2019年ギリシャ巡礼・マルコス・ゲブレメディン司教

2019年ギリシャ巡礼・マルコス・ゲブレメディン司教

(ヴィンセンシオの宣教会)
エチオピア

「神のうちのまこと のいのち」のヴァスーラさん、
ヴァスーラさんと親交の深いテオドラさん、
司教の皆さん、招待された皆さん、
「神のうちのまこと のいのち」の読者の会の方々、協力者、友人の皆さんへ

私たちをご自身の子どもとして招いてくださり、このような恵みに満ちた時間を私たちが共に過ごし、神の愛について、また真の神のうちにおける私たちの一致について、深く考えるよう導いてくださった神に感謝いたします。熟考するべく与えられ、皆さんに提示させていただくテーマは「互いへの神的な愛は、私たちを皆、神における一致へと結びつける」というものです。ヴァスーラさん、このような重要な集いに、また恵みに満ちたこの機会にお招きくださったことを、そしてあなたの信頼と確信に対して感謝いたします。

まず、私たち人間に対する神の愛とは何なのでしょう。万物を創造された神は、人間を他の全ての被造物に勝ったものとして、特別な方法で創造されました。神は人間をご自身の似姿に創造され、愛し続け、世話をし続け、共に居続けてくださっています。イザヤ49章15節には、『女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも、私があなたを忘れることは決してない』とあります。

神は人間を、増え続けるように、互いに助け合い続けるように、愛し合い続けるようにと創造されました。人間は自分の関わる状況において、あるいは日々の生活の中で、困難や問題にぶつかる度に、神の愛を疑います。しかし確実に、神の愛は不動であり、変わることがなく、無条件であり、神ご自身の本性に根差しています。

申命記7章9節には『あなたは知らねばならない。あなたの神、主が神であり、信頼すべき神であることを。この方は、ご自分を愛し、その戒めを守る者には千代にわたって契約を守り、慈しみを注がれる』とあります。神が私たちにお与えになった戒めとは、「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神を愛し、同時に、隣人を自分と同じように愛しなさい」というものです。主は、ヨハネによる福音書15章12節でこう言われました。『私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の掟である』。

神の愛は無条件です。愛が神の本性から流れ出ているという事実は、私たちが神と隣人を愛さなければならないことを理解する上で最も重要なことです。イエスは『私と父とは一つである』と言われ、同時に、私たちも一つになるよう祈られました。

ヨハネの手紙一の4章7‐8節にはこう書かれています。『愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです』。神の愛は全ての人に対して平等です。なぜなら神は全ての人に太陽を昇らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです(マタイ5・43‐45)。そして主は御父の愛と私たち皆への愛ゆえに十字架の上で死なれました。

ヨハネによる福音書17章11節には、イエスはご自分の弟子たちのために祈ったとあり、それは弟子たちが神にささげられた新しい聖なる民となるためでした。イエスは天を仰いでこう祈られました。『父よ、私に与えてくださった御名によって彼らを守ってください。私たちのように彼らも一つとなるためです』。この時イエスは教会のために、すなわち、ご自身の使命を委ねた人々のために祈られたのです。教会の第一の務めは神を知り、神のみことばを内面化し、祈りのうちにとどまり、愛を宣べ伝えることです。なぜなら、神を知ることによって善い業(わざ)と愛が生じるからです。教会は、一つに結ばれることによって、この分裂の世における「一致のしるし」となり続けるべきなのです。神を宣べ伝えるだけでは十分ではありません。私たちは行いを通して、愛に満ちた唯一の神の子どもであることを証ししなければならないのです。

