2009年1月、メキシコ・モンテレーの黙想会でヴァスーラが話す

2009年4月17日

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2009年1月初めから2月半ばにかけて、ヴァスーラはアメリカ大陸での宣教活動を行い、4カ国5都市、アメリカのロサンゼルス、メキシコのモンテレー、ドミニカ共和国のサントドミンゴ、ブラジルのベロ・オリゾンテとサンサルバドル・バヒアを訪問しました。

ここではメキシコのモンテレーで開催された「神のうちのまこと のいのち」の黙想会について報告します。

モンテレーはメキシコ北東部ヌエボレオン州の州都です。現地の「神のうちのまこと のいのち」の読者の会は、ヴァスーラの講演だけではなく、2日間の黙想会をも主催しました。そのために、2人の「神のうちのまこと のいのち」の司祭を講演者として招きました。

ヴァスーラと、今回の宣教旅行の同伴者であるゲッセマネは、1月28日水曜日の夜、ロサンゼルスから到着しました。

二人は空港で、「神のうちのまこと のいのち」メキシコの読者の会の人々の歓迎を受け、最新のニュースを知らされました。わずか数時間前、二人の司祭がやむを得ない理由により参加をキャンセルしなければならなくなったのです。一人は長上の許可が得られず、もう一人は、教区で大きな問題が起こり、その片付けのためにそこに留まることを余儀なくされているということでした。

到着

到着

この黙想会のために何か月も労した主催者たちは、メキシコ各地から410人の参加登録があり、プログラムは同じだと言うのに、講演する者がヴァスーラただ一人になってしまったことに気づきました。これを知らされたヴァスーラは穏やかにこう答えました。「神のうちのまこと のいのち」のメッセージからは「今から今年の終わりまで語り続けることができるほど」十分に豊かな題材があります、と。

イエスは、ご自身が許される障害はすべて、ご自身の栄光のためのものであるとヴァスーラに言われていました。今回もその例外ではありません。ご存じのとおり、ヴァスーラの話は通常、2時間で終わります。幸いにも今回は4回も、彼女の話を聞くことができるのです。それだけではなく、彼女は600人以上の人々のために癒しの祈りを行いました。

二人の司祭の不在を残念に思いながらも、この2日間、神が私たちのこの時代に与えられる愛と平和と和解の賛歌を、主の代弁者を通して直接に聴くことができたのです。

1月29日 木曜日

この日は、モンテレーにある「神のうちのまこと のいのち」の読者の会が開いたベス・ミリアムを最初に訪問しました。ここではヌエボレオン全州から来る非常に貧しい病人の家族に、近隣の病院の認可を受けて食事を与えています。彼らは本当に貧しく、どんな食べ物も買うことができません。一食の温かい食事すらです。この現実に心を動かされ、現地の「神のうちのまこと のいのち」の会は、病院の向かいにベス・ミリアムを開きました。私たちが到着した時、参加者たちはゆっくりと熱心にロザリオを祈っていました。その後、「神のうちのまこと のいのち」のメッセージが所々大きな声で読まれていました 。そして、会のメンバーたちによって、十分な量の温かな食事が提供されました。220人が毎日食事をしています。

ベス・ミリアム(Casa de Maria カーサ・デ・マリア=マリアの家)

ベス・ミリアム(Casa de Maria カーサ・デ・マリア=マリアの家)

ヴァスーラ ベス・ミリアムの前にて

ヴァスーラ ベス・ミリアムの前にて

ロザリオを祈る

ロザリオを祈る

ヴァスーラ、「神のうちの<ruby srcset=

まこと のいのち」のボランティアたちとベス・ミリアムの台所にて” width=”390″ height=”262″ /> ヴァスーラ、「神のうちのまこと のいのち」のボランティアたちとベス・ミリアムの台所にて

ここにはノートが置いてあり、感謝の言葉やメッセージを残したいと思う人々が書いてきます。以下の一文は、このベス・ミリアムに参加した一人が書いたものです:

