悪魔はあなたを自分のもとに引き戻したいのだ

1987年5月18日 (ノート11)

(イエスが望まれたので、六時半に聖体拝領に行きました。ミサの中間あたりで、イエスが私に話し始められました。パンをいただいた時、まるでむち打ちでがれ落ち、引き裂かれた肉片1が口の中にあるように感じました。昨日受けた感じとはまるで違っているので、不思議に思いました。今日は違うのです。イエスは日によって違う印象を与えておられるようでした。)

イエス様?

私だ。
 私を愛しなさい、私に近づきなさい。あなたが私を受ける度に違う印象を与えよう。ヴァスーラ、あなたが遠くにいると私は悲しむ。

(そのとおりです。疑いの「波」が時々私を覆い、心の中で主ではないと思い、主と話すことや主と会うことを拒んでしまうのです。主のお姿を避けたり、主と語ることを避けたり、主が教えてくださったことを何もかも遠ざけたりしてしまいます。私の想像によって錯覚を起こしているのだと、自分に言い聞かせようとしてしまうのです。)

あなたは私を悲しませている、愛する者よ。あなたが私を追い出し、はるか遠くに離れたように見えるとき、あなたは私に背いている。そのすべての背後には悪魔がいることを理解しなさい。悪魔は必死であり、私の与えた恵みは何もかもただの想像だと信じさせたいのだ。私の天からの教えを何もかも忘れさせたがっている。あなたを自分のもとに引き戻したいのだ。
 あなたがはるか遠くに離れたように見えると、私は心配する。あなたを心配する。羊飼いは一匹の羊が群れから迷い出たのを見て、ただそこに座っているだろうか? 良い羊飼いなら、その羊に駆け寄り、捕まえて、もとの場所に戻すだろう。
 あなたがさまよっている姿を見たら、私は放ってはおかない。あなたのもとへ駆け寄り、あなたを捕まえよう。私の方に引き寄せる。小さな子よ、寒いときは私のマントであなたを包もう。落ち込んでいるときは、私の胸元にまで引き上げて食べさせよう。あなたのためにしないことなどあるだろうか。

イエス様?

私だ。

どうしてこのようなお恵みを私に下さるのですか? どうして?

与えたいと思う者に自由に与えさせてほしい。

でも、他の人と違いたくありません!

ヴァスーラ、あなたは私を受けようとしている、あなたを使わせてほしい。あなたを解放すると言わなかっただろうか?

理解できません。

私は多くの魂を鎖から、悪魔の鎖から解放したい。あなたを一つの道具として用いている。私のわざを誤解しないように。私の訴えはあなただけのためではない。私の平和と愛の訴えは、全人類のため!

はい、主よ、でも友人たちにこのことが知られるのは少し気まずいです。彼らの中には、私を見て「あなたは特別扱いされているのね」などと言う人がいるので、気まずいのです。最悪の気分になります。

娘よ、最悪の気分になりなさい、そのみじめさのゆえに選ばれたということに。功徳のゆえにあなたを選んだのではない。前にも言ったが、あなたには功徳は全くない、主の口から出る言葉は真理以外の何ものでもない。しばしば来て、私に向かって悔い改めなさい。覚えておくように、あなたを私の他の子どもたちよりもひいきすることなどないということを。

分かっています、イエス様。だからこそ、あなたの下さったこのお恵み、つまり、いつでもお呼びしたいときにあなたをお呼びできるというこのお恵みに、戸惑いを感じるのです。

ヴァスーラ、ヴァスーラ、私は最もみじめな者にさえ与える。私の心が無限のあわれみとゆるしであることを、あなたの友人たちに知らせなさい。私がどうやって死者さえもよみがえらせるかを知らせなさい。私を否定する者たちでさえも、どれほど愛しているかを知らせなさい。

イエス様?

私だ、愛する者よ。

何を言えばいいのか分かりません。

私を愛していると言いなさい。

あなたを愛しています。あなたはそれをご存じです。

愛している、娘よ。そうだ、あなたがみじめであっても。覚えておきなさい、私に話しかけなさい。私はあなたの伴侶。私と分かち合い、私と会うときはほほ笑みなさい。

はい、イエス様。まさに私の存在そのものがあなたに逆らっているのを感じます。自分が何度も同じことを繰り返していることも分かっています。どれほど私に耐えてくださっているのでしょう……

あなたを愛している。

私も愛しています。

私を感じなさい。私の目を見つめるように2。そう、覚えておきなさい、娘よ、私はあなたの聖なる父。さあ、一緒に行こう。

  1. 私たちのいただく御聖体はただのパンではなく、本当にキリストのおんからだであり、私たちはそれを受けているということをイエスは教えておられました。
  2. 主を見つめました。御目には深い悲しみがありましたが、愛に満ちあふれていました……。