2019年ギリシャ巡礼・ジョルジュ・ハダッド府主教
<互いへの神的な愛は、私たち皆を神のうちに一つに結ぶ>
1. 見返りを求めない霊的な愛(無条件の愛)
見返りを求めない愛は、私たちを大らかにし、他者のうちに神を見いだす助けとなります。
無条件に人を愛することができるということは、私たち皆が切望していることですが、それをやり遂げるのは現実には困難だと気づきます。一般的に、私たちが誰かを愛すると言う場合、そこには大きな期待が込められており、条件付きの性質を帯びています。自分の望みに反することをされるや否や、その人に対する愛は冷めてしまうのです。
しかし、霊的な愛、もしくは無条件の愛は、本来神聖なものであり、状況に左右されません。そのような霊的な愛は、聖人たちや、霊的歩みに進んだ人たちのうちに見いだされます。霊的な愛において、人は自分自身より他者への思いの方が大きいのです。
けれどもこの霊的な愛(無条件の愛)は、多くの霊的実践を通して成長します。その結果、自分自身を克服し、他者のうちに神の原理を認識することができるようになるのです。
見返りを求めない純粋な霊的愛(無条件の愛)が成長し始めると、喜びと満足を体験します。見返りを求めるこの世的(世俗的)な愛は、自分と他者の性質の類似点を基盤としています。とはいえ、自分の性質が、あらゆる側面において他者のそれと類似していたり、あるいは補完的であったりする保証はありません。互いの違いを見いだすや否や、衝突や困難が始まるのです。
他方、霊的な愛(無条件の愛)は、「不変の霊魂」を基盤としています。それは玉の形や色、大きさ等を問わずにつないでいる真珠のネックレスの糸の状態に似ています。外見の特徴は重要ではないのです。
『霊的な愛は永遠で、他者とのやり取りや交わりであり、いと高き神に向かって超越していくものである一方で、世俗的で情欲的愛は物質的、自己中心的、刹那的なものに過ぎない』。(ジョルジュ・ハダッド)
2. 神は私たちにご自分の民、またご自分の愛する者となるよう呼び掛けておられる
神の教会は、互いに愛し合う罪びとによって形成された一つの民であり、霊的な愛を通して、触れ合う者皆と分かち合い、互いに造り上げ、癒やし合います。それゆえ神の教会は、神の愛のうちに結ばれた一つの民なのです。
聖パウロはローマとコリントの信徒にこう言いました。
『私たちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。』(ローマ12・5)
『さて、兄弟たち、私たちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。』(一コリント1・10)
『終わりに、兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。』(二コリント13・11)
3. プライドは一致の障害となる
プライドは一致を妨げる最大の障害であり、分裂の源です。
互いを上から見下し合ったり、自分が他者よりも優れているとか、より霊的であるとか、より神に近いなどと思ったりすると、プライドが心の中に入ってきます。
プライドは、通常、自分はキリストの体において他の部分よりも、あるいは他の神聖な被造物よりも優れていると無意識のうちに感じる感情です。
十字架のそばに、また苦しみや犠牲のそばにとどまらなければ、無意識のうちにプライドが侵入してきます。
プライドは霊的な問題であり、主のそばにとどまることによってそこから解放されます。それは互いを分類し合うことへの熱中を引き起こし、キリストの体の一致にとって重大な障害となります。
罪を告白することを学び、互いにゆるし合い、分かち合うことに心を開き、互いに謙遜になり、祈り、全人類の造り主である神の栄光をたたえ、互いを変えようとせずに一緒に宣教することを共に学んでいきましょう。
4. 私たちは互いに互いの者である
神に属している者は皆、一つの家族の一員であり、神の恵みの相続者です。
ちょうど一つの普通の家族において、他の兄弟よりも仲の良い兄弟がいたり、より多くの共通点を持っている兄弟がいたりするように、神の家族においても同じことがあります。
地上の家族においては、自分とタイプが違っているという理由だけで兄弟を否認することはありません。
同じように、教会においても、私たちは互いに互いの者なので、他のメンバーを否認することがあってはならないのです。
聖パウロがエフェソの信徒への手紙で次のように言っているように、人間社会では、ゆるしと規律なくして一致はあり得ません。『互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたをゆるしてくださったように、ゆるし合いなさい。』(エフェソ4・32)
5. 『エフェソの信徒への手紙4章と5章』で聖パウロが語る一致について
エフェソの信徒への手紙の4章と5章には、イエス・キリストの十字架の死を通して与えられた一致を保つために、私たちが育まなければならない規律と態度について書かれています。
4章(エフェソ4・1‐3、4・13)で、聖パウロは私たちに対して特にこのように述べています。
『平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。……ついには、私たちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。』(エフェソ4・3、4・13)
エフェソの信徒への手紙4章
1節『そこで、主に結ばれて囚人となっている私はあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、』
2節『一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、』
