2019年ギリシャ巡礼・アッバ・アタナシウス主教

2019年ギリシャ巡礼・アッバ・アタナシウス主教

フランスのコプト正教会、ツーロン教区主教
キリストの平和
聖霊、一致の指針

タルムード(ユダヤ教の伝承の書)の中には多くの事柄が入り交じっており、ラビたちの見事な金言によって、ユダヤの民の最も古い知恵が言いあらわされています。その中の一つは「王国」について告げています。それはもちろん、神の王国です。それは「ひっくり返された世界」であり、別の言葉で言えば、「この王国は世界であるが、上下さかさまか、あるいはこの世界の反対側である」のです。

世界は幸福と平和を渇望しています。 平和とは夢想にすぎないのでしょうか? どのような平和なのでしょうか?

イエスの偉大な演説である「山上の垂訓」は、私たちが「真福八端」と呼んでいるものから始まります。これはキリスト教が具体化するところであり、この神的な幸福は、世の知恵とは正反対の見解を持っていると言わなければなりません。「幸いなるかな」とイエスは言われます。とくに七番目の幸福が私たちの注意を引きます。「幸いなるかな、平和を実現する人々は、その人たちは神の子と呼ばれる」。

今日、語るのがこれよりも難しい幸福はありません。平和という言葉が曖昧な裏の意味を含めば含むほど、言葉の意味を定義するのが難しくなり、この言葉を発する度に、何を言おうとしているのかを定義するのが難しくなります。

私たちは平和を愛しています。誰もが平和を愛しています、彼ら自身の欲望が完全に満足させられている限りは。しかし各個人のとてつもない欲望が、その行き過ぎた行為によって平和を乱すのです。

平和は充足、満足、休息、秩序と平穏さという概念を含んでいます。キリストは十字架の血を通して、神と人とを和解させてくださいました(コロサイ1・20、ローマ5・1、エフェソ2・13、フィリピ4・67、イザヤ26・3)。

キリストが来られて私たちに教えようとされ、この平和を実現する人々の幸福で言われていることは、一方では、この世の物事への私たちの欲望を、聡明さと愛情をもって抑えるということであり、また一方では、私たちの最終的な運命に関しては、神性の本質に与る者となるという、可能性や想像をはるかに超えた私たちの願望を刺激するのです。

私たちの周りに平和を実現するためには、私たち自身の心と、また知性においても、平和を実現する必要があります。「平和を実現する人々は幸いである、彼らは神の子と呼ばれる」。

兄弟的な一致(マタイ5・21-25)

慈愛なしには、宗教的行為は神を喜ばせません。私たちの憤りを犠牲にすることは、血の犠牲を献げるよりも、さらに神にとって大切なものです。救い主はこれを確証しておられます。もしあなたが、あなたの兄弟姉妹である神の子どもたちと和解していないのなら、実際どうやって、あなたの父の怒りをなだめると主張することができるのでしょうか?

十二使徒の使命(マタイ10・12-13)

「あなたたちの行く所のどこででも、『平和があるように』と挨拶しなさい」。ですから、これこそが、使徒たちとその後継者たちが実践するべき平和の使命なのです。平和を与え、平和を強めるために、彼らは話し、働きます。救い主は地上に平和をもたらされました。使徒たちはそれをすべての霊魂の上に広げます。彼らを通して、私たちはこの祝福を味わいます。この平和無しには、この世の何物も楽しむことはできません。良心の平和、精神と心の平和、家庭と家族の平和です。

来たるべき迫害(マタイ10・34-39)

