2019年ギリシャ巡礼・ヴィンセント・コサッティ神父

互いへの神的な愛は、私たちを共に神のうちの一致へと結ぶ

「愛はもし分かち合わないなら、もはや愛ではありません」。これはマザー・テレサが語った言葉です。本物の愛とは何か、まことの愛とは何か、イエスが「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい……」(ヨハネ13・34)と教えられ、私たちに生きるようにと命じられた愛とは何かを示すために、マザーはこのように言いました。

「愛はもし分かち合わないなら、もはや愛ではありません」。それゆえ、他者と分かち合う交わりの中に、まさに愛の本質が見い出されるのです。重要なことは与えることであり、私たちの中にあるものを最大限まで与えることです。5つの賜物を持つ人も、二つの人も、一つだけの人も。どれだけ与えたかは問題ではありません、なぜなら、幼きイエスの聖テレジアが言う通り、「愛するとは与えることであり、自分自身を与えること」だからです。もしイエスに言い換えていただくとすれば、イエスは「あなたが持っているものを全て与えなさい、後は私が行う」とおっしゃるでしょう。そして奇跡が叶うのです。私たちの隣人の心の中で、主がいつ、どこで、どのように行われるのか、心配しないようにしましょう。当たり前のことですが、与えることには、受けるよりも大きな喜びがあるのではありませんか?

「神のうちの真のいのち」の仕事を私たちにも与えようと主を動かしたのは、この分かち合いへの配慮です。主はヴァスーラに言われました。「私が持っているものを全て分かち合うために、あなたを選んだ」(88年10月25日)。そして私たち皆にもこのように言われています。「あなたの霊魂を目覚めさせ、私の王国を分かち合うために、あなたに全てを与えた」(89年10月2日)。「持ち物を分かち合うようにと友人を招く人のように、私も、私の持ち物を分かち合うようにあなたたちを招いている」(90年12月19日)。「来なさい! 私の王国に来て、私が持っているものを全て分かち合いなさい」(91年4月14日)。

それゆえ、愛の純粋さは、愛に不可欠なものとして、賜物を通して分かち合います。特に、自分自身を賜物として、私たちが所有している物の全てをです。だとすれば、その一方で、罪にはこの分かち合いが欠如しています。それは利己的にも、全てを自分自身のために取っておこうとします。自分の倉を取り壊し、もっと大きな倉を建てることにしか関心のない福音書の中の登場人物のように。この人は穀物や財産を全部しまってから、自分自身にこう言います。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。 しかし主はこう言われるでしょう。『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と(ルカ12・16-21)。

ですから、これが私たちの分裂の起源なのです。分かち合うことなしに一致は不可能です。主は私たちに非常に明確に言われます。「一致するとは、聖体拝領を分かちあい、聖体における私の現存を信じる事である。一致するとは、私の子よ、持っているものと自分自身を互いに与える事である」(91年4月13日)。

私たちが誰なのか、何を持っているのかを分かち合うのが、今これほど難しいのはなぜでしょうか? その理由は、皆さんご存知でしょう、見知らぬ他者に対する恐れにあります。なぜなら、あまりにも多くの決め付け、あるいは利己主義、嫉妬、高慢さといったものが、しつこくがなりたてられているからです。確かなものはほんのわずかだけです。この分かち合いの困難さを正しく古典的な方法で明らかにしようとするなら、それは、自分たちは真理を独占していると信じる思い込みにあると言えます。それは、他者を自分の持つイメージと似姿によってのみ理解し、解釈するということです。「鏡よ、私の美しい鏡よ、世界で一番美しいのは誰?」これが私たちの考えることの全てです。私たちはどういうわけか、自分たちの病的で一方的なものの見方を好むのです。

この現実を説明するために、砂漠の教父たちはある短いお話を教えてくれます。お互いにとても愛し合っている二人の隠遁士がいました。彼らは毎日、兄弟愛と喜びをもって、持ち物を互いに差し出していました。それからある晴れた日、彼らが隣り合って座っていると、小さな鳥がちょうど彼らの前に下りてきました。彼らはこの鳥について議論し始めました。一人はこれはツバメだと考え、もう一人は多分ゴールドフィンチだと考えました。次第に、ゆっくり、しかし確実に、この議論──ツバメなのか、ゴールドフィンチなのか?──によって、彼らは口論するに至り、殴り合いのケンカをするまでに至りました。

人は隣人をたびたび助けるために、多くの貢献を提供することができます。しかしこれは、この人自身の考えや、この人の現実のものの見方をあきらめるように求められない限りにおいての話です。個人としての考え方に反対されると、人はほとんどの場合、気分を害してしまいます。そして互いに無関心になり、拒否するようになって、罠に陥ります。それはしばしば、他者が持つ多様性への関心の不足と、個人間の関係の断絶によって終わります。私と違うものに興味などないと。

しかしながら、私たちに宿っている真理を他者に納得させることができるのは、知的、合理的な論拠ではありません。むしろ、自分自身の賜物を証しする能力によって決まるのです。主は言われました。「私の心が選んだ者たち皆に伝えなさい。伴侶は彼らの必要を満たそう。彼らのうちに、誰もが真の証しを見いだすように。彼らの分かち合い方を通して、彼らのうちに真実があることを誰もが知るように」(92年9月17日)。

同じように、神的な愛のまさに本質を言いあらわす最後の側面を付け加えたいと思います。それは憐れみです。主は言われました。「互いに愛し合いなさい、互いに平和を保ち、ゆるしなさい、私があなたの罪をゆるすように、悪を愛で返しなさい、善良でありなさい! 完全でありなさい!」(88年7月14日)。そしてこう言われます。「ああ、愛する霊魂たち、天からの私の叫びを聞くように。『私の神聖な愛によって、あなたたちの心を満たしなさい』。心を満たし、互いにゆるし合うことを学び、互いに裁いてはならない! 互いにゆるし合うなら、一致の小道を歩み始める、隣人を裁かないなら、あなたはまことに私のものと呼ばれる」(89年2月20日)と。

皆さんは「あなたたちの心を満たしなさい!」という天からの叫びを聞きました。確かに、使徒パウロが言う通り、「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれている」(ローマ5・5)なら、私たちの言葉には効果があるでしょう。そして主は、私たちにそのみ言葉を思い出させ続けておられ、このことを確証しておられます。「私はこの日々、喜びをもって教えてきた。もし彼らのうちに私の神の愛が流れるのを許してくれるなら、私の息子たちと娘たちが皆どのようにして、参与によって神々となることができるかを。彼らの中で私の統治を拡大し、彼らを私の所有としたい、彼らにも私を所有してもらいたいからだ」(99年6月30日)。