2007年トルコ・パトモス巡礼 ヴァスーラのスピーチ

2007年5月27日

教会は一つであり、つねに一つであり続けています。しかし、教会の中の人々が口論し、偏見と高慢を持ち、またお互いへの愛の欠如によって、彼ら自身を分裂させてしまったのです。私たちは皆それを知っています!

キリストはご立腹された様子で、あるメッセージで語られました:「私の地上の王国は私の教会、そして聖体は私自身が与えたもの、その教会のいのちである。──私は一つの教会をあなたたちに残した、しかし私が去っていった途端、御父のみもとに行くために背を向けると、たちまちあなたたちは私の家を荒廃させてしまった! その残骸は見る影もなく! そして私の羊の群れは右往左往している。
……あなたたちの分裂の杯を、私はあとどれだけ飲めばよいのか? 災いと破壊に満ちた杯を」
(91年11月14日)

キリストのこの悲しみに私たちは耳を傾けなくてはなりません。和解と一致への探求は、教会全体のいのちへと浸透すべきであり、キリストがゴールとされたこの目標を達成するため、私たちが最優先としなければならないものです。これは、神に対する、私たちの当然の義務であり、教会の真実性を守らなければならない私たちの責任です。またそれは、何にもまして、神の栄光のためなのです。しかし、このゴールに到達しようと、教会がいくら奮闘したところで、復活祭の祭日が統一されず共に祝うことがなければ、分裂は存続し、進展はありません。なぜなら、キリストは何年も、復活祭の祭日を統一するように求めておられ、それが成されれば、残りはご自身が行われ、私たちすべて一致させ完全な一致に至らせると約束されたからです。

イエスは言われました:「わたしの愛にとどまりなさい。…あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる」(ヨハネ15:9-10)「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう」(ヨハネ15:6)

明らかに、私たちはキリストのこの言葉を真剣に捉えてはいません。どこまで偽り、堕落すれば気が済むというのでしょう! 福音は私たちに一致にとどまるよう呼びかけているにもかかわらず、聖霊がそれを鼓舞されているにもかかわらず、分裂はなお残ったままです。ですから「神のうちのまこと のいのち」は、もうこれ以上この腐敗によって、私たちを強めるべきキリストの神秘体の機能が壊死させられるのを許してはなりません。むしろ、愛のきずなによって、この腐敗と戦わなければなりません。私たちは皆、教会の一致を受け入れ、この病いが、キリストの神秘体を荒廃させてしまうという病弊を許したことに責任を感じるべきです。たとえもしこ分裂が私たちから来たのではなく、私たちの祖先から起こったことだとしてもです。

教会もまた謙遜になって、私たち、信徒すべての声に耳を傾けなければなりません。私たち信徒にも、自分自身の思いを表す権利が同じようにあるのです。信徒たちは一致と相互の交わりを必死に求め続けています・・・信徒なしには、教会は存在しません。私たち信徒は皆、熱心に一致を求めているのです。

私たちは、分裂は間違いであり恥ずべきことゆえ、神が分裂を嫌悪しておられることを知っています。ではなぜ、教会のある人々は、それを知っていながら分裂を存続しようと固執することによって、キリストに逆らうのでしょうか?

愛と謙遜をもって一致を生きるということは、感傷的な問題でもなければ、信仰と真理を取引するといったものでもありません。それは真理である聖書から明らかにされるものであり、福音の言葉一字一句を生きたものとすることです。私たちは、神の御言葉に対して死んだままの状態でいてはなりません。

分裂の状態のままに留まるキリスト者は、真理のうちに生きてはいません。世の人々の目に、いかに信頼できる高潔な者として映ろうとも、関係ありません。どれほど献身しようと、何回「めでたし」を唱えようと関係ないのです。彼らの愛の欠如と謙遜の欠如は明白、私たちは皆それに気づいています。

キリスト者が分裂して、今や数世紀が経過しました。ある人々は自らの罪を認め、ある人々はご聖体を共に分かち合う力がないと嘆きます。何が教会を引き止めているのでしょうか? 彼らを引き止めているのは、和解できず、赦すこともできず、賛成することもできないという現実です。またもや、愛と謙遜が欠如しています。キリストへの愛によって、また聖霊の火によって、彼らの心が燃え立たせられない限り、エゼキエルが幻に見た、干からびた骨のように、彼らは怠惰で不活発であり続けることでしょう。