「私の名前はオシリス・ロブレス・ピノネスです。私はジーザス・クライスト・オブ・ザ・ラターデイ・セインツ教会(モルモン教)に属しています。このベス・ミリアムに辿りついて、とても幸せに感じています。ここには、人種や宗教の差別がありません。ここにいるあなたたち皆から愛が流れ出ているように感じます。あなたたち皆の眼は澄んでいて、特別に輝いています。なぜならあなた方は神様の御手の天使たちのようだからです。

次の言葉をあなた方と分かち合いたいと思います。

『決して良い行いを止めないでください。なぜなら、あなたが、誰かの祈りへの答えなのかもしれないから。』

ありがとう。私がここに来て、あなたが私にしてくださったことで、私は天国に来たのだと感じました。

神様の祝福がありますように。
オシリス・ロブレス・ピノネス
2008年11月20日

次に、全国的に視聴者を持つ、アステカテレビ局のインタビューが待っていました。取材記者と2人のプロデューサーは若い男性で、ヴァスーラの体験に心からの興味を持ったようです。グアダラハラの「神のうちのまこと のいのち」の会のジャヴィアとカーメン・ペラヨは既に彼らと接触を持っていて、「神のうちのまこと のいのち」の情報やヴァスーラの前回のメキシコ訪問のビデオを渡していました。

インタビューは黙想会を開催した場所で行われました。最初の質問は、彼女の宣教について、またどのようにメッセージを受けとるのかということに関してのものでした。それから、取材記者たちの最も興味ある具体的な質問がされました。地獄は存在するのか。時の終わりとは何か。なぜ彼女がこのメッセージを受けるのかといったことです。

インタビュー

撮影チームとともに インタビュー直後

撮影チームとともに インタビュー直後

ヴァスーラは、1月18日ロサンゼルスでの集会の写真を彼らに見せました。それはキリスト教一致週間の期間中で、ヴァスーラの前に聖母が現れたのでした。彼らは大変感銘を受け、テレビ業界のプロとして、スポットライトから、そのような強烈な光が出るのは物理的に不可能であることを述べ、その写真を撮っていたゲッセマネに写真を求め、インタビューしました。それらの写真と奇跡についての記事は、こちらで読むことができます。

インタビュー3
このインタビューは、メキシコ全土、中央アメリカ、またアメリカの諸都市で2度放映されました。

その日のおそく、ギリシャ正教会のエヴァンゲロス神父司式の聖体礼儀をもって、黙想会は正式に始められました。「神のうちのまこと のいのち」読者の会がメキシコシティのギリシャ正教会に彼らを招待すべく連絡を取った際、エヴァンゲロス神父が応対に出られたのですが、じつは彼は2004年にコロンビアで開催された「神のうちのまこと のいのち」ラテンアメリカ黙想会にも参列されていたことが分かりました。当時彼がまだ司祭になるための準備をしていなかった時のことです。彼はメッセージを知っており、招待を快く承諾されました。エヴァンゲロス神父は、聖ヨハネス・クリュソストモス(金口イオアン)の聖体礼儀のギリシャ語、スペイン語の式次第を持参してくださったので、誰もが式の流れを追うことができました。これは素晴らしい経験でした。私たちは、聖体礼儀中に主に捧げられる美しい聖歌と祈りをほんとうに理解できたのです※。

※訳注:ギリシャ正教の奉神礼(典礼)は古いギリシャ語で行われるため、慣れていない者にはほとんど何を言っているかわからない場合が多いのです。

正教の奉神礼

正教の奉神礼

ヴァスーラはオープニングスピーチをして、その日の集会への参加は見合わせました。

ヴァスーラが話し、ヒルダが通訳する

ヴァスーラが話し、ヒルダが通訳する

1月30日 金曜日

午前中、ヴァスーラは「神のうちのまこと のいのち」の様々な主題について話しました。黙想会に参加している人々はメッセージについてよく知っているため、彼女は種々のテーマについて内容を深く掘り下げることができました:悔い改め、聖霊、聖体、神の御旨、などについてです。

