私はこの機会に、「神のうちの
「神のうちの
神の愛のうちで成長するためには? 悪には愛で報い、互いに愛し合ってください。そうすれば、あなた方は証し人となり、たくさんの人を「神のうちの
もしも誰かが祈りの会を準備しているなら、彼らはいつでも聖パウロが言ったことを心に留めておかなくてはなりません:「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。それはキリスト・イエスにも見られるものです」。神がカリスマを与えたいのなら、誰もそれを止めることはできません。彼は与えるでしょう。しかし、もしあなたがそれを欲するのなら、悪が入り込んでくるかもしれません。ですから、人は油断無く警戒していなければならないのです。実際に、私たちが恩寵によってカリスマや神秘的な恩恵を得たと思ったとしても、その人はそれを拒否し、拒絶したほうが良いのです。もしもそれが神からのものでないのなら去っていくでしょうし、神からのものであればその力は倍になるでしょう。(私ははじめ、それが悪霊からのものかもしれないと言われた後、イエスを三ヶ月のあいだ追い払い続けました……)
人々に癒しの賜物をいただいていますか、と聞かれた時、私はこう言います。「持っていません」。 私は癒しません。たとえいつも癒しがあったとしてもです。たとえ誰か、ガンや死に至るような病から奇跡的に癒された人がいたとしても、私は癒してはいません。それは私ではないのですから、私はその賜物をいただいているとは言えないのです。いつでもそう言っています:私は癒しません、癒しの賜物もいただいていません。もしも誰かが癒されたとしたら、それは彼らの信仰のゆえであり、いのちの与え主である聖霊が、彼らを癒したがゆえなのです… 聖霊が癒し手であり、私ではありません。私は何も持っていないし、何もしてはこなかったし、何にも値しません…
人々の上に按手する人は、小さく、謙遜で、控えめでなければなりません。そしてその祝福は自分の力によるのではなく、霊の力によることを知らなくてはなりません。最大の謙遜とは無であることです。
祈りの会を発展させるか、あるいは壊してしまうかもしれないいくつかのことについて、注意を呼びかけたいと思います。もしも会が表面的で薄っぺらく、広がっていかず、むしろ萎んでいくのなら、あるいはまた興味が失われていき、神から来たものですらない他のメッセージに従い始めたりするのなら、それは彼らがメッセージを黙想的に読んでいないからかもしれません。─あるいは聖書すら開いておらず─ 神の愛に浸され、聖化のうちに成長することもなく干上がってしまうでしょう。彼らは、事件や最新の徴しのようなことばかりを話し、焦点を当てている人々なのかもしれません。
何が人々を、まるで回心以前のような最初の段階に連れ戻してしまうのでしょう。それはキリストに根ざしていない人々、内的な強靱さの恩寵に頼らず、自分自身の強さに頼る人々だということを私たちは見い出しました。神とともに沈黙の祈りのうちにいて、その現存を感じるよう教えるこの観想的なメッセージを、神に霊魂を引き上げていただき、その愛のうちに一致するために読む、ということを彼らはしないのです。聖書はこのように警告しています。「すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません。神の恵みから除かれることのないように、また、苦い根が現れてあなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚れることのないように、気をつけなさい。」(ヘブライ人への手紙12・14-15)ですから、イエスの真似をしてください。神ご自身がこう仰っています:「私はあなたを落第させはしない、また見捨てたりはしない」。愛があるところ、神はおられるのです。
回心こそ、全ての奇跡のうちでもっと大きなものだということを忘れないようにしてください。
ヴァスーラ 1998年12月8日