愛は一致の基礎です。もし教会がまだ、全き交わりのうちに生きていないとすれば、それは、表現され、討論され、説明されたすべてのことが、愛することなく行われたからです。この分裂はキリストに敵対して指図されました。自らをキリスト者と称し、分裂を甘受する者はすべて、「互いに愛し合いなさい」と語られたイエス・キリストの命令に背いているのです。事実を直視しましょう。愛さないキリスト者、自己の栄誉のためにだけ生きるキリスト者が、和解することはないでしょう。それは彼らが、キリストのうちに完全に成長していないからです。

キリストが最後の晩餐に祝福を語り、パンをとって弟子たちに仰せになったことを思い出してください。「、これを取って食べなさい。これはあなたがたのために渡されるわたしの体である 。」それから、杯を取り感謝を捧げ、弟子たちに、それを渡して仰せになりました。「、これを受けて飲みなさい。これはわたしの血の杯、あなたがたと多くの人のために流されて罪の赦しとなる新しい契約の血である。」

これはキリストの掟です。私たちはこれに従わなければなりません。もし私たちが和平に同意せず、互いに和解しないのであれば、どうしてキリストのうちに生きていると言えるでしょう? 教会の人々がかつて、分裂の罪を日々生きるなどということがあったでしょうか。それゆえ、もしこれを理解するのなら、牧者たちと私たち皆は選択しなければなりません。

二つの選択肢があります。第一の選択は、神に属し、神からのものです;愛、平安、謙遜、和解、そして一致に生きることです。第二の選択は、サタンに属し、サタンからのものです:嫌悪、争い、高慢、赦しの欠如、自我、分裂です。そんなに難しい選択ではありません。しかしだからといって、もし第一の選択をとり神の側に立ったとしても、それを実行しないなら、それを釈明する責任を問われることになります。すべての横柄な態度、すべての高慢、すべての偏見、恨み、慈愛のない冷たい心、互いに敵対して語ったすべての言葉、自我など、そのすべての支払いをすることになります。それはキリストの戒めを破っていることだからです。それほど単純なことなのです。

裁きの日に、私たちの時代に神は憐れみを示されなかったとか、ご意向を示されなかったとか言うことはできません。神の呼びかけの中で語られたことを聞かなかったとか、神を理解していなかったなどと言い張ることもできないのです。私も、皆さんも同じように分かっていることです。時のしるしは、私たち皆を一致へと召し出しています。教会の権威ある立場のある人々は、時のしるしを読み取れないのでしょうか? 聖霊がもたらされるしるしを退けることはできません。それでもある人々はそうするのです。それは彼らが超自然的な感覚を失ってしまい、重大な罪である自然主義しか信じていないからです。

そのようなキリストに刃向かう不毛な行為は、御父に祈られたキリストの祈りで語られています。「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります」(ヨハネ17:21) ましてや、教会に一致をもたらすために何もせず、ただ沈黙するのであれば、それは広大な墓地に横たわる一つの墓でしかありません。

もし誰かが、この巡礼の日々で私たちがしているように、霊的な一致を生き、相互の交わりを持つあなたに尋ねて、あなたは間違ったことをしていますと言うならば、その人々に質問を投げかける必要があります:
「どうして分裂の責任を牧者たちだけに押しつけ、神を試みるのですか? 私の和解と愛の行いについて疑問があるなら、私はただキリストの掟に従っているだけだということを、あなたは知っているはずです。イエス・キリストの掟に従うことと、逆らうこと、どちらが最善でしょうか。お互いに愛し、和解することは罪ですか。いいえ、決して、罪ではありません。一致への召し出しと私たちの主の掟を拒否し、背くことこそ、むしろ罪です。あなたの分裂の罪が、教会の一部を破壊し、荒廃させてしまったのです。あなたはそれを知っています。分裂した状態の私たちのうちに、人々は果たして、キリストの御体を認められるでしょうか。キリストを遣わされたのは御父であると、果してこの世は信じることができるでしょうか。私は選択したのです。自我と高慢の霊、偏見と自己関心によって、バラバラに引き裂かれ、生命力を失った墓のようなものにはなるまいと。むしろ私たちの主の戒めを聞き、主のうちに留まろうと決心しました。それは、私たちが一致し、一つの祭壇を囲んで分かち合うよう呼びかける時のしるしを、聖霊の助けによって読み取ったからです。一致の完全なイコンになりたいと、私は望んでいます。一致は、慈悲深くすべての者を引き寄せ、ひとつの「神のうちのまこと のいのち」を生きるようにさせ、このようにして聖なる三位一体のうちに住むのです。」

