだろうか? 私はあなたを最も愛する者。ずっと私のそばにいなさい。ほら2、聞きなさい、私たちの絆を今、もっと固く結ぼう。もっと近くにいてほしい、私と一つになってほしい。あなたを最初に抱き締めたのは誰か?

どのようにでしょうか、主よ?

最初にあなたを聖別し、あなたにまなざしを向けたのは私だった。ヴァスーラ、私はあなたを私自身のために造った。あなたが何者であるかをあなたに思い出させてあげよう、あなたはちりや灰に他ならない、だが私の限りないあわれみによって、あなたを死者の中からいのちへと引き上げた。それをいつも覚えておきなさい。

(牧師が来られたので、この啓示を見せました。まず第一に、彼はそれを信じませんでした3。さらに、聖マリアが私たちの聖なる母であることを否定しました。ご出現のことなど聞いたこともなかったようです。いかなる霊的なわざも信じていません。聖画にも反対です。私のことをおそらくまともではないと考えたでしょう。)

ヴァスーラ、私は富んでいる者、だが、ほとんどの者が私の富を知らない! 私が肉体のうちにあったとき、私はさげすまれなかっただろうか? 侮辱の目で見られなかったか? 冒涜ぼうとくする者と呼ばれなかったか? 家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となったように、私は捨てられたのではなかったか?
侮辱と屈辱を受け入れることによって、私の栄光をたたえなさい、謙遜になりなさい、私のように、覚えているか? みじめさの中で私に仕えなさいと言わなかったか? 休息はないと言わなかったか? 私が与えるものを受け取りなさい、屈辱を受けることを恐れてはならない。
血を流している私の心から、血のしずくを二滴、あなたの心に残して4、その心をすっかり覆ってしまおう。私の手で聖化されるように、私の光の下で生きなさい、すげなく拒絶されることを学びなさい。

(聖マリアが近くにおられるのを感じました。)

マリア様?

私のためにろうそくをともし、彼の過ちを償いなさい5。彼をゆるしてくださるようイエスに願いなさい。私のためにそうしてくれますか?

分かりました、マリア様。

償いなさい、愛する娘よ。イエスのわざを疑わないように。私たちを尊ぶのです。

分かりました、マリア様。

カインたちは容赦しない

1987年9月29日 ノート16

私の神よ、聖職にある魂の中に、あなたが御不満でいらっしゃる方々がおられるようです。

ヴァスーラ、彼らはどれほど多くの魂に対して責任があることか。彼らは自分自身が堕落するだけでなく、非常に多くの他の魂までも引きずり込んでいる。

でも主よ、善良な方たちも多いはずです。あなたを愛し、あなたが望まれるとおりに働いておられる方々が。私は何人か知っています。

ああ、ヴァスーラ、多くの者たちが私の教えに従い、犠牲を献げ、謙遜に生き、互いに愛し合い、私の小羊たちを養ってくれている。彼らは地の塩、私が心から愛する者たち。彼らは私のアベル、私の傷を癒やし、痛みを和らげてくれるバルサムである。だが悲しいことに、彼らの中にはカインもいる、彼らは私の体に突き刺さった矢、不忠実で、虚栄心のために目がくらみ、邪悪で、卑劣な傾きを持つ者たちだ。彼らは私の頭に突き刺さったいばらのとげ、その罪は数えきれず、偽善こそが彼らの師、私の聖なる義の炎が燃え上がるのは、これらの者たちに対してである。
 娘よ、私の手を取りなさい、私の近くにとどまりなさい、そうするならあなたにそれらのとげを指し示そう。神の力によって、あなたを私の体のまさに最も深い所へ導き、そのやりの刃を見分けられるようにしてあげよう。カインたちは容赦しない、ヴァスーラ、彼らには私に献げるものが何かあるか? 彼らの手は空っぽで、私の小羊たちに与えるものは何もない。人前で自分の姿を現すことを好み、ぺこぺこ挨拶されることが大好きで、まるで塩気を失った塩のようだ。娘よ、はっきり言っておく、彼らは今日のファリサイ派だ!

ああ、神よ、それは本当にひどい話です。

ヴァスーラ、だからこそ、隠されているもので知られずに済むものはなく、覆われているもので現されないものはない、それが私の意志なのだから。
 さあ、来なさい、私の現存を忘れないように。

忘れません、主よ。あなたを私の聖なる父、聖なる友、聖なる兄と見なし、聖マリアを私の聖なる母だと考えます。あなたと御母は私の聖家族でいらっしゃいます。どうして忘れることができるでしょう?

愛する者よ、私はあなたの伴侶でもある、そのように私を愛してもらいたい、親密な愛で私たちを愛してほしい、しかし、私たちが聖であることを決して忘れてはならない、私たちを尊ぶように。私たちはあなたの聖なる家族、私はあなたの神である。目を覚ましていなさい。

はい、主よ。

さあ、一緒に行こう。

はい、ご一緒に。

私に恋い焦がれなさい──彼らは私を否定した

1987年9月28日 ノート16

(イエスが呼んでおられました。主がそうであられたように、私もお会いしたくてたまりませんでした。どういう訳か、前回ご一緒してから何年も経ったように感じられました。)

ああ、来なさい、愛する者よ! こうしてあなたと会えるこの時を、どんなに待ち遠しく思っていただろう!
 一緒に、ヴァスーラ、あなたと私は一緒に、ガラバンダルを聖化するであろう。そこは母と私が出現した聖なる場所なのだから1

むねが行われますように、主よ。

ヴァスーラ、臆病さ2は罪ではない。このことを伝えておきたい。

(これを聞いてうれしくなりました。突然、私の魂は主に思い焦がれました。)

私を見なさい、小さな子よ。私に思い焦がれるなら、私の栄光がたたえられる。私に思い焦がれなさい、私はあなたのために、自らの血を代価として払ったのだから。
 ヴァスーラ、あなたはなぜ、霊的指導者を求めて辺りを見回しているのか?