集い1集い2

1時間ほどの休憩時間中、「神のうちのまこと のいのち」の本にサインしたり、近づいてくる人々と写真を撮ったりしていました。

サイン 祈り 集い3

昼食後、ヴァスーラは再び、黙想会に参加している私たちのために話をしてくれました。午後6時、600人を超える人々が出席して公式な集会が始まりました。ヴァスーラは2時間以上話し、その後、癒しの奉仕が行われ、ヴァスーラは一人ひとりを祝福しました。80%以上の人々が聖霊の安らぎ※を受けました。

※訳注:聖霊の安らぎ 癒しの祈りの中で、祝福を受けた人が眠るように倒れてしまうこと。上記のTV番組の動画と、93年6月3日のメッセージを参照のこと。

癒やしの祈りを待つ人びと

癒やしの祈りを待つ人びと

ヴァスーラ 人々のために祈る

ヴァスーラ、人々のために祈る

その後、私たちは滞在中のホテルに戻りましたが、ヴァスーラは直接ビジネスセンターへ行き、次のバングラデッシュ、スペイン、アフリカでの宣教のために、休むこともなく1時間以上も準備をしていました。ヴァスーラがどれほど、主とその御旨に自分を捧げているかを見るのは感動的なことでした。長い一日を終え、また600人以上に祈って、疲労していたのは明らかでしたが、彼女は前向きです。主の御業に対する情熱が彼女を動かす原動力であり、彼女は本当に、その原動力に飲み込まれているようでした。

彼女が話した主なテーマは次のようなものです。

いつものように、ヴァスーラは、もしも私たちが神を見い出したいならば、最初にすべきことは悔い改めであることを思い起こさせます。主を傷つけたすべての行いを悔いて、心から本当に悔い改めることが必要です。それを行い、告解の秘跡を通して、自分を空しくし、聖霊に侵入していただくための場所を作るのです。罪の負債を負う魂に聖霊は来ることが出来ません。しかし、この悔い改めは口先だけではなく、心から来るものでなければ、それは役に立ちません。

私たちは神を愛し、自分を愛するように、隣人を愛さなければなりません。多くの人は神の御旨を行いたいと言いながら、彼らはそれを行っていないと言います。愛するとは、神の御旨を行うことです。愛が道標であり、私たちの行い、思い、心のすべての基礎でなければなりません。もし私たちが神を愛し、お互いを愛しているなら、お互いに敵対したり、批判したりはしないでしょう。愛をもって行わないならば、ロザリオを祈ることも、ミサに行くことも、慈善の行いでさえも無駄です。「主よ、主よ、と言う者が皆、天の国に入るわけではない。神の御心を行う者だけが入るのである」。

ヴァスーラは和解と一致についても話しました。彼女は、神が和解について語られる時は、教会の和解と一致についてのみ言及しておられるのではありません。私たちの個人的な人間関係について、夫婦間の和解について、家族、職場の同僚、友人、共同体、政府間の和解について話されるのです。悪に対して愛で報いましょう。

彼女自身の清めについても話しました。守護の天使ダニエルが、神の目を通して見た彼女のすべての罪を見せた時、彼女は三週間のあいだ、激しい痛恨と痛みに満たされて昼も夜も泣き続けました。神が最も痛み悲しまれたことのひとつは、彼女が神を賛美せず、栄光を帰さず、感謝を捧げなかったという事実でした。ですから私たちは、人生のまず第一に神を置き、絶えず賛美と栄光を捧げなければなりません。

聖霊についても多く話しました。私たちが父なる神を旧約聖書から知っているように、新約聖書からイエスを知っていますが、三位一体の第三の位格である聖霊についてはあまり理解していません。私たちは魚のようで、聖霊は水であると説明しました。私たちは霊の中で動き、霊の中で呼吸し、霊からいのちを受け取るのです。聖霊なくしては私たちの食卓は空しいものですが、聖霊とともにいればそれは満ち溢れるのです。聖霊は今、歴史上かつてなかったほどに、全被造物の上に、ご自身を注いでおられます。これが新しい聖霊降臨で、私たちは既にその中で生きているのです。

