アフシン・ジャビド氏──元ヒズボラのイラン人兵士の証し

*アフシン・ジャビド氏は「神のうちの真のいのち」のロシア巡礼に参加し、自身の経験を証しされました。

私はイラン南部のアバダーンと呼ばれる町で、シーア派のムスリムの家族のもとに生まれました。私の祖父はイスラム教の指導者で、19人の子供と84人の孫がいました。祖父は、霊的生活の様式と教えを次の世代に伝えるために、その中から一人の後継者を選ばなければならなかったのです。

私は命を落とすことにもなりかねないような事故に何度も逢ったことがあるのですが、危険が迫るたびに、いつもある人の影を見ていました。そのことを他の人々にも隠さずに話していたのですが、祖父は、これはイスラムの霊的指導者たちがこの少年を守っているしるしだと受けとめました。そういうわけで、祖父は私に特別な注意を向け、イスラムについてすべてを教えてくれました。

私はヒズボラという武装組織に入り、その軍隊に約三年間所属しました。その頃、クルアーンの教えを広く学びました。私の祖父は、イラン国外にいる家族の霊的指導者になり、だまされて堕落したかわいそうなキリスト教徒たちにイスラムを伝えるという思いを私の心に植えつけたのです。

私はマレーシアに行き、30冊の偽造パスポートを持っていた罪で捕まりました。監獄に入れられ、そこでイスラムを教え始めました。どのように行動すべきか、アッラーに対する義務について皆に教えました。一日に5回の祈りを捧げるのが毎日の日課となっていました。シーア派の教えでは、17回のラカートを含めて、一日に3回祈るのですが、私はもっと神との時間を過ごしたかったので、一日5回は祈っていたのです。さらに、一日の終わりにも祈っていました。10日に一回はクルアーンを通読する習慣も持っていました。このようにして、イスラムの教えから霊的な力を受けていたのです。

クルアーンにはアジェンネという霊がいて、その霊と話すことは禁じられておらず、ムハンマドもその霊と話したとあります。私は霊的な領域と繋がって、霊的な力を獲得することができました。人々のために祈ることもできました。特に、誰かに傷つけられた人や、何か悪いことをされた人などが私の所に来て、祈りを請いました。するとすぐに、傷つけたり害を加えた人が病気になったり、事故に遭ったりしたのです。目を閉じたままでも、他の部屋にいる人が何をしているか言うことができました。こういったことは、もっと力が欲しいという渇望を私にもたらしました。そこで私はもっとクルアーンを読み、瞑想するようになりました。

ある夜、クルアーンのある節を読み、瞑想していました。クルアーンには、意味の無い言葉がただ繰り返されている節があるのですが、それがクルアーンの秘儀だと言われています。それらを瞑想していると、霊が部屋の中に入って来るのを感じました。この霊は、私が相手にして打ち勝つことができないほど強力でした。私は恐れにとらわれ、イスラムが与えるあらゆる方法を使って、アッラーの御名によって出て行くように命じたり、サタン、お前を縛るなどと言いましたが、何も効果がありませんでした。

私は完全に絶望しました、この霊が私の首を絞めて殺そうとしているように感じました。私は独房で死のうとしていたのです。そこで天に向かって、ファルシ語(イランの公用語)で「神様、助けてください!」と叫びました。すると、今ここで私が話しているのと同じくらいにはっきりとした、ある声を聞いたのです。「イエスのみ名を使いなさい」と。その瞬間、私には何も考える余地がありませんでした。今思うと、それはおぼれている人に助けのロープが投げられた時、そのロープの色など気にしないように、私も何も考えず、直ちにしがみついたのです。

「イエスよ、あなたが真実なら、姿を見せてください!」と叫びました。今振り返ってみても、どうして「イエス様、助けてください!」と言わずに、このように言ったのかわかりません。とにかく、そのような言葉が出たのです。その言葉を言い終わらないうちに、全てが元通りになりました。ところがこの出来事は、私の改心ではなく、混乱の始まりとなりました。「どうしてイエスがムスリムを救うのだろうか?」

私は善いムスリムになるために力の限りを尽くしました。たとえ地雷の上を歩かなければならなかったとしても、アッラーのために、殉教者にさえなろうとしていました。イラン政府は以前、自分の命をアッラーに献げ、自分を犠牲にすることをいとわない人々に、特別なクルアーンを配布していましたが、私はこの政府の証印付のクルアーンを持っていました。絞首刑の現場にも参加しました。異教徒に対してしなければならないことは全てやり、アッラーを伝えるためにあらゆることを行ってきました。ですからこの出来事が起こった時に、何かがおかしいと感じたのです。アッラーを疑ったわけではなく、イスラムに疑いを持ったのでもなく、完全に信じていたので、ただ混乱してしまったのです。

