背を向けるのではなく、喜んで私を受け入れなさい
1988年9月15日 in ノート28
主よ?
私です。
どうして多くの聖職者たちは、このところ与えて下さるあわれみ深いしるしが分からないのでしょう? 主よ、この方たちがなんて言っているか、ご存じですか? これを本当の信仰ではないと、言い換えると、「しるしがなくても、すでに私たちは回心している、だから印など私たちは要らない、だから神よ、もうこれで私たちは沢山です、こういった特別なことには興味がない」と。
顔を地に伏せ ひれ伏して、「限りない慈しみにより 神に栄光! 主に賛美! 真に聖書を成就されています!」と主に叫んで言うかわりに。本当の信仰といっても、聖霊を追いやってしまったら何になるでしょう? 彼らの議論はこうです、「イエスがトマに、〈見ないで信じる者は幸い……〉と言われたではないか」。聖書では、「決して霊を抑えてはならない、預言の賜物を軽くあしらうことも許されない」とも書かれてあるのを忘れたのでしょうか。―――そして聖霊は気ままに吹かれます…… ―――この人びとが議論する時、実はあなたと議論しているのだと気がついていないようです、わが主よ。
私の子よ、諸国民に向かって大声で叫びなさい、皆に聞こえるように、叫びなさい! 「あなたたちの神はここです! 神はともにおられ、決して見捨てられたのではなく、牧者として群れを養い、み腕の中に小羊を集めに来られました、み国が近いからです」と。私の小さな群れを養い、大きな愛をもって皆を集めよう、私の腕の中に。
彼らはあなたのしるしには関心がなく、それについて聞いてもファイルに閉じてしまいます。しるしをお止めになるようにと言いたげです。
私は誰の助言も要らない、こういった助言者は一人も要らない。その知恵は私にとって恥ずべきもの、あなたたちを測り、
養えないとでもいうのか? 悲しいかな! 私の霊を喜んで迎える者はほんの一握りに過ぎない。私に反対する精神を持てば、私を見捨てることになると理解しているだろうか? そして見捨てるなら、
真理を見落とすと。
陶土は陶芸家に「何を作っているのか」と尋ねるだろうか? 私のわざとその神秘を受け入れて、霊の与えるものを謙虚に受けなさい、今の時代にしるしを増やしているのは、私の意思による。だから聖霊の賜わるものを、歓んで受け取りなさい。背を向けるのではなく、喜んで私を受け入れなさい。感謝しなさい、顔を向け、私だと気づきなさい! 私の霊を抑えてしまわないように、むしろ私を歓迎してほしい! 私の霊を抑えてしまう者たちは災い、あなたたち、目の見えない案内人は災い、虚栄心でふくれ上がり、私の聖なる教会を荒廃させてしまった! 自らを調べ
歓んで私を受け入れなさい、背を向けるかわりに
自分が真の信仰に立っているかを確かめ、こうして真実を求めなさい!
祭壇よ! 主である私は最後まで、
その炎を燃え立たせておく、私のわざはまだ完了していない。さあ、来なさい、「私たち」?
永久に、アーメン。