分かりません。

私と共にいてあなたは学ぶ、私は知恵であり、真理なのだから。私のもとに来なさい、そうすれば教え導こう。ヴァスーラ、愛している。
 彼3に伝えなさい、私は私の教会を修復する、私の教会を生き返らせると。共に働くためにあなたを選んだと。ヴァスーラ、彼に会い、彼と話し、私をそっとなでて4私の栄光をたたえるようにとあなたに教えたことを話し、そうすることによって、私をなでなさい。私を愛しなさい、ヴァスーラ、なぜなら、神の義が罪人をまさに打とうとするその時、愛はそれを回避させてくれるのだから。

(しばらくして)

ヴァスーラ、あなたを自由にしたのを喜んでいるか?

はい、私の神よ。あなたと一緒にいられてとてもうれしいです。あなたに強く結ばれているのを感じて、幸せです。

あなたと愛の絆を結んだことを、今は信じるか?

はい、今は信じます、主よ。

小さな子よ、私を祝福しなさい。

あなたを祝福します、イエス様、そしてあなたを愛し、あなたに感謝します。

ヴァスーラ、私がこれまでに与えてきたしるし、そしてこれからも与え続けるしるしは、あなたたちに私の名を知らせるためであることを知っているか。それによって、皆に抱いている私の愛があなたたちのうちにとどまり、私があなたたちのうちにとどまることができるようになる。だが、私の聖職にある魂の多くは、人々の前で私を知らないと言った。

どうやってそんなことを、主よ?

彼らは私のしるしとは何の関係もないと言って、彼らの神である私を否定した。人々の前で私を知らないと言う者は、私も天使たちの前で、その人を知らないと言うと言っておいたではないか?
 これからも私の名をあなたたちに知らせていくと私は言わなかったか? それなら、なぜ彼らは私があなたたちの間にいるということを疑い、私がしるしや奇跡を与えるのはあわれみによるということを疑うのか? それらは少しも尊ばれていない。
 言わせてほしい、娘よ、それは彼らが知識の鍵を取り上げてしまったからだ! 彼らは自分が入らないばかりか、入ろうとする人々をも妨げてきた。

私の神よ! とても怒っていらっしゃるようにお見受けします、主よ!

ヴァスーラ、私の栄光をたたえる時が来た。目を覚まして、私のそばにとどまっていなさい。愛している、小さな子よ、私と一つになりなさい。

はい、主よ。

私たちで、共に?

はい、共に。

来なさい。

あなたと共にいます

1987年9月27日 ノート16

(またしても地獄の門が全開してしまったかのようでした。サタンが激怒しています。サタンが私の魂をあまりにも苦しめるので、主に向かって、もう私抜きで、お一人で行ってくださいと願ってしまったほどです。主を変わらず愛していますが、これ以上続けていく力が残っていないのですと。すぐに自分の言葉を後悔しました。そこで、私は自分はふさわしくないので、このまま置いていってくださいと主に願いました。休んでいる間、でこぼこ道の上で自分が転倒する幻を見ました。近くにイエスの御足が見えました。はだです。主はかがんで私をもう一度起こしてくださいました。すると今度は、目の前に百段はあろうかという広々とした階段が見えたのです。その階段のてっぺんには聖人たちが立っていて、ここから上がって来るように私に呼びかけています。後ろを振り返ると、見覚えのある人の姿を見ました。司祭です。その方はユーモアがあり、イタリア語で話しかけてきました。パードレ・ピオ(ピオ神父)だと分かりました! 彼のそばにはアッシジの聖フランシスコがおり、私に近づいてきました。みんな私に続けるようにと励ましています。)

イエス様?

私だ。ヴァスーラ、恐れてはならない。

イエス様、弱い私をおゆるしください。

あなたの弱さは、私の力の中で消滅してしまうだろう。

io, sono con te, Padre Pio;1

私の神よ、これは今現実に起こっていることですか?

そうだ。ピオ神父は私と共にいる、ヴァスーラ、私が彼を列福した。私はあなたと共にいる、私の母も、諸聖人たちも。

(その後、聖霊刷新グループの集いに参加した時のことですが、集いにうまく付いていくことができませんでした。単によく知らなかったからなのですが。それに、沈黙がとても恋しくなったのです。後ろめたい気持ちになりました。知らなかったことが、とても後ろめたく思われたのです。)

ヴァスーラ、心配しなくてよい、私の栄光をたたえ、賛美するのに、皆それぞれのやり方がある。あなたにはこの方法2を与えた。私とあなた、あなたと私。あなたは私を沈黙のうちに礼拝するように。思い出しなさい、数カ月前に既に教えたことを。

(そのとおりです。1987年5月31日でした。)

あなたの横に立っている。

(実際に触れることができそうなほどに、主をとても近くに感じました。私の魂は喜びを取り戻し、平安になりました。)

小さな子よ、私はあなたの伴侶ではないか? それなら、あなたが慰めを必要としているときに慰めないだろうか?
 私のもとに来なさい、そうすればあなたの重荷を持ち上げよう、私のもとに来なさい、そうすれば必ず慰めよう! 私を信じて打ち明けなさい、娘よ、私はあなたの霊的指導者、あなたの伴侶、あなたを最も愛する者、あなたの造り主であり、神である。来て、私の腕に飛び込み、私のぬくもりを感じなさい。

(イエスは、私の魂に完璧な調和と平和を残してくださいました。