ですからそのことを忘れようと努めました。ところが、「どうしてイエスがムスリムを救うのだろうか?」という疑問が何度も湧きました。私はムハンマドが最後の預言者だと信じているし、イスラムを完全な宗教だと信じているのに、どうしてイエスが私を救うために来たのか? その二週間の間、本当に混乱してしまいました。そこで、断食をして祈り、神ご自身に道を示してもらおうと思い立ちました。

その時、「アッラーのやり方には色々あって、どの道から登っても、いつも同じ頂上に辿り着く」というクルアーンの一節を思い出しました。だから「もしかしたら、これが神なのかもしれない」と思いました。あるいは「いや、これは神ではないのかもしれない、しかし、神は特別な道を私に準備されていて、その道を行くことを望まれているのかもしれない」とも考えました。神に聞かないかぎり、この答えは決して見つからないだろうと思いました。そこで私は断食し、力の限りを尽くして、心の底から尋ねました。「神様! 私にどうして欲しいのですか? どの道を進むのをお望みですか?」

二週間の間、同じ場所に留まり、起きている間は何時間も神に祈り続け、文字通りその同じ場所で眠りに落ちました。そして何度も何度も尋ねました。「どの道に進むのをお望みですか?」と。しかし二週間経っても答えはありません。私は本当に失望しました。

「もう忘れよう。どういうことだ。神のお望みを知る機会も与えられないなんて! 神がいるかどうかもわからない。人生のすべてを無駄にしてしまった。神を畏れて、アッラーを喜ばせるために、できることは何でもやろうと思って生きてきたのに、今度は私を混乱させるとは! アッラーが偉大で、人の心を読まれるのなら、どんな名前で神を呼んだとしても、私が神をどれほど愛しているか知っておられるはずだ。もし神にとって本当に重要なことなら、二週間も祈ったのだから答えがあるはずなのに、何も起こらなかった。もう自分の好きなようにやろう。自分の楽しみのために、自分の好きな道を行こう」。

するとその瞬間、神のみ力が独房を満たしました。イスラムの教えで、絶対にゆるされない最大の罪は、アッラーとイスラムの教え、神の預言者たちを疑うことです。また、イスラムの教えでは、アッラーは決して人間の前には現れないと教えます。私が犯した、絶対にゆるされない「神を疑う」という罪が、神の臨在が独房を満たすという出来事を引き起こし、私は直ちに神の聖性に直面したのです。

この全ては一瞬のうちに起きたのですが、神の聖性を前にして、私の犯した罪が私に重くのしかかりました。私には分かっていました。そうです、神は義の神であるゆえに、私を殺すに違いないと。神は、罪にまみれた私を地上から消し去るに違いないと。私は泣きました。なぜなら、本当に死にたくなかったのです。でも、もうチャンスは無いことは分かっていました。神はこれほどまでに聖であられるのに対し、私はあまりに邪悪だったからです。

私は独房の隅に逃げ、頭を腕で抱えながら「神様、ゆるしてください! 神様、ゆるしてください!」と叫びました。泣きながら「ゆるしてください! ゆるしてください! ゆるしてください!」と言っていると、誰かが私の肩に触れ、「あなたをゆるそう」と言ったのを感じたのです。

この言葉を聞いた瞬間、私はゆるされたことを身体的に感じました。しかし理解できませんでした。そこで「ちょっと待ってください」と聞きました。「私たちは『憐れみ深く、恵み深い神のみ名において』と言います。でもイスラムでは、裁きの日まで、ゆるされたかどうか誰も分からないと教えます。だから、ムハンマドは天国にいるとは経典のどこにも書かれていません。ムハンマドも他の人と同じように、死者の復活がある審判の日まで待たなければならないのです。それなのに、私に『罪をゆるす』と言い、実際、ゆるされたと感じさせる事ができるこの神は、一体どなたなのでしょう? 私は『罪をゆるす』と言われ、実際に今日、ゆるしを感じました」そして聞きました。「あなたはどなたですか?」

するとこの方は、「わたしは道であり、真理であり、いのちである」と言われました。この言葉を聞いた瞬間、これは非常に重要な言葉だと分かりましたが、何を意味するのか全く理解できませんでした。この瞬間、私はまだこの神がどなたであるか、見当もつかなかったのです。そこで、「あなたのお名前は何ですか?」と聞きました。すると「イエス・キリスト、生ける神である」と言われました。

この言葉が語られるのを聞いた瞬間、私は体中のすべての骨が抜かれたように感じ、床に突っ伏して泣き始めました。神の臨在の前で、ただ泣くしかありませんでした。あれから18年経った今でも忘れる事はできません(涙声になる)、神の愛、神の憐れみ、神があの日、私にしてくださったことを。まさに「あなたをゆるす」と言われ、私は本当にゆるされたと感じ、私は子どものように、ただ泣くしかありませんでした。なぜなら、私は何年もの間、神を喜ばせようとしてきたのに、私がしてきたことは何一つ、神を喜ばせるものではなかったからです。何もしてこなかった、それどころか、神を攻撃すらしてきたのです。私は本当にだまされていたと感じました、なぜなら彼らは、イエスは神ではない、これこそ神であると教え、アッラーのやり方で殺せと教えたのです。