聖体の重要性についても話しました。どのようにイエスが現存されているか、ちょうど十字架に磔られたように、ご自身の幕屋で、謙遜にも私たちを待ち続けておられるのです。メッセージを引用しながら、私たちは「本当にあなたを訪問しなければなりませんか?」と尋ねるべきではないと話します。友人に対してこのようなことを言う人はいません。それならば、どうして私たちの主、私たちの父、創造主、最高の友に対して、どうしてこのように尋ねるのでしょうか。私たちは絶えず、ご聖体の中に神が本当に現存しておられることを認知し、神を崇め、神を礼拝しなければなりません。

黙想会に参加した人々の主な関心事のひとつとして、テレビの取材記者や若者たちが用意したいくつかの質問がヴァスーラに投げかけられました。「もし神が愛の神であるなら、なぜすべての悲劇、自然災害、虐殺、戦争など、世界の人々が苦しむ現象を、神が許されるのか」。

聖書のルカ福音書13章1節-5節にその答えがあるとヴァスーラは答えました。

「ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことを、イエスに告げた。イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」

これらすべての事柄の責任は神にあると思う人々に対して、実際、この時代の人々の痛み悲しみの本当の原因は私たちの背教と罪であることを強調し、私たち皆が心から回心しなければ、全人類は苦しみを負い続けるでしょうと、ヴァスーラは語りました。

背教とは、キリスト者として洗礼を受けた後に、神を拒絶する人々の反逆のことです。

しかし、神は憐みの神であり、希望を与えずにただ私たちを罪に定めようとされるのではありません。1989年8月29日の神の言葉を思い起こさせてくださいます。

「それでも、私に向けた一つの優しい眼差し、一瞬の後悔、ためらいの溜息、ちょっとした思い直しだけで、あなたの時代の罪業(ざいごう)を許す用意があるのを あなた方が知ってさえいるなら。 この聖なる顔に微笑んでくれるだけで 私は赦し 忘れよう、私は自分の傷口に目を留めさえしないだろう、あなたに後悔の念がたった一瞬あるだけで、眼の前からその悪行と罪をすべて消し去る その身ぶりは天全体が祝う、あなたの微笑みと優しい眼差しを我が香のように受け取り、その後悔の一瞬の思いは 新しい歌のように聞こえてくるがゆえ。」

1月31日 日曜日

この日、ヴァスーラはまず、キリル府主教がロシア正教の総主教として新しく就任されたことを話しました。ちょうどこの翌日の2月1日がその戴冠式だったのです。キリル総主教はすでに、教皇ベネディクト十六世をロシアに招待する旨を語っています。1988年2月1日、主はヴァスーラに次のメッセージを与えました。

「私は主なる、甦(よみがえ)り、ロシアを甦らせたなら、私の賜(たまもの)を回復させよう、再び愛によって私の家を美しく飾らせ 彼女をもう一度私に一致させよう、私のパンとぶどう酒を差し出し 彼女は私の食べ物を拒まないであろう、差し出すものを受け取り 私のパンを食べ、ぶどう酒を飲み 新たにされて私を讃えるであろう 私の栄光で彼女を飾り、威厳をもって装わせる、私自身の泉から水を引いて、その蓄えを満たす、私の目は彼女に据えられている、ああ、ヴァスーラ、今に見ているが良い! 娘よ ペトロ、私のペトロが、あなたの姉妹を訪ねる日が待ち遠しい……」

ヴァスーラは、私たちの生命と家族、国家を、イエスの聖心とマリアの汚れなき御心に奉献することについても話しました。実際、彼女が1992年メキシコを訪問した際に私たちがこの祈りをした時、主は明確に語られたのです。

「来て 私と聖母の汚れなき御心に あなた方と家族を奉献しなさい。 私、イエスはあなたの国にとどまり 国を聖化するつもりです。そのためにも私ども二つの御心に 国を奉献しなさい。」(1992年7月7日)

聖なる二つの御心への奉献の祈りは、1993年9月21日にイエスによって口述されました。

聖なる二つの御心に国を奉献する祈り

みことばではっきりと示された預言に従って、
ああ、主よ、イエスの聖心と聖マリアの汚れなき御心の勝利が
もう間近だと、知っております、そう信頼し、信じています。
それゆえ、私たちは打ち砕かれた心で、
聖なる二つのみ心に私たち自身と家族、そして国を奉献します。

