英神父の講話①「神の愛とあわれみ」

「神のうちのまこと のいのち」32周年記念黙想会にて

2017年11月26日

神の愛

『神のうちのまこと のいのち』のメッセージにおいて、イエス様、父なる神様、マリア様が、ヴァスーラという人を通して語られている内容は、聖書に書かれていることを、現代人に分かりやすいような形で語り直しているというものです。昔から語られていることを、また新たな形で語っておられるのですが、私たち現代人は神様の心を見失いがちだから、永遠の真理を私たちの今の時代に分かりやすい形で伝えているということですね。

一番大切な点の一つは何かと言えば、当たり前のことですが、神様の愛です。神様がどれほど愛深い方であるかということを、はっきりとヴァスーラに対して示されたということです。これは明らかに、ヴァスーラという人を通して語られているのですが、私たち一人ひとりに対して語られています。神様がどれほど愛し、守り、導いておられるかということをです。『神のうちのまこと のいのち』のメッセージのことを考えると、そのまま聖書につながるのですが、私たちはそれをしばしば忘れがちです。信者としてこうしなければならないとか、ああしなければならないとか、日常生活のことをいろいろ考えて。

神様は、世界を造られた創造主であって、私たちのあがない主であるイエス様が、今もどれだけ私たち一人ひとりに心を配っておられるか、愛を持って眺めておられるか、共にいてくださるか、それを私たちは祈りのたびに思い出さなければならないと思います。父なる神様はそういう方であられます。

ときどき思うのですが、あまり比較しても仕方ないですが、例えば仏教の教えとか、いろいろな教えとか、日本でも素晴らしい方が大勢おられて、それも素晴らしいのですが、やはりはっきりと、神様がどれほど愛のかたまりであるか、愛そのものであるかということを、これほどはっきり語っているのは、キリスト教だけではないかと思います。これほどはっきりとです。もちろん、そういうことを伝えているところは他にもあると思いますが、これを私たちは一番心に刻まなければならないし、私たちが祈りのたびに思い起こすことは、自分自身がどれほど神様から愛されている存在なのか、神の愛を受けているか、多少苦しいこと、辛いことがあったとしても、神様がいつも恵みを与えてくださっているということを、祈りの度に思いおこさなければなりません。あるいは、『神のうちのまこと のいのち』のメッセージを読む度に、自分自身が神様から愛されているということをです。それを私たちは忘れがちだから、イエス様が度々そう語ってくださっているということです。これを心に刻まなければならないと思います。

私自身が神様の愛深さを感じるのは、やはり、深く祈った時です。日常生活の中ではどうしても忘れがちです。それでやはり朝や夕方に時間を取って、祈りの時に、自分自身に直接、神様が恵みを与えてくださっているのを思い出します。皆さんも祈りの時間を取って、そのような恵みが与えられていることを、絶えず思い起こされたらいいのではないでしょうか。

大事なのは、だから私たちは、まず感謝の祈りを捧げることです。どれほど恵みを与えられているか、日々のごく自然的なこと、今日ご飯が食べられる、今日健康で過ごせる、小さなことに対しても、一つ一つ感謝したらいいと思います。神様が超自然的なかたちで、直接私たちに触れてくださることもありますが、ほとんどの場合、神様は自然的な恵みを通して私たちに働きかけてくださっていますから、やはり、感謝と賛美の気持ちを捧げるといいでしょう。

私たちはつい、苦しみにとらわれてしまいます。「苦しいことから解放してください」「助けてください」と言うことも大事ですし、もちろん神様は寛大な方だから聞いてくださいますが、まずは、感謝と賛美の祈りをいつも神様に返していくように。こういう集いにおいても、まず感謝と賛美の祈りです。ミサにおいても、実際のところ、そのほとんどは感謝と賛美なのですね。その気持ちを大切にされたらいいと思います。

神のあわれみ

そして、私たちは忘れがちかも知れませんが、神様の愛の心には二つの面があります。一つは、私たちを本当に愛深く愛してくださって、いつも守ってくださって、導いてくださって、愛の心を注いでくださって、愛そのものであるという面と、それと裏腹で、一つなのですが、神様は愛があるからこそ、悲しんでおられる。痛んでおられる、ということを忘れてはいけないと思います。

神様はすべてをハッピーにしたいのですが、私たちの心の中に、生き方の中に、やはり神を悲しませていることがあるし、そしてこの東京の街を見ても、世界を見ても、どれほど神様の心を痛め、悲しませていることがあるか。それは罪であったり、様々な物質にとらわれている生き方であったり、自然環境を勝手に破壊したり、金儲けのことだけ考えているというような、私たちの心の中にもあるし、周りにもあるし、この東京、世界全体を覆っている、神様に反していることがあまりにも多いことを、神様そのものが悲しんでおられるということです。