でもこの神(イエス)は、私をゆるしてくださるほどの愛を持っておられます。私の心の全てが、「そうだ! これこそ神の真理だ! 神とはゆるしであり、神とは愛なのだ!」と叫んでいました。私は二時間も泣き続けました。ただイエスの足元にたたずみながら。

するとイエスは、「アフシン、あれを見なさい」と言われました。私が見上げるとテレビの画面のようなものが見え、そこにあらゆる世代の、あらゆる国籍、あらゆる背景を持つ人々が映っていました。そして一人ひとりが犯したすべての過ちが見えました。これに圧倒された私は、「神様、私はこんな人々の間で生きているのですか、全員が罪人ではありませんか!」と叫びました。するとイエスは言われました。「アフシン、私にとって、あなたをゆるすのはどれほど簡単だったか?」と言われました。私は「とても簡単でした」と言いました。ファルシ語のことわざで言うように、「水を飲むようにたやすく」。こう言った後、私はすぐに言い直しました。「いやいやいや、水を飲むよりもずっと簡単でした」。するとイエスは、「あなたをたやすくゆるしたように、私は彼らをもゆるす事ができる」と言われました。「誰が彼らにそれを伝えるのか?」と言われたので、「私が伝えます」と言うと、主は「よろしい。行きなさい」と言われました。

このようにして、私はキリスト者になりました。私は「神様、私に聖書を送ってください」と祈りました。すると、別の区域にいる囚人が歩いてきて、「これはあなたが頼んだものですね?」と言って聖書をくれました。彼はインドの東側の地域の出身だったのですが、私はウルドゥー語とヒンズー語を完全に話せるので、それをくれた時に、聖書だと分かったのです。

神様にお礼を言うのを忘れていたので、感謝しました。「神様、昨晩あなたに祈ったら、今朝、すぐに聖書を与えてくださいましたね! こんなふうに、祈りにすぐ答えて聖書を下さるなんて、言われている通り、本当に素晴らしい全能の神様なんですね!」

これが神の生けるみ言葉なのです。いいですか? 私がこうして証しするのは、人々にこの全能の神について聞いてもらいたいからです。私の証しによって、誰かがキリスト者になるとは期待していません。私の証しは、ただ私自身のためなのです。人びとに理解してもらいたいのは、これはすべてを可能とする全能の神のお話だということです。助けを呼び求める心を探し出し、神の力と強さを持って、すべての人類を愛しておられるのです。

今日、私の証しを聞いた人には、ただこう言ってもらいたいのです。「わかった。天におられる神、万物の創造主よ、もしこれが真実なら、私にも同じことをしてください!」と。そうするなら、私は保証します。全能の神、王、私の人生を変えてくださり、私がしたことのすべてを完全にゆるしてくださった方が、私も神と共に天国にいることができるという確信を与えて下さったように、彼らにも同じ事を保証してくださると、彼らも同じゆるしと愛を味わうことができるのだと。

これがイエス・キリストというお方なのです。今日も、そしてこれからも永遠に、神に栄光がありますように。アーメン。

私からムスリムの皆さんへの提言ですが、皆さんが「イエス・キリストは神なのか?」「人間が神になれるのか?」という疑問を持っていることは知っています。もちろんあり得ません。人間が神になることなどあり得ません。ですが、私がムスリムだった時でさえ、全能の神、偉大なる神は、何でも、どんなことでもできると信じていました。では、その偉大な神は人間になれるのでしょうか? 神は人間の肉体のうちに、ご自身を現す事ができるのでしょうか?

はい、できます。ですから、キリスト者としてこう言うべきなのです。神は子供を持っていて、イエスはその息子であるというよりも、神はイエス・キリストを通して、ご自身を人類に現してくださったのだと。

あえて言わせていただくなら、もし、正しい心でイエス・キリストを求めるなら、神はお分かりになるのです。私たちは神を尋問することはできませんが、へりくだる心で神に求める事ならできます。この同じ全能の神に、「私には病気の家族がいます」「本当に癒やしが必要な友人がいます」「わからないことがあります」「私の心は傷ついています」「私は絶望に陥っていて、助けることができる医者もいません」「私には希望がありません」「私には心の平安がありません」と、あなたが求めるなら。もしかすると、イエスに希望があるのだろうか? イエスのみ名によって、癒しがあるのだろうか? 家族は癒されるだろうか? 鬱から救われるだろうか? イエスのみ名によって求めてください。そうするなら受けるでしょう。なぜなら、イエスは全能の神だからです。求めてください、そうすれば与えてくださいます。神はそのようなお方であられます。