私たちの国をあなたに奉献するなら、
国はもはや国に剣を抜かず、戦いを挑む訓練はやむと信じます。

あなた方二つの愛すべきみ心に私たちの国を奉献するなら、
人間的高慢と思い上がり、神不在と頑なな心は、すべて取り除かれ、
あらゆる悪は、愛と善に置きかえられるものと信じます。

あなた方二つの聖なるみ心は、
今や私どもの嘆きの声と必要を拒(こば)まず、
むしろ愛深く燃え上がる炎のうちに私たちの声を聞きとどけ、
深傷(ふかで)を癒し、平和をもたらしに来て下さると信じています。

ああ、イエスの聖心と聖マリアの汚れなき御心よ、
私たちの心を燃え立たせるよう、
あなた方二つのみ心から私たちの上に火花を放ち、
私たちの国を二つのみ心の全き聖なる住まいとして下さい。

私たちのうちにお住まい下さい、私たちも二つのみ心のうちに住まい
その愛ゆえに、平和と一致と回心を見いだせますように。アーメン。
(93年9月21日)

ミサ1 ミサ2 ヴァスーラと司祭

また私たちを聖化する三つの向上の段階、無私、離脱、無感覚について詳しく話しました。それは天使的な徳です。

最後にヴァスーラは、私たちは神を探し求めたが見い出せない、とは決して言うことができないと言い、次のメッセージを引用しました。

「来なさい、この荒野でいまだに誤って:『贖い主を探し求めたが 見いだせない』、と言う者たちよ。清い心で 私を見いだしなさい、まこと愛する者たちよ、私欲を持たずに私を愛することによって、聖さのうちに 私を見いだしなさい、あなたに望む明け渡しのうちに。我が掟を守り 私を見いだしなさい。 悪を愛に置き換えて 私を見いだしなさい、単純な心で 私を見いだしなさい。もう罪を犯さないように。悪を行うのは止めなさい。善を行うようにしなさい。義を探し求めるように。虐げられた者たちを助けなさい。この荒野も不毛の地も歓喜させてほしい。生温かったあなたが 熱烈な炎となって燃え上がるように。無関心を捨てて 熱意に置き換えなさい。こうした全てを行うなら言えるであろう:『私は贖い主を捜し求めていたが 見いだした、ずっと傍らにおられたのに 闇の中にいて見えなかった。ああ 神に栄光! 主に賛美! これほど盲目だったとは?』。 そうしたら私の指針を守り、心に深く銘記するようにと促そう、あなたが 生きるように」」(89年7月8日)

「神のうちのまこと のいのち」のイベントを開催しようとする時によくあることですが、モンテレーの「神のうちのまこと のいのち」の読者の会は、黙想会開催の前後、またその最中にも、攻撃や迫害を通らなければなりませんでした。しかし、皆はイエスご自身が教えられたように、信仰をもって耐え忍び、右や左を見ずに、主の瞳の中を凝視しました。

ヴァスーラとモンテレー黙想会の主催スタッフたち

ヴァスーラとモンテレー黙想会の主催スタッフたち

「あなたを迫害する者たちを非難しないように そうすれば私も裁きの日にあなたを裁かない。 我が – 受難 – の – 霊魂よ、私、主は、受難でたどった足取りを 示している。 あなたは私に仕える者ゆえ、ついて来なければならない 私にどう言ってほしいか:『ついて来なさい しかし足跡はたどらなくてよい』と? そうはいかない、私に仕えるなら誰もが 血塗られた我が足跡をたどるであろう……」(93年6月3日)

私たちの三位一体の神は、ご自身の栄光と、敵に対する勝利をふたたび見せてくださいました。素晴らしく霊的な黙想会を与えてくださり、私たちを喜びで満たし、信仰を新たにし、メッセージを読み返す心を与え、そして何よりも、メッセージを生きる情熱をくださったのです。

私たちの主は祝福されますように。至聖なる御名は三たび祝福されますように。これらのメッセージを守ってくださった私たちの聖母は祝福されますように。

ヒルダ・ファラー