イエスは使徒たちに、彼の旗印の下に、戦いは不可避であると宣言されました。「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」。
イエスは戦いを引き起こすために来られました。主の福音を公にするにあたって、イエスは使徒たちの手に両刃の剣を置かれました。それは避けることのできない分離の剣です。
誰であっても、あなたの永遠の救いを危険にさらす者は、あなたにとって敵として扱われることになるでしょう。時々敵は、自分自身をあなたにとって親愛なる者として示します。家庭や、親しい交わりを持つ人々の輪の中で彼に出会う時、あなたはそれでも全力を動員して、彼を寄せ付けず、自分を傷つけないように防御しなくてはなりません。これがあなたのいのちを治められる方、あなたの救いの至高の仲介者が求めておられることです。「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」。

イエスは私たちに、イエスに不忠実になるよりもむしろ、この世のすべてを放棄するようにと忠告されました。
神は万物の主であられるのではないですか? もし主が万物の主であられるなら、最終的に首位の座に着く資格があるのは、主以外に誰かいるでしょうか? もし首位の座が神のもの、神お一人のものであるなら、神から首位の座を奪うことができるような愛着や利益があると、誰があえて主張するでしょうか? 衝突がある時、屈服すべきなのはどちらでしょう──造り主か、それとも造られた者か?

枝の凱旋(マタイ21・1-11、マルコ11・1-11、ルカ19・29-39、ヨハネ12・12-19)

救い主の凱旋の外観が控えめであればあるほど、主の栄光はもっと輝きます。まさに謙遜で、優しく、善良なるシオンの王であられることがさらにはっきりします。これが預言者が語ったあなたの王なのです。主は神の子、王の王、天使と人類の主、宇宙の絶対的な主人であられます。主は正しい者に報い、小さく貧しい者たちを守られます。主は弱い者の助け、虐げられた者たちのかたきを討たれるお方。主の言葉には真実のすべてがあり、その人柄には偉大さ、その生き方には聖性、その業には美があり、その業が突然、人々の目の前で注ぎ出されるのです。そして人々は叫びます。「天との和解がなしとげられた、義の支配が打ち立てられた、囚われ人に自由が与えられた、イスラエルは救われた。天のいと高きところに栄光」と。

聖霊降臨の約束(ヨハネ14・15-31)

「互いに愛し合いなさい! 私があなたがたを愛したように、あなたたちも互いに愛し合いなさい」。こう勧めた後、イエスは使徒たちに、彼らが永遠の至福を得られるよう働くために、彼らと離別することを理解させました。そしてすべての人生の終わりには、イエスのうちに、イエスを通して、天の父を見いだすことができることを宣言されます。「あなたがたは、私を愛しているならば、私の掟を守る。私は父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」。これが真理の霊です。

慰めの霊は悲しみのうちにある人々を支え、真理の霊は人々が証言すべき神秘を確信させ、愛の霊は掟を実践させるために彼らを和らげます。そして真実に聖霊を愛する人に、神と親しむ喜びを約束されます。イエスは使徒たちに、彼らが学ぶべきことのために、聖霊に聞き従うように促されます。あなたたちには教えに関する知性、戦う勇気、恵みによる聖別が必要だ。私が去った後、それらの全てを見つけるだろう。イエスが始められたことは、聖霊が完成されます。聖霊は彼らを祝福し、彼らの上に天国の平和を広げます。

「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな」。しかしながら、イエスが残してくださるこの平和とは何でしょうか。その果実とは何でしょうか? イエスの平和とは超自然的な賜物であり、元気づけ、癒やしをもたらす、全能のみ言葉の効果です。それは信じる者の心に直接働きかけ、落ち着かせ、不安に強くし、感情を和らげ、心をかき乱す苦しみを和らげ、大きな危機に際しても忍耐と勇気を引き出し、最も深刻な心配事に直面しても、喜びと平穏さを維持します。

これは世が与え得ないものです。世は言います、平和! 平和! 平和!と。しかしその言葉には効果がありません。その望みは不毛であり続けます。まるで夢想家のように思われます。

