2019年ギリシャ巡礼・サイモン・アタラー名誉司教

アントニオ・マロナイト修道会
レバノン・バールベックと北ベッカーのマロン典礼カトリック教会

一致、愛の果実

前置きとして、二つの私見

a – 私はカトリック信徒としてお話しますので、私のスピーチは「キリストが私の主である」と証言する信仰宣言に基づいていることを表明しておきたいと思います。

b – それゆえ、私のお話のテーマを聖ヨハネの福音書(13・34)から取りました。イエスが弟子たちに「あなたがたに新しい掟を与える」と言われたところです(レビ記19・18も参照)。この確約と申命記5章とを合わせて、イエス・キリストはモーセの掟(マタイ22・37-39も参照)の核心部分を回復させておられます。すなわち、イエスは律法を廃止するためではなく、完成させるために来られたという掟の基本原理です(マタイ5・17)。

この教えの斬新さ

モーセの指示が掟に支えられている一方で、イエスの全ての教えは、ご自身が実践されたように、愛に基づいています。「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」。イエスは、ご自身が友人と呼ばれた弟子たちへの格別の信頼を、行動によって示されました。彼らの足を洗ったのです(ヨハネ13・1-20)。イエスはまた、ご自身を兄弟たちや友人たちに委ねられました。主は彼らに、ご自身が教えられた通り、他者に仕えるように招かれました。「主人に勝る僕はいない」(ヨハネ13・16)。弟子たちは主イエスとの親密な友情を喜びます。

主は私たちに対しても、同じように信頼を示されます。主が弟子たちと持っていた深い関係を、私たちとも築きたいと望んでおられます。さらに主は、そのみ業を私たちが続けるようにと招いておられます。私たちを通して、主のメッセージが今日の世界のそれぞれの世代に到達するように、私たちが主の仲介人となることを、どれほど期待しておられるでしょうか? これが私たちの召し出しです! イエス・キリストにあって、この命令は一つの国には限定されません。それは人類全体に到達しなければならないのです。私たちの証しを通して、全人類の心に触れなければなりません。イエスは私たちに期待しておられます。主が自ら命令されたこの愛こそが、世界平和を築く唯一の手段であり、人類の間に一致を築く唯一の手段なのです。

ダマスカスへ向かう道中にパウロが出会ったお方は、道、真理、いのちであられます。この方へと回心し、私たちの進む道を変えて、従うべき唯一の道を制定されます。そうです、この道、この真理、このいのちは、復活され、死に打ち勝たれた方と同じものです。ダマスカスへの道中でのパウロと主の出会いは、サウロの人生を完全に変え、彼の敵対する計画を全て変えてしまいました。それは道徳上の回心ではなく、精神上の回心、あるいは懲罰による回心でもありません。むしろ、霊的な状態の大きな変化であり、結果として、存在の状態の大きな変化となるのです。キリストに捕らえられたサウロの人生の全てがです。パウロはこの出会いが、どれほど彼の心を完全に満たしたかを説明しています。熱心なファリサイ派であろうとしていましたが、ご自身をお示しになったお方のうちに真理を見いだします。パウロにとって現実となったこの真理によって、自分の全てであったものを、今では損失と見なしていると断言することができるようになりました。なぜなら、主キリストを知るということの素晴らしさは、他のすべてを超えているからです(フィリピ3・8)。このキリストへの知識が、主との交わりを築きました。サウロは自分自身をキリストに差し出し、主に頼ることを受け入れ、自分の全生涯を主に支配していただくことまでも承認しました。復活したイエスとの出会いによって、パウロは新しい人となる経験をしたのです。

ですから、これは復活したキリストを認識し、主の復活の力を認識し、主の苦しみにあずかって、その死の姿にあやかるということなのです(フィリピ3・10)。この死は、キリストがご自身を無にされたという、神性の放棄であり、主が身を低くされ、十字架の上で死なれたということです。パウロが主の復活によって理解したのは、イエス・キリストは、最も正しいお方としてふさわしくなるために、その御力の全て、その心の全て、そのご意志のすべてを、掟ではなく受難によって獲得された方だということです。キリストに従いたい者は誰でも、十字架と受難の道を通っていく必要があります。「私について来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」(マタイ16・24、マルコ8・34)。