私たちは誰も、一人では生きていけません。互いを必要としています。この惑星において、私たちは誰も自分自身だけで、また自分自身のためだけに生きることはできません。皆、仲間を必要としています。私たちは互いのために造られているのです。人生において私たちは、他者の何らかの協力を必要としています。病気になれば、助けてくれる医者が必要になります。心配を抱えれば、慰めてくれる人や、より良い解決が得られるよう助けてくれる人が必要になります。また国家や大陸のレベルで働く人たちは、国民全体に対して気配りや思いやりを示さなければなりませんし、何より、異なる信条や宗教的背景を持った人々も大切にしなければなりません。自分自身と同じように、その人々にも他の信仰告白が必要であることを感じなければならないのです。彼らも同様に神の子どもなのですから。一致と協調は不可欠のものです。愛あふれる神は、他者を神の目で見、神ならばどうなさるかを考えるように私たちを招いておられます。神を中心とした協調と連帯だけが、私たちを真の連帯と一致に至らせます。神の愛のうちに住み、日々の生活や務めにおいて神を第一とする時に、また互いの違いに理解を持ち尊敬し合うならば、私たちは多様性における真の一致に向かって手を取り合って働くことによって、有益な変化をもたらすことができるでしょう。

旧約聖書において、イスラエルの民の連帯は、神への畏敬と家族の絆の上に成り立っていました。しかし、アブラハムを一人の父としながらも、イスラエルは幾つかの部族と王国に分かれていきました。モーセの律法を持ち、預言者たちから警告を受けながらも、イスラエルの民は神に従うことができず、そのような生き方をしてしまいました。その結果、彼らは本当の一致を獲得することができなかったのです。

ほとんどの国々において、一致あるいは連帯というものは、血縁関係、あるいは同じ行政区域や地理的区域に住んでいるか、あるいは同じ言語を使っているか、あるいは同じ信仰を持っていたり、同じ宗派に属していたりするかに大きく左右されます。それらのつながりを持たない場合、多くはよそ者と見なされ、受け入れられず、多少の会話すらできないのです。そうした態度は、混乱や差別、部族主義、憎しみ、戦争を生み出します。私たちは、唯一の神の子どもたちがいかにして互いを破滅させ、傷つけあったかというよくない経験を思い起こすことができます。

しかしイエスは、私たちに新しいつながりを与えて、恵み無き人々、あるいは誤解されていた人々を含む全ての人々を、神の愛の神秘のうちに置いてくださいました。神は新しい世界を見たいと願っておられます。神と和解し、互いに和解し合った新しい民を見たいと願っておられます。私たちは他者をかけがえのない存在として尊重することが必要です。マタイによる福音書7章12節に『だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である』とあるように。

神は私たち一人ひとりにすばらしい賜物(たまもの)を与えてくださいました。それらの賜物を互いに分かち合い、感謝しなければなりません。未来は私たちの手の中にあります。今私たちが共に建設的な貢献をするなら、来たるべき世代を分裂と混乱から救うことができるでしょう。

一致は、イエスが大司祭としておささげになった主要な祈りの一つでした。たとえ信者が互いを裏切り、殺し合ったとしても、真の信仰と謙遜によって和解することができます。謙遜と神の愛は、憎しみと妬み、分裂を克服することができるのです。

お互いによく分かっているように、私たちは伝統や礼拝様式が異なっていても同じ信仰を生きていますが、かつての教父たちは、異なる宗教を持っていると考えました。私たちの時代において、そうした過去の問題はより良く理解されるようになりました。カトリック教会、正教会、プロテスタント教会それぞれの多くの人々が信者として一致しようと努力しています。けれども同時に互いの信仰告白の点で新しい問題が見受けられます。今日、キリスト者たちが同意できず、ばらばらになっている状況は、政治的選択においてだけでなく、キリストに対する理解においても、また、私たちの時代にキリストのみことばをどうすれば最も良く伝えられるかということへの見解においてもあります。

エキュメニズムとは、真実の和解に向けて努力することであり、キリスト教会の一致をもたらします。そのためには、教会の内的一致を脅かす新しい不和を乗り越えていかなければなりません。私たち皆が、全てのキリスト者の一致と、キリスト者でない兄弟姉妹方との一致に向かって働くならば、私たちは神が切望されているように、愛とは誰であるかを悟ることができるようになるでしょう。皆さん全てに神の祝福がありますように。