友人の皆さん、これらの言葉をあなたが語るとき、一致を引き止めようとする人々の反応を目撃することになるでしょう。神の御国の鍵を持ってはいても、彼ら自身が御国に入らないだけではなく、他の者も入らせない人々です。指導者、長老、聖書学者、大祭司アンナス、カヤパ、ヨナタン、アレクサンドロスなどの大祭司職の面々。彼らはペトロとヨハネを迫害しました。「そして、使徒たちを真ん中に立たせて、『お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか』と尋問した」(使徒4:7)。

今日、彼らに対する私たちの応答はペトロの、またヨハネのそれでなければなりません。「しかし、ペトロとヨハネは答えた。『神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください』」(使徒4:19)別の状況下でペトロは使徒たちと共に、サンヘドリンの大祭司に対して語っています。「ペトロとほかの使徒たちは答えた。『人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません』」(使徒5:29)

ですから、彼らにもまた尋ねてください。「私たち二人のうち、どちらが罪を犯しているのでしょうか。自分の兄弟たちと和解し、一つの杯、一つのパンを分かち、キリストの戒めに従っている者ですか。それとも和解せず、分裂をそのままに放置し、兄弟に毒を吐くことによって、分裂を引き起こす者の側に付く者ですか。キリストは分裂の神でしょうか、それとも一致の神でしょうか。私としては、自分が正しい者の側にいると信じています。なぜなら私は和解を選択したからであり、それは福音が私たちに語っていることだからです。私がキリストの神秘体を傷つけたり、反抗したり、罪を犯しているとは全く考えていません。また、信徒たちに道徳的に有害なことを語ってもいません。反対に、私は愛と謙遜をもって自分の兄弟たちと和解したのであり、何世紀もの間、私たちの主が懇願され続けた、霊的な一致を生きているのです」と。これが彼らに語るべきことです。

主は語られました。「我が家で声をあげ私の羊飼いたちに尋ねなさい:「この倒れかけた家を立て直そうと、熱心に愛を持って働く人はいませんか? この家を喜んで擁護する人はいませんか? 私が今何を言っているか 理解する人はいませんか? 主の家で 神の王国をひろげようとしている人は いませんか?」(98年10月20日)

ですから私たちの主に願い求めましょう。キリスト者の一致の源である主の聖霊を送ってくださり、一致への道すじに、未だに異議を唱える人々を照らしてくださるように。また、聖霊が私たちが強めてくださり、神のご意思に対し強い熱意を持ち、ひたむきに続けていくことができるよう、不屈の霊を願い求めましょう。「一つになりなさい」という聖霊の呼びかけに耳を貸そうとしないあの人々が、私たちにどんな酷い仕打ちをしたとしても、落胆したり、疲れ切ってしまったりしてはなりません。キリストはメッセージで言われます:「私は彼らの会合でひと言を発し そのたったひと言で教会を一致させることもできる。 しかし天の栄光は 貧しさ、みじめさと、最も軽蔑された者たちを通して 与えられよう。」

ここで私は「神のうちのまこと のいのち」を観想するすべての読者の方々と共に、私は貧しく惨めな者として、学識のある者や賢者たちに軽蔑される立場をとりたいと思います。そして私は、教会の公職にある方々に、キリストの愛のゆえにお互いの論争を止め、一致に対する言行不一致や無関心を止めるよう願い求めます。聖霊のうめき声に耳を傾けることによって、聖霊が彼らを導かれることに同意するよう願い求めているのです。聖霊は私たちにこう求められ、そして命じておられます。一つの祭壇を囲んで一致し、一つの杯と一つのパンを分かち、共に一つの声となって、一人の主、一つの信仰、一つの洗礼を宣言するようにと。そして、すべてのものの父であり、すべてを超えた御方、すべてを通して、すべてのうちにおられる、唯一の神がおられることを宣言するようにと。