イエスだけが平和をお与えになります。使徒たちに平和を与えることによって、主は私たちにも差し出しておられます。彼らが受けたように、私たちも受け取りましょう。それを私たちの周囲に広げましょう。イエスは使徒たちに、ご自身の業を終えるにあたって、イエスを見て喜ぶように招かれました。「わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである」。
これはいったい何のことでしょうか? イエスにとって御父のもとに帰還するとは。つまり、栄光の懐、真理と平和の王国に入るということです。それは涙のうちに蒔いたものを、喜びのうちに刈り取るということです。これがイエスが理解されたことで、辱めの苦渋を通して、苦悶の不安を通して、私たちも理解するように望まれていることです。それは時間の経過のない、永遠の概念です。霊魂の平和は、この代価を払うことによって来るのです。

復活の夜(マルコ16・1-19、ルカ24・36-43、ヨハネ20・19-23)

復活したイエスは使徒たちを驚かせました。イエスは彼らに挨拶し、安心させました。「その日、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」。
イエスはこの躊躇する人々に悟らせるために来られます。教え導き、安心させ、歓喜させるために。イエスの甘美な挨拶を受け取りましょう。あなたがたに平和があるように。私である。恐れるな。イエスは嵐が頂点に達した時に、これらの言葉を語られました。これから苦しみ、死に向かう時に、これらの言葉を繰り返されました。イエスはふたたび言われます、その復活の夜に。「あなたがたに平和があるように」。私である! 私は忠実である、私は約束を守った、私はあなたたちに愛されるに値すると。イエスが広められる平和に対して、私たちの霊魂を開きましょう。どんな心配も鎮めましょう。イエスの視線のもとにあって、私たちは永遠に安全です。イエスは使徒たちに、ご自身の復活の真実についてお知らせになりました。「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ」。イエスはご自分の手足と脇腹を示されました。さらに、ご自分の民に、ご自身の復活の新しい証拠を与えることを望まれました。「ここに何か食べ物があるか」と言われたのです。

私はあなたたちの食卓に着いているのだから、当然、私があなたたちが知っていた者であることを理解してもらいたい。ガリラヤの村々でのあなたたちと生活を共にした者であることを。私の父が栄光化したこの体は、本当にベツレヘムで生まれた者であることを。そしてイエスは、使徒たちに罪をゆるす権威をおごそかにお授けになります。イエスは戻ってきて言われました。「あなたがたに平和があるように」と。

「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」。そう言われてから、イエスは彼らに息を吹きかけて言われました。「聖霊を受けなさい。 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」(ヨハネ20・22)。イエスが弟子たちに与えられた慰めは、救いの業のために使われなければなりません。イエスは全ての人のために死なれました。その死の果実は、全ての人に適用されなければなりません。皆のために、和解の掟が制定されなければなりません。それは罪人たちに、回心とは一つの復活であることを明らかにします。十二使徒の一人であったトマスは、ディディモというあだ名を持ち、イエスが使徒たちのところに来られた時には不在でした。8日経ち、弟子たちが再び集まると、トマスも一緒にいました。トマスは疑り深い使徒で、こう言いました。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」 (ヨハネ20・24-25)。

彼は、感覚による経験を通して、信仰の進歩を探求する者の一人です。信じる対象を指で触りたいのです。見たので信じます。彼は間違っています。私たちは神が言われたことを信じなければなりません。なぜなら神がそう言われたからです。神の言葉を信じるために、神に条件をつけるのはあまりにも僭越なことです。イエスは信じない使徒トマスの確信に挑まれます。閉まっていた戸口から入ってきて、使徒たちの間に進み、こう言われました。「あなたがたに平和があるように!」私は(最後の晩餐の時に)上の部屋であなたたちを元気づけた者、あなたたちが勇気を持って、一緒にラザロの墓まで同行した者であると。

