預言者たちも私の体の部分である

1989年4月2日 ノート32

主よ?

私である。幼子のような信仰の目で、私を見つめ、私の教会を美しく飾りなさい。

主よ、この時代の預言者と、主の与えられた御言葉を受け入れるのが、人によってどうしてこれほど難しいのでしょう?

はっきり言っておく。私の羊たちは私の声を聞く。

けれど主よ、大きな罪人による回心や癒やしを、懐疑的な方がたに証明できても、こういった果実があっても、まだ、納得していただけません。

私のヴァスーラ、目の前で誰かが復活したとしても、彼らは納得しないだろう……こうした者たちに対しては、イザヤの預言がいまだに有効である1。あなたたちは聞くには聞き、再び聞くが、理解しない。見るには見て、再び見るが、気づかない。この民の心は頑なになり、耳は鈍く、目を閉じてしまったからだ。目で見、耳で聞き、心で理解し、回心して、私に癒やされるのを恐れて。多くの人が、私の預言者たちも、私の体の部分であるのを忘れている、実に私は、皆で一つの体となるように、一人ひとりに恵みを割り当てた。最愛の子よ、ある者を使徒に、ある者を司祭や教師に、そしてある者を、反逆の時代に、預言者として形造った。それなのに、どうしてあなたたちの多くは私の預言者たちに驚き、受け入れようとしないのか? 体の一部が切り捨てられるなら、私の体はどうして機能できようか? 私は疲れ果てた、私の体は、絶え間なく傷つき、引き裂かれている。花よ、愛をもって、迫害者たちを受け入れなさい。裁かないように、私の預言者たちは、常に迫害を受け、裁かれ、鞭打たれ、押さえつけられ、町から町へと追われ、軽蔑の目で見られ、磔にされよう、こうしてあなたたちは、地上で流されたどの聖者の血も、己れの身に引き受けることになろう。聖書は決して偽らない。私は言葉である。来なさい、私の子よ、煉獄の魂たちをあがなうように、あなたを形造った、祈りなさい。花よ、祈りが煉獄の魂たちにどれほど影響を及ぼすかを知らないだろう、祈りによって彼らの火を消してあげなさい。彼らに代わって償いなさい。来なさい。

  1. イザヤ6・9─10。