3節『平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。』
13節『ついには、私たちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。』
ここで聖パウロが使っている「高ぶることなく」、「柔和」、「寛容」、「互いに忍耐し」という言葉にはどのような意味があるのでしょう。
「高ぶることがない」とは、誰かに対して罪を犯してしまったり、傷つけてしまったりした場合に、正しい秩序を取り戻すために必要なことはどんなことでも喜んで行うという意味です。
「柔和」は、自分たちのやり方を強要しないよう、また他者を押しのけて突き進もうとしないよう促します。
「寛容」は、たとえ相手が間違っていても、その人を愛し、待つ心を意味します。
「互いに忍耐し」とは、互いの弱さにおいて助け合うことです。
批判的な思いは、人間社会の一致に対する最大の敵の一つです。ですから私たちは自分の話す言葉や、他者への助言(必要ならば)において慎重でなければなりません。そしてどのような否定的、批判的思いも避けなくてはなりません。
『無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。』(エフェソ4・31)
*互いに互いの者であるということ:
『だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。私たちは、互いに体の一部なのです。』(エフェソ4・25)
*愛をもって真理を語りなさい:
『むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。』(エフェソ4・15)
*建設的な(造り上げる)発言をしなさい:
『悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。』(エフェソ4・29)
6. 建設的な(造り上げる)品性とは
最後に5章において聖パウロは、私たちが聖霊で満たされ、主を礼拝し、互いに励まし合い、全てのことについて父である神に感謝するよう招いています。
エフェソの信徒への手紙5章
18節『酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、』
19節『詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。』
20節『そして、いつも、あらゆることについて、私たちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。』
識別や励まし、慈しみに満ちた行い、こうした品性は偶然に身につくものではありません。それらは、自分の考え方と一体化され、自分の日々の態度や行動に反映されるまで育まれる必要があります。
神の現存のうちに祈りの時間を持ち、どうすれば神のうちにあって自分の周りの人々を愛し、励ますことができるかを神に問う必要があります。
結論
教会が愛のうちに一つとなるなら、教会は愛に満たされ清められるでしょう。そして自らが模範となって、この世に火を燃え上がらせることができるでしょう。
神が私たちに恵みをお与えくださり、夫婦において、家族において、私たちの教会において、私たちの社会において、この一致を生きることができますように、そして外の世界も、神と神の聖なる愛を信じるようになりますように。なぜなら世は私たちの証しの正統性を目の当たりにして、主が再臨される時にイエスに立ち戻るでしょうから。
主よ、あなただけが困難な兄弟関係を変容させ、兄弟たちを世にあって調和させることがおできになります。そしてあなたの平和があなたの民のただなかにとどまるのです。
詩編133編の以下の節を読みましょう。
1節『見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び!』
2節『かぐわしい油が頭に注がれ、ひげに滴り、衣の襟に垂れるアロンのひげに滴り』
3節『ヘルモンにおく露のようにシオンの山々に滴り落ちる。シオンで、主は布告された、祝福と、とこしえの命を。』
最後に
読書と黙想のためだけに
聖パウロの他の手紙で私たちのテーマに役立つ参考箇所を読みましょう。
ガラテヤの信徒への手紙4章8‐9節
『ところで、あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。』
テサロニケの信徒への手紙一 4章3‐5節
『実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。すなわち、みだらな行いを避け、おのおの汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活するように学ばねばならず、神を知らない異邦人のように情欲におぼれてはならないのです。』
エフェソの信徒への手紙4章17‐24節
『そこで、私は主によって強く勧めます。もはや、異邦人と同じように歩んではなりません。彼らは愚かな考えに従って歩み、知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。そして、無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません。しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。』
フィリピの信徒への手紙1章9‐11節
『私は、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。』