2019年ギリシャ巡礼・ジャルレ牧師

デンマーク

親愛なるヴァスーラさん、そして兄弟姉妹の皆さん、

皆さんとご一緒できるこの機会を感謝いたします。

何年も前にヴァスーラさんに私たちのセンターを開放させていただいたのですが、その時彼女は、天の御使いたちを代弁しておられましたが、私はその御使いたちにあまり馴染みがありませんでした。ですがその後、私は「木をその実によって見分ける」ことを学び、デンマークの人々のうちに悔い改めとキリストに結ばれた新しい命を見るようになり、深い尊敬の念を覚えました。
「神のうちの真のいのち」の巡礼に初めて参加した時、私の心はわしづかみにされ、目が開かれました。再びそこで「実」を見ることができ、人々のキリストへの愛がどれほど燃え上がっているかを知りました。

聖パウロは私たちのためにこのように祈っています。『(どうか御父が)信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。またあなたがたが全ての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさの全てにあずかり、それによって満たされるように』(エフェソ3・17−19)。

あらゆる異なる背景を持ちながらも、私たちが食卓を囲んで互いの証しを聞き合い、共に祈り、様々な形式のミサに共に与ることは、私にとって一つの「三位一体の体験」です。つまり、神とあなたと私が共にいる場において、より一層キリストの愛をいただくことができるということなのです。兄弟姉妹の皆さん、ありがとうございます。

神の愛とは?
聖ヨハネは「神は愛です」と言っています。
「愛」という言葉は、利己心の最たるものから犠牲心の最たるものまで、全てに使われます。誰もが愛について歌い、誰もが愛を望んでいますが、必ずしも愛が何であるかを知っているわけではありません。ヨハネの福音書3章16節には愛についてより詳しく書かれています。『神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである』。

神の愛は、自己犠牲であり、寛容で、勇敢、危険も伴います。
主は全世界に対してご自身をお与えになりました。私たちに受け入れられるという保証も無いまま、神は世を愛されたのです。
正しい者や忠実な者、聖なる者や選ばれた者だけではなく――私たちのような人々だけではなく――世を――人類全てを。
結論:独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

神の愛は道です。
それは同意するだけでは十分ではありません。一致すること、共通理解、思いやり等。

私たちはそれぞれ車輪のスポーク(輪止め)のようなものです。
スポークは全部を同時に押せば押すほど、全体が曲がってしまいます。
しかし私たち全員が中心(ハブの部分)に向かって行けば行くほど、私たちは互いに近づくのです。

問題点:私たちは皆、罪ゆえに堕落への傾きを持っています。
罪に心を開くと一致が崩れます。私たちと神との一致、私たちの互いの一致、更に自分自身の中にあるべき一致も崩れます。
私たちは覆い隠すことの達人です──隠すこと──他者を責めること──比べること──分類すること! その結果、自分が優越感を持つ等のため。
宗教的に──私たちは選ばれた民です。道具となる恵みを受け、より優れた者に変えられます。
国家的、民族的な対立──悪の行為を正当化する敵が、人間性を喪失させるということ。
政治的、経済的──人間が生産品の価値や値段/利益を低下させるということ。

従って私たちは、自分自身と互いに対する神の愛を知るために、罪と誘惑を認めて告白する必要があるのです。

そして車輪の原則をいつも思い出してください。
・全ては中心から始まるということ。
・中心に近いところほど、完全な一致に近づくこと。
・互いへの理解と信頼が深まっていくほど、より遠くまで共に進んで行くことができ、車輪はより大きくなるということ。

フランク・シナトラは(『マイウェイ』の歌の中で)「私は自分のやり方で成し遂げた」と歌いました。でもごめんなさい、私たちには「自分のやり方」は無く、ただ「主のやり方」、「神のやり方」しかありません。

ヴァスーラさん、あなたの勇気と神の呼びかけに対する忠実さに感謝いたします。主の聖なる民である兄弟姉妹の皆さん、共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解させていただけたことを感謝いたします。