主人がその弟子たちを探しに来られます。敵がもたらしたイエスの苦しみの全ては、罪人に対する彼の優しさを大きくするだけでした。霊魂が破滅の危機に陥るなり、イエスは急いで来られます。ですからイエスは使徒たちに最後の不安を癒やし、最後の疑いを取り除くために来られます。トマスに向けてこう言われました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」。それは主人による、弟子たちに対する最上の瞬間です。あなたが十字架につけられるのを見、脇腹を槍で刺し貫かれるのを見た、私がその者である。私を認識しなさい、そうするならあなたたちは、あなたたちの兄弟の霊魂に私が注いだ平和と喜びを分かちあうであろうと。

トマスはこれに答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言いました。喜びの叫び、愛の叫び、悔い改めの叫びです。するとイエスは再び続けました。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである!」(ヨハネ20・29)。

ですから、人の心をやわらげるものは、理性がもたらすはかない確信ではありません。私たちをやわらげ、幸福にするものは、神の言葉のみに信頼する、信仰の信念だけです。

カルタゴの司教であり、西暦258年に殉教したキプリアヌスは、教会の一致は基本的な必要条件だと見なしていました。彼は論文の一つを聖霊に奉献するほどでした(*1)。彼にとって、聖霊は平和と調和の本質です。聖霊が鳩の姿を取って現れられたのには理由があります。キプリアヌスは鳩の象徴、平和のイメージを、教会そのものにまで拡大しました。「聖霊が雅歌の中で『わたしの鳩、清らかなおとめはひとり。その母のただひとりの娘、産みの親のかけがえのない娘』と言った時、心の中にこの唯一の教会を持っておられました」(*20)。

それゆえ、信じる者たちにはただ一つの家があります。唯一の教会です。この家を治めている調和こそ、聖霊が詩編で「神は同じ家の中で、同じ考え、同じ気持ちを持つ人々を一つにされた」と言われた時に、心の中に持っておられたものです(*3)。つまり、神の家、キリストの教会には、共通の信仰の絆によって互いに一致した、素朴な霊魂たちが住むのです。これが、聖霊がご自身を鳩の形で示された理由です。

鳩は素朴で喜ばしい鳥です。厚かましくなく、乱暴でもありません。鳩がくちばしや爪で引き裂くことはありません。鳩は人間の家を好み、一つの巣に定住します。鳩はひなを共同で育て、一緒に飛んで、互いに強い絆を持ち、家族として生活し、触れあうことによって愛情を示します。一言で言えば、鳩は同じ感情を分かち合っているように見えます。ですから、私たちも教会において、この素朴さと慈愛を持ちましょう、それは私たちを鳩にします(*4)。

鳩の象徴、平和のイメージは、教会に適用されることもあり、聖霊に適用される時もあります。聖霊と教会の間には、一種の相関関係のようなものがあります。聖ヨハネはこれをはっきりと認めましたし、エイレナイオスはこれをかなり強調しています。さらに聖アウグスティヌスは、霊と平和の間の関連性を立証しました(*5)。この概念は、アレクサンドリアの聖シリルにも見られます。そこには主の言葉が含まれています。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える」(*6)とは、「私の聖霊をあなたがたに残し、わたしの霊を与える」ということを意味する。主は言われる、もしキリストを「私たちの平和」と呼ぶのであれば、キリストの霊である聖霊もまた「私たちの平和」なのだと(*8)。もうひとつ興味深いことは、平和は霊に帰属するという考えは、実は聖パウロにまで遡ります。「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。……」(*9)。.

*1 聖キプリアヌス、教会の一致について(De Ecclesiae Unitate)PL4,493-520
*2 雅歌6・1
*3 詩編68(67)・7
*4 聖キプリアヌス、教会の一致について 3と5
*5 聖アウグスティヌスAd Romanes, 11 PL 35,2095 ; In Johannem,14 PL « 35,1508 (B.A. n°71, p43;
De Trinitate, VI,9 et 10,PL 42,930-931 (B.A. n°15, p.493, 495)
*6 ヨハネ14・27
*7、*8 エフェソ2・14
*9 ガラテヤ5・22