ジョゼフ・イアヌッツィ神父による以下の記事は、2019年11月13日と15日に送られたヴァスーラの二つの手紙に対する返答です。ヴァスーラはこれを「非常に優れた記事」であると説明し、他の言語にも翻訳するように勧めています。
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教会認可を受けた預言的啓示であるヴァスーラ・リデンの『神のうちの
ローマ教皇庁立大学博士課程を修了した神学者として、上記の啓示と手紙に含まれる教えは、聖書の預言と、教会が認めた聖人たちの預言の文書の多数に100パーセント一致していることを、信徒に知らせるのが私の義務である1。これらの教会公認の預言は、2019年9月発行の『神のうちの
さらに鋭く言えば、教皇フランシスコに関するヴァスーラの手紙の内容は、教皇フランシスコに従わず、誹謗中傷し、迫害し、非難することを選んだ人々や、恥ずべきことに辞任まで要求する人々に対して、強い呼び掛けとなるものである。私はここで、最近の2019年8月16日のイエスの言葉を思い出す。「教皇を非難する者に注意しなさい……私の教会の代理者を非難する者は誰も、私の弟子ではありえない」。さらに憂慮すべきは、教皇を打倒しようとするサタン的な計画である。これは人類の上に災難をもたらすであろう。イエスはヴァスーラに明かされた。「『不法の秘密の力はすでに働いています。ただそれは、今のところ抑えている者(教皇)が、取り除かれるまでのことです』」。「たとえ誰かがあなたたちの前に来て、『この教皇に対する忠誠心を捨てて、別の健全な運動に移りなさい』と言っても、動いてはならない! 警戒しなさい! 歎く者のパン種は強力で、味が良いかもしれない、しかし実際には、全くの欺瞞にすぎない !」
教皇フランシスコは彼の前任者とは違い、神学博士号を取得していないが、最も博識な神学者である教皇ベネディクト十六世でさえ、教会とキリスト者の一致に対する教皇フランシスコの神学的アプローチを提示する一連の書物に応えて、次のように書いている。
「私はこの取り組みを称賛する。これは、特に教皇フランシスコを神学あるいは哲学的養成の不足した者と見なす人々の馬鹿げた偏見に相反している。一方、私はただの神学の理論家に過ぎず、今日のキリスト者の具体的な生活についてわずかしか理解していない……(これらの本は)教皇フランシスコが哲学あるいは神学的養成において学識の深い人であることを合理的に論証しており、気質や様式におけるあらゆる相違にも関わらず、二つの教皇座は内的に連続していることを理解するのに役立つ」
教会が「ローマ教皇への服従を拒否し、または教皇に服属する教会の成員との交わりを拒否することを離教 schismという」3と教えているにも関わらず、教皇フランシスコを迫害する人々は、ここで言われる離教を推進しており、さらに、気づかないうちに、教皇を転覆させ、人類の上に災難をもたらすサタンの計画を推進しているのである。ヴァスーラはこれを最近の手紙で明確に言い表している。教皇フランシスコは本物の教皇ではないと主張する恥ずべき行為に対して、イエスは『神のうちの
教皇フランシスコはラッツィンガー枢機卿のような、鋭い刃のごとき神学的また文法形式上の精密さを持っていないとして、教皇がご自身の考えを表明される際の文法形式に対して意義を唱える者がいる中で、これは、公にあるいはメディアを通じて教皇を中傷する人をとがめるものである4。教皇を迫害する人々の主張にもかかわらず、私は神学者として、何であれフランシスコ教皇が教義的に誤ったことを書いたり説教したりしたことは決してないと、一切のあいまいさもなく断言することができる。これは形式と内容を区別するということである。ヴァスーラが最近の手紙で言及したように、聖書もあいまいさや文法的誤り(形式)を免れ得ない。しかしその教義(内容)は堅固である。この二項の文法形式の区別に関して更に知りたい者は、教会の承認を受けた出版物である『教会に認可された『神のうちの
自分はキリストの弟子だと主張しながら、教皇を中傷することは、誰にとっても、『神のうちの
ジョゼフ・イアヌッツィ神父、組織神学・神学博士
- 教理省の訓令『神学者任用について Donum Veritatis』(1990年)を参照。
- (訳注)イアヌッツィ神父による『今日の教会の状況』と題された非常に重要な記事です。神父はこの記事において、エゼキエル書、ダニエル書、ヴァスーラ、福者アンナ・マリア・タイギ、ガラバンダル、ラサレット、聖ピオ十世教皇、尊者バートルミウス・ホルツハウザー司祭などの預言を引用し、現代の教会の状況を詳細に解説しています。いずれ翻訳してお伝えします。
- カトリック教会のカテキズム2089、教会法751を参照。
- 上記『神学者任用について』30 「もし、神学者の側の誠実な努力にもかかわらず、論争が存続するようであれば、神学者は教導職の権威に、教えに関して問題が持ち上がったこと、またその論議の中で修正が提案されているのか、現状のままで解決できるのかを知らせる義務を負う。神学者はこれを福音的な精神と、問題を解決しようとする深い欲求をもって行わなければならない。それによって神学者の異議は本当の進歩に貢献し、教導権が論争に対して明確に説明し、さらなる深みを持つ教会の教えを提案するための刺激を提供する。
このような場合には、神学者は「マスメディア」に頼ることは避け、責任を持つ権威に頼るべきである。なぜなら、教義的な問題の解明に貢献し、真理に対する務めを果たすということは、公衆の意見による圧力を希求することによって行われるものではないからである」
同31「それはまた、教導権の教えに躊躇なく従おうとする要求によって着手された、本格的な研究の結果として起こることもありえるが、神学者の困難は残る。なぜなら、正反対の論争が、彼にとってより説得力があるように見えるからである。神学者が知的に同意できないと感じるある主張に直面したなら、神学者はその疑問に対する更に深い検証に対して扉を開けておく義務を負う。
教会への愛に突き動かされた忠実な精神にとって、このような状況は、確かに困難な試練であることを示すことがある。それは真理のために、沈黙と祈りのうちに苦しむべしという召しであるが、もし真理が本当に危機にさらされているとすれば、確実に、真理が完全に勝利するのである」(試訳)