この根本的な回心によって、パウロは自分が設定したゴール、キリスト者がいるところならどこでも迫害する、というゴールに向かって走ることはもはやなく、主イエスが示されたゴールへと向かいます。パウロはすでに理解していました。もし彼が急ぐとすれば、彼はイエスの側からの呼び掛けに従ってそうするのだと。イエスはパウロを非常に愛され、パウロの永遠のいのちを確かなものにするために、ご自身のいのちを与えてくださったのですから。

一致、愛の果実

そうです、神の愛は私たちを共に一致させます。聖パウロはエフェソの信徒への手紙第3章で、私たちに、愛に根ざすように勧めています。なぜなら、これによって私たちは、人の知識をはるかに超えるキリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さが、どれほどであるかを知ることができるようになるからです。私たちはこの愛に深く満たされて、神の満ちあふれる豊かさの全てにあずかり(エフェソ3・17-19)、神と一致することができるようになります。実際、私たちは一つになるでしょう、キリストが御父と一つであるように。「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。……彼らが完全に一つになるためです」(ヨハネ17・21-26)。

家族のレベルでも、共同体のレベルでも、教会、そして人類のレベルにおいても、この一致は、キリストの愛によって、また私たちが主に根ざすことによって私たちの中で成長した、「内なる人」のしるしなのです。この二つの現実は、私たちが霊の神殿となることができるように、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかるために(エフェソ3・19)、キリストを私たちの心のうちに住まわせ(3・16-17)ます。このようにして、イエスと御父は、私たちを神が休息する場所へと変容させられるのです。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む」(ヨハネ14・23)。

親愛なる友人の皆さん、

この兄弟的な集まり、このギリシャ巡礼には、公式な権威はありませんが、親切にも「神のうちの真のいのち」の運動によって運営されています。そしてとくに、ヴァスーラ・リデン様は、私たち皆にとって、恵みであり続けておられます。私たちはこの巡礼をそのようなものとして味わい、人類の一致のために共に祈りたいと望みます。並外れた恵みであるこの集まりを味わうように私たちを呼ばれたのは、主です。そうです、私たちはこの恵みを共に味わい、過去数世紀の何世代にもわたる無知と相互不信の埋め合わせをしたいのです。私たちの差異にもかかわらず、時には大きな違いがあったとしても、私たちは皆神に愛されており、神の御子イエス・キリストと、神の愛の霊によってあがなわれたと知っています。

多くの場合、特にローマ、モスクワ、今回のギリシャ巡礼でも、次回どこかで行われる巡礼においても、私たちはお互いに、尊敬と友情を獲得しています。私たちを分裂させた論争に関して、互いに意見する驚くべき自由を見つけました。私たちの対話における、教義の役割を軽視することはできません。しかしそれは、共に真理へと向かう私たちの旅路において、正当な場所に配置されるのが適切です。神の霊、愛の霊が、私たちを正しい道へと導いてくださいます。神に従う勇気を持ちましょう、なぜなら、主は私たちを皆一緒に救いたいと望まれる、神の霊であられるからです。

「人は一人では生きていけない」と言われます。私たちは皆、一つの体を構成する者であり、皆が互いにとって兄弟です。誰も一人では幸福になれません。私たちは皆、死に打ち勝たれ、いのちを得たお方によって救われたのです。問題は信徒たちの間の一致だけではありません。何よりも、外の世界に対して、私たちが共に証ししなければなりません。私たちは皆、同じ家族の兄弟であり、同じ神の子どもたちであるという証言を、誰かが宣言し、公言しなければなりません。それは他の人々には知られていないのです。互いへの愛とは、唯一の救い主が説き、勧めたように、人類の救済のための土台なのです。「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13・34)

これを行うためには、私たちはそもそも個人として、あるいは集団としての記憶を清めなければなりません。互いにゆるし合うことによって。私たちのうちに神の愛が成長し、神の霊に導かれて、愛のうちに真理を告白し(エフェソ4・15)、全てをゆるす兄弟間の慈愛(1コリント13・5と7)へと結実するためには、これが必要な条件です。

最後に、互いにゆるしあうことによって探求する清めは、愛に満たされた心の深い所から来る、熱心な祈りを通してのみ起こりうるということを認めたいと思います。今日熱心に探し求められている、失われた一致を築くために。それによって、世が信じるようになるために。

ご静聴いただきありがとうございました。