(スイスにいる間、この先わが家はどこになるのだろうと思っていました。まだ住む場所を探していたのです。歩いて、歩いて、歩き回って。)
私の現存を感じなさい。
(イエスが御自身の聖心を指さしておられるのが見えました。)
あなたの家はここだ……私の心の真ん中にある。娘よ、魂たちを私のもとに引き寄せることによって、私の栄光をたたえなさい。
(私の姉がこのメッセージのことを初めて知りました。最近の五冊を読んだのです。その影響で、姉といとことの間で八年間続いていた家族同士のいざこざが収まり、仲直りしたのです。彼女たちはまた元の仲良しになりました。私はひと言も口出ししませんでした。そして、姉は自分の住んでいるロードスに帰って行きました。
帰宅した日の夜、姉がそのことを姉の夫に話すと、姉よりも義兄の方が衝撃を受けました。姉と義兄はその晩、一緒にノート5と6を読みました。それから二人は眠りに就いたのですが、義兄は眠れません。彼は祈り始め、神に罪のゆるしを乞いました。すると奇跡が起きたのです。神は彼に、私が見た幻(ビジョン)と同じものをお与えになったのです! 美しい園と、周囲を取り囲む何百万もの天使たちに守られているあの「太陽」をお見せになったのです。神は私のときと同じように、彼をあの丸い光の中に入らせられました。神の現存を間近に感じた時、彼は震えて涙を流し始めました。姉を起こしてそのことを話すと、姉は仰天しました。二人は私にそのことを話すのに、翌朝まで待てなかったほどです。
──さてそれから、私はそれまでずっとほしかったエノックの本を買い、読み始める前に、102ページのところを開いたのです。何気なくそうした時、私が見たものは何だったでしょうか? 私が見たものと全く同じ幻(ビジョン)を、エノックも見ていたのです。何千もの天使たちに守られた明るい丸い光を! 偶然にしては度が過ぎています。なぜなら、この幻(ビジョン)は3月26日にバングラデシュで見たものだったからです。パリにいた1987年4月11日にも、図書館で本を探していた時に『メタノイア』という本にうっかりつまづいて、その表紙に目が奪われました。表紙の絵が私の幻(ビジョン)と全く同じものだったからです。それはエノックのとも、また義兄のとも同じものでした。天使たちに守られた丸い光です。姉が帰った後、再び神に手を委ねて書きました。すると神は、ストラートへのメッセージを下さいました。)
私の小羊たちを愛している。私の小羊たちを一つにしなさい。私のメッセージを読む者は誰でも、私のパンを食べるであろう。私からしるしを得る者は誰もが、私が恵みで照らしたいと望む者たちである。私のしるしを描きなさい。
イクトゥス
ヴァスーラ、この導きを要約して、私のメッセージを書き直しなさい。あなたを照らして導いてあげよう。繰り返されたものは皆、あなたの教育のためだ。あなたにはそれが必要だった。
私のメッセージは、平和と愛と呼ばれることになる。
(ひどいものです。自分があまりに現実的で、あまりに疑い深くて。今日もまた、この出来事が起こっているのを疑ってしまうのです。彼らはあんなに完全に信じ切ることができ、安定した状態でいられるのに、なぜ、どうして、私はこんなにも不安定なのでしょう? 自分の手を自分の意志で動かせないことも、神が私の手をお取りになるときにはどれほど自分が無力になるかも、神がどのようにして私の手を使って鉛筆で一気に書き上げられ、私がほとんど触れてもいないのに鉛筆を動かすことがおできになるかも良く知っているというのに。それは私に起きている事実であり、神は多くの証拠も示してくださいました。それなのにどうでしょう、いまだに疑いの波が! それに、もしかしたら私は皆を間違った方向に導いているかもしれないと、何度も思ってしまうのです! この導きの中には、私には計り知れないことがあまりにもたくさんあります! しかも、まだ出版すらされていません……)
愛する者よ、私はヤハウェ。あなたの弱さを私に差し出し、私の強さがそれらを滅ぼし尽くすようにさせなさい。
(神は私に対してどれほど忍耐強くあられ、我慢しておられるでしょう……おそらく私が疑ってしまうのは、自分自身のせいです。なぜなら、私は自分のことをよく知っており、超自然的な方法で神に近づき、メッセージを受けた人たちと自分とを比べてしまうのです、彼らはどれほど善良で、献身的だったでしょう。そのことが私を打ちのめすのです。昼と夜とを比べるようなものです。それでも、一つだけ確かなことがあるのを認めます。少なくとも私は、神を深く愛しています。それは私の想像の産物だとか、あるいはある司祭が言ったように、悪魔が人の脳に吹き込むことができるものだとか言うことは、誰にもできません……。もし私が弱くて、耳に入ってくることを何でもそのまま聞き入れていたら、私は押しつぶされていたでしょう。今日、(フロイトを学び始めたばかりの)ある女性に、これはすべて私の無意識下にある、神への愛の強迫観念だと言われました。ばかばかしい。彼女にとっては、もし私たちが神を本当に愛するとしたら、それは心理学的には病気だということになるのでしょうか? でも、彼女の理論にも、フロイトの理論にも、私の心は全く動かされません。第一に、神はあらかじめ、そのような理論で私が非難されることを警告してくださっていましたし、それに、私は特にフロイトを好まないのです。彼は無神論者であり、ユングですら彼のもとを去ったのですから! フロイトにとって、私たちはただの物体にしか過ぎないようです!)
私の子よ、人々はいつでも人間的な方法で裁いてきた。私はあわれみと愛に満ちた神だが、ほとんど理解されていない。
でも主よ、あなたは「全く役立たずな者」をお選びになりました。それが私に疑いを引き起こすのです!
あなたも私の娘だ! あなたたちの間で最悪の者をさえ、私は愛している。