神様は愛される方だからこそ、どれほど痛んでおられるか。イエス様もどれほど心を痛めておられるか、マリア様もどれほど心を痛めて、御父もそのことについてどれほど心を痛めておられるかということを、私たちはしっかりと受け止めなければならない。愛されているということと共に、神様の痛みも。私たちはついつい、「自分の痛みを分かってください」「苦しみを分かってください」と言いがちですが、それ以上に、神様がどれほど痛んでおられるかということを、しっかりと受け取らなければいけないですね。

去年、カトリック教会では「いつくしみの特別聖年」をお祝いして、非常に有意義な年だったと思います。「神様のいつくしみ」とは、いま私が話しているこのことですね、これを一年かけて思い起こしましょうということです。「いつくしみ」という言葉が、翻訳としていいか悪いかという議論があって、聖書の中では「あわれに思う」「あわれみ」と訳されています。放蕩息子が帰って来た時、道端で倒れていた人を良きサマリア人が助けようと思った時、すべて、「あわれに思う」ということなのですが、それが聖書の中のキーワードですね。

もともとの意味はどうかと気になった方もおられるかと思いますが、ラテン語で言えば「ミゼリコルディア」。「ミゼリ」は惨めだとか、貧しいという意味です。「コルディア」は心という意味ですが、「貧しい心」とか「かわいそうな心」という意味です。神様がかわいそうなのではなく、人間のかわいそうな姿を、神様が悲しいとか惨めな心として受け取ってくださっているという意味です。神様が心を痛めておられるという言葉です。だから「いつくしみ」というとちょっと柔らか過ぎる印象もありますが、神様の痛みを表しているのですね。

新約聖書の中ではどういう言葉を使っているかというと、「スプラテミゾマイ」というギリシャ語を使っているのですが、意味は何かというと、「内蔵から痛む」ということです。お腹から痛む。どうして痛むかというと、私たちが苦しんだり、罪を犯しているからです。放蕩息子のように、あるいは良きサマリア人が助けた道端に倒れている人のように。だから、痛みを分かっているという言葉ですね。

東京教区の佐久間神父さんは、このことを「はらわたする」と訳しました。はらわたから痛む。「スプラテミゾマイ」というのは受動形ですが、「はらわたされる」という、非常に強い言葉です。ですが、イエス様は別にギリシャ語を喋っていたわけではなく、ラテン語でもありません。ヘブライ語ではどういう言葉かと言うと、「ラファイーム」と言います。「ラファイーム」というヘブライ語は、語根と言って、ある言葉から派生させた言葉ですが、ラファイームの語根は、「レヘム」と言って「子宮」という意味です。

レへム、子宮。お母さんのお腹の中の子宮です。だから「ラファイーム」とは、お母さんが子宮から痛むというような痛みを、神様が痛んでいる愛ということです。何語で言っても全部同じですね。ラテン語で言っても、ヘブライ語で言っても、ギリシャ語で言っても、ものすごく痛んでいるのです。愛しているがゆえに痛んでいるということです。だから「いつくしみ」というとちょっと弱いですね、日本語としては。本当は、私たちの苦しみや罪を、神様が痛んでいるという意味です。

だから私たちは、神様から愛されているという恵みを感謝すると共に、神様がどれほど痛んでおられるかという、神の痛みも、当然しっかり受け止めないと、「神のいつくしみ」とか「あわれみ」を本当に黙想することになりません。神様の痛みは何かと言えば、私たちの罪であったり、自分の罪もあります、今の世界中の様々な罪を、神様が罰する前に痛んでくださっているわけなので、その「痛み」を、私たちは一緒に受け取らなければならないのです。神様の「ラファイーム」という、ものすごい痛みを。

今も神様は、御父にしろ、イエス様にしろ、マリア様にしろ、どれほど痛みながら私たちを見ておられるか。だからやむにやまれず、ヴァスーラを通して、イエス様は、なかなか抽象的で分からないので、いろいろなことを語ってくださっているわけですね。それを私たちは真剣に、誠実に受け止めなければならないし、神様の心を私たちの心として受け止めていくように、いつも呼ばれているわけです。だから、自分だけハッピーで、幸せで生きることはできないのです。もちろん、ある意味、愛されているということは、幸せでハッピーな気分ですが、同時に、神の痛みをしっかりと、いつも受け止めなければならないのですね。

というような、神の愛には、この二つの面が必ずあって、『神のうちのまこと のいのち』のメッセージの中にもはっきりと出ていると思います。聖書の中にもはっきりと出ていることです。それを私たちはまず、いつもいつも受け止めていく、それが一番大切なことだと思います。

英神父の講話②「悔い改め、